プロローグ
そこは<地獄>だった。
尤も──。少女はそこが地獄だとすら知らなかったが。
仲間が。家族達が。そこで死んでいた。
生き物から、ただの物に成り下がったモノたちは──。凄まじい速度で綻び、腐り、溶けて。泥へと変わる。
腐敗した肉の水溜り。腐肉の湖。死の海。膿。
腐った汚物に消毒液と消臭剤を吹き散らした様な臭いが、鼻腔を突き刺す。
もそうなる。しもそうなる。
あたしもそうなる。いずれ、きっと。
それは当たり前だった。
でも、だから、願って、祈った。
そんな小さな手を、祈りを。ちょっと大きな掌が包み込んだ。
救い出してくれる手。自分よりかは大きくて優しい背中。
闇の中で走る足音。引かれる身体。
不意に、暗闇の中で力が消えて。だらりと少女の身体ごと、力なく闇の中に落ちる。
優しい背中は、消えていた。
倒れた小さな少女には、手だけが。その小さな手には、まだ手が握られていた。
そして、意識を手放して………救われる様に、その小さな身体は誰かに拾い上げられて───。
───ふぅ、と息をひとつ。部屋から出たエリエルは天を仰ぎ、少し目を瞑る。
思ってるよりずっと、異常なモノをあの子は背負っているみたいだ。
……どれだけの事をしてあげられるだろうか?
不安はあるが、とりあえず今はまだ大丈夫。だと思う。
よし、と一言。エリエルは階段を降りて厨房へと向かう。
芳ばしい香りが鼻腔を満たす。
パンの焼ける匂い。丁度いい感じだなと、エリエルは思った。
「…………あの子、落ち着いたか?」
のほほんとした調子で厨房にやって来たエリエルに、丁度一仕事終ったキールは軽く息を吐いた。
「まぁ、一応。ただ、あの子は随分とヘビーそうですねぇ」
そう言って、エリエルは少し目を細めた。
「……あの子、ブイって名乗りました。でも、ブイって言うのはどうやら、番号の事らしいです」
番号、という単語に、キールもまた顔をしかめた。
「……それは、なんというか……想像してたより、ずっと……」
言葉に詰まっているようだ。平和な世界で暮らしてきた自分たちにとっては、余りにも、場違いすぎる。それはエリエルも言葉にせずとも、感じていることだった。
「未来は現実的ですか?」
「車もしばらく、空を走る予定もなさそうだしな」
茶化すエリエルに、応えるキールは珍しい反応だ。
「もう少ししたら、迎えに行きましょうか。ブイちゃんを」
エリエルはいつも通りの笑顔でおどけて見せたのだった。
〈ラビットレコード〉
プロローグ『脱兎』