第一話② 異世界に来たら真っ先にやること
起きた直後は身体が鉛のように重くて、しばらく動けなかった。だから視線だけ動かして状況を確認した。
木々のざわめきと鳥のさえずりしか聞こえないような静かな森だ。陽光が温かく、凍える心配はなかった。体感だが、多分春なのだろう。見れば、地面の所々に小花が咲き、美しい抽象画を見ているようだった。
ひとまず状況に問題がないとわかると、次は身体のことである。車に轢かれたと思い出した時はゾッとしたが、出血や怪我はない。衝突した右半身を撫でたが、痛みはなかった。ただ身体が重いのだ。それも長く眠りすぎて身体が強張るような、そんなダルさ。問題なく起き上がれるとわかると、不安も霧散した。
「なーんだ、全然無事じゃん!」
ためしに立ち上がっても、その印象は変わらない。ピンピンしている。思わず大きな独り言がこぼれた。むしろ熟睡したせいで、いつもより身体の調子がいい気がする。……とここまで思い至って、ある嫌なことに気づいた。
「あれ、もしかして死後の世界だったりする?」
見知らぬ世界に飛ばされたため、勝手に異世界だと思っていた。しかし森なんてどこの世界にもあるし、異世界じゃない可能性の方が高い。むしろ轢かれたんだから、死んで当然だろう。怪我がないのが何よりの証拠だ。
「ど、どど、どどど、どうしよう!」
その絶叫に合わせるかのように、遠くで遠吠えがした。そして遠吠えに反応してか、さらに大きな咆哮が聞こえた。
見れば、空に大きなドラゴンが漂っている。どうやら通りすがりのドラゴンらしく、一声鳴くと森の彼方にすーっと消えていった。
「うん、やっぱり異世界だわ!」
しのぶはこれ以上考えるのをやめた。
さて、異世界とわかれば、しのぶは俄然やる気が出てきた。ドラゴンが普通に空を飛んでいるのだから、きっと剣と魔法の世界に違いない。中世ヨーロッパに酷似した世界で、冒険者たちが夜な夜な酒場で飲み明かしているに違いない。
かつて自分も憧れたゲームの世界に飛び込めたことが、何よりも嬉しかった。そう、しのぶは中二病患者だったのだ。本人曰く、十代で卒業したらしいが。
「あ、もしかして、めっちゃ魔法が使えるかも!」
そう思い至ったしのぶは、嬉しさのあまり身もだえた。自分がかっこよく風を操る姿を夢想して、さらに身もだえした。かつて好きだったアニメのキャラクター、ラインハルトは風を操る天才魔法使いだった。今その姿を自分の身で再現したい。気が付くと、しのぶは右手を差し出して呪文を唱えた。
「響け、風の声よ。旋風で我が願いを成就せよ。シルフィール!」
無風。そして静寂。つまり何も起こらなかった。
しのぶの顔は真っ赤になった。ラインハルトを真似して決め決めで唱えたので、恥ずかしさは何倍にもなって返ってきた。
それからはやけくそだった。思いつく限りの魔法の呪文を唱えたが、時間が過ぎていくだけ。次第に日が暮れて、熱かった体にも風の冷たさを感じるほどになった。
「やば、今何時?」
転移時に壊れたのか、スマホは黒い画面のままでちっとも使えず。ただ西の空がほんのり赤くなって、現代人にも「そろそろ夜がくるな」と気づけるほどだった。
「まずい、今晩どうしよう」
いっきに「これから先」の現実が押し寄せてきた。
今晩はどうやって過ごそう。
モンスターに襲われはしないか。
今夜の食事はどうしよう。
食べ物を買うにしても、お金はどうしたらいいか。まさか日本銀行券という名の紙切れが通用するとでもいえようか。しかも最近はキャッシュレス中心で、現金をあまり持ち合わせていない。頼みの硬貨も少ない。最後も買い物でかなり使い切った覚えがある。
最悪、今は春だから、食べ物は収集できるかもしれない。それより水だ。現に今、呪文の叫びすぎで喉が渇いている。ああ、トートバッグに水筒を入れておけばよかった。出先でコーヒーをテイクアウトすればいいなんて、私は貴族か。上級国民か。
なんて思い巡らせてもしょうがない。だが何からしていいかわからず、しのぶは煩悶していた。
「ひとまず第一村人を探そう」
そう思い、何気なく振り返ったしのぶ。すると背後の茂みの中に見知らぬ青年が立っていた。