閑話 食卓の変化
過去
リィナは目の前の皿をじっと見つめていた。
粗末なパンと、具の少ないスープ。
奴隷として与えられる食事に比べれば、はるかにマシなものだった。
だが、それでも彼女は手をつけられずにいた。
「急に2人になったから1人分の食料しかなくてな……食わねぇのか?」
向かいの席で、カイルがスープをすすりながら言った。
肘をつき、パンを適当にちぎって口に放り込む。
まるで食事そのものに興味がないかのような雑な食べ方だった。
リィナはびくりと肩を震わせ、すぐに小さく首を振った。
「いえ……いただきます」
そう言ってスプーンを手に取る。
だが、指がわずかに震えていた。
音を立ててはいけない。
口に運ぶスピードも気をつけないといけない。
少しでも粗相をすれば、何をされるかわからない──
かつての環境が、そう教え込んでいた。
カイルの機嫌を損ねないように、慎重にスープをすくう。
静かに、そっと唇に運び、一口だけ飲み込んだ。
……思ったよりも、温かかった。
その瞬間、少しだけ目を見開く。
ずっと、冷えた食事ばかりだった。
温かいものを口にするのは、どれくらいぶりだろう。
だが、すぐにその感慨を振り払う。
気を抜けば、また痛い目を見るかもしれない。
カイルの顔をちらりと窺う。
彼は何も気にしていないように、ただ黙々とスープをすすっていた。
その顔からは、彼が何を考えているのかまるでわからない。
「おい」
カイルの低い声に、リィナの肩が跳ねた。
「そんなちまちま食ってたら、腹が膨れる前に冷めるぞ」
リィナは反射的に顔を伏せる。
「……すみません」
「別に怒ってねぇよ。ただ、ちゃんと食え」
カイルはそれだけ言うと、またスープを口に運んだ。
リィナは、おそるおそる彼の顔をうかがう。
本当に怒っていないのか、それとも何か裏があるのか──
奴隷として生きてきた経験が、疑うことを教えていた。
だが、カイルの態度は変わらない。
リィナは困惑しながらも、再びスプーンを持ち直した。
──”ちゃんと食え”。
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかっていた。
何気ない一言なのかもしれない。
しかし、それが誰かに向けられた”気遣い”のようなものだと気づくには、彼女はまだ幼すぎた。
リィナは慎重にパンを手に取る。
カイルがこちらを見ていないのを確認してから、小さくかじった。
温かいパンが、ゆっくりと喉を通っていった。
現在
「カイルさん、それ口にソースついてますよ」
食卓に向かい合いながら、リィナはくすくすと笑った。
「ん?」
カイルは眉をひそめ、指で口の端を拭う。
「……取れたか?」
「逆です、逆」
「ちっ……面倒くせぇな」
カイルは不機嫌そうに舌打ちしながら、手近な布で口元を拭った。
リィナは少し呆れたように息をつき、スープを口に運ぶ。
かつて、恐る恐るすくっていたスプーンは、今では自然に持たれていた。
「ちゃんと食えてるか?」
ふいに、カイルがそう尋ねる。
「え?」
リィナは少し驚いて彼を見た。
「お前、昔はちまちま食ってたろ。食事なんて無理して食うもんじゃねぇんだからな」
カイルは何気なくそう言うと、適当にパンをちぎり、スープに浸して口に運ぶ。
リィナはその様子を見て、ふっと微笑んだ。
「……大丈夫ですよ、カイルさん」
「そうかよ」
「むしろ、カイルさんのほうがちゃんと味わって食べてます?」
「食えてりゃ十分だ」
「私には品性を求めるのに、自分は気にしないんですね」
「細かいな、お前は」
軽口を叩き合いながら、二人はそれぞれの皿に手を伸ばす。
「そういえば」
リィナはふと、昔のことを思い出して言った。
「私、最初は食事のとき、すごく緊張してました」
「だろうな」
カイルは淡々と答える。
「……カイルさんが、ちゃんと食えって言ったんですよ」
リィナは少しだけ、懐かしそうな目をした。
「……そうだったか?」
「えぇ。覚えてないんですか?」
「どうだったかな」
カイルはとぼけるように煙草を取り出し、火をつける。
「まぁ……今のお前は、そんなこと気にしねぇだろ」
リィナはスープをすくいながら、柔らかく笑った。
「そうですね。……カイルさんと一緒にいると、食事も楽しいですから」
カイルは煙をくゆらせ、ちらりとリィナを見た。
「……そりゃ良かったな」
リィナは頷き、ふとカイルをじっと見つめた。
「……そういえば、カイルさんって意外と料理できますよね?」
「適当に作れるようになっただけだ」
「それって、誰かに教えてもらったんですか?」
カイルの指が、かすかに止まる。
「……昔な」
リィナは少し驚いた顔をした。
「そうなんですか? じゃあ、今度私にも教えてください」
カイルは呆れたように笑い、肩をすくめた。
「俺が教えるのかよ」
「だって、カイルさん、意外と手際いいですし」
リィナは無邪気に笑う。
カイルは少しだけ目を伏せ、灰皿に煙草を押し付けた。
「……まぁ、気が向いたらな」
変わったことと、変わらないこと。
それらがゆっくりと絡み合いながら、二人の食卓は続いていく。
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