第74話 校外実習Ⅳ
「殿下、アベル様の班が……野犬に襲われているようです」
シドが低く報告した。
私たちはクロエたちから見えない木陰で息を潜めていた。
「フレデリクがアベルの方に向かったのであれば、あちらの心配はないだろう。事前に先生の配置も確認してある。十数名は周囲にいる」
「ですが……それほどの警備があるのに、野犬が侵入してきたのは不可解です」シドが眉を寄せる。
「襲われたとしても、アベルの腕ならそう簡単にはやられない」
「……となれば、狙いは別」
マクシムが何気なく口にした。
「クロエ様たちが洞窟に身を隠されたのは、護衛が少ない今の状況では当然ですよね」
私とシドは顔を見合わせた。
「クロエ!!!!!」
私は迷わず、クロエたちが入っていった洞窟へ駆け込んだ。
◆
湿った冷気と石の匂い。足音が反響し、奥で短い悲鳴が弾ける。
「きゃーっ!」
なんだ――? 奥へ急いで進むと、男爵子息の前に一頭の野犬がいた。少年の背にはセリーヌと黒髪の見知らぬ令嬢。そして、その間でクロエが崩れかけている。
「……大丈夫か!」
私は一息で間を詰め、令嬢からクロエをそっと引き離して腕の中に抱きとめた。
「クロエ! クロエー!」
「第、第一王子殿下……!?」セリーヌが目を見開き、
「第一王子殿下が、どうして……」黒髪の令嬢も息を呑む。
男爵子息は蒼ざめて剣を握りしめ、「お、お守りします!」と声を張ったが、膝がわずかに震えている。
腕の中で、クロエは力を失っていた。
「クロエ……!」その名を呼んでも、閉じられた瞼は動かない。首筋に浮いた冷たい汗が、こちらの心臓まで冷やす。
「クロエは野犬に襲われたのか? どこか怪我を――」
「いえ、クロエ様はこの洞窟に入ってから急に具合を悪くされたのですわ。どこも怪我などしておりません……(あ……)」
セリーヌは、クロエが手を火傷していたことを思い出したらしく、言い添えるのを飲み込んだ。
(――急に、どうした。何が彼女を縛る?)
もう、彼女を苦しませたくないのに。どうして運命はクロエばかりを試す。
「殿下……数匹、奥に気配」マクシムが険しい声で告げた。
低い唸りと、岩を掻く爪の音がじりじり近づく。
名残惜しいが、まずは生き残らせる。
「セリーヌ嬢、それと……そちらのご令嬢」 黒い瞳の少女がびくりと肩を揺らす。
「はいっ、クラリス・ド・モンテーニュです!」
「失礼、クラリス嬢。――クロエを頼む。君たちなら必ず守れると信じている」
できる限り柔らかく微笑む。
「もちろんです!」セリーヌが即答し、
「お任せください……!」クラリスも真剣に頷いた。
二人の頬に赤が差す。
(セリーヌは心臓が痛いほど高鳴っていた。殿下が私を信じてくださった……クロエ様を守れと任されることが、こんなにも誇らしいなんて――)
(クラリスは呆然としていた。怖くない……むしろ安心する……。あの微笑みを忘れたくない――)
◆
「殿下、外からも気配が――!」シドの警告。
「心配するな。俺がすべて斬る」
私は一歩、前へ。鍔鳴りとともに剣を抜く。冷たい光が洞窟を走った。
「……来るぞ」マクシムが声を張る。
男爵子息――少年の手が震える。
「名は?」私は目を離さず問う。
「リ、リュシアン・ベルモントと申します……!」
「勇敢だ、リュシアン。君がここを繋いだ。後は見ていろ。君たちを必ず守る」
(その瞬間、リュシアンの胸に熱が広がった。震えているのは情けないと思った……でも、殿下が僕を勇敢だと言ってくれた……。認めてくれたんだ……!)
闇が牙を剥いた。
「退け――!」
一閃。刃は弧となって走り、月光の綾だけを残す。血飛沫は花片のように舞って、土へ落ちる前に空気へ溶けた。
ひと足、半歩、先を斬る。唸りが起こる前に軌道を断ち、音を立てる隙を与えない。
「右、二!」とシド。
「受けた」私は刃を返し、入りかけた喉をなぞるように浅く断つ。倒れる前に、もう一匹の首を無音で落した。
「殿下、左は私が!」マクシムの声。赤髪が揺れ、確実な一撃で突きを止める。
「良い。――シド、私の背を」
「御意」
舞う。踏み、捌き、抜き、納める。
剣戟のただ中に、恐怖がない。動きの継ぎ目で一切の淀みを許さず、刃はただ美しさだけを残していく。
「……すごい……」クラリスが小さく零し、セリーヌは息を止めたまま目を見開く。
(セリーヌは思った。怖いはずなのに……殿下の背を見ると安心する……)
(クラリスは胸を押さえた。ずっと見ていたい……この剣を、この人を――)
リュシアンの膝の震えが、わずかずつ収まっていく。
(見ていたい……ずっと。あの背に、仕えたい)
芽吹いた感情に自分で驚きながら、彼は剣を握り直した。
洞の奥で最後の一頭が跳んだ。
「終いだ」
私は一呼吸先を斬り、刃を払う。吠え声は上がらない。沈む音だけが、静かに響いた。
◆
「殿下、外は静かです。気配消失」シドが耳を澄ませて告げる。
「よし。――出る」
私は剣を納め、真っ先にクロエのもとへ戻った。石壁に凭れ、目を閉じる横顔は、眠る少女のように頼りない。
「クロエ」 腕を差し入れ、軽やかに抱き上げる。軽い。軽すぎる。胸の奥がざわめき、思わず抱き締める腕に力がこもった。
セリーヌが裾をすっと持ち、クラリスが乱れた髪を押さえる。
「助かる。二人とも、無事でよかった」
「はい。殿下……クロエ様を」
「任せろ」
君を、離さない。
胸の内でそう言い聞かせ、私はクロエを抱いたまま出口へ向かった。
◆
洞窟を抜けた途端、森の風が頬を撫でた。
「――クロエ!?」
「それに殿下が何故ここに?」
鋭い声が射す。フレデリクが蒼白な顔で駆け寄ってきた。
彼の視線の先、私の腕に身を預けるクロエ。
「クロエが……倒れている……?」
剣の柄を握る手が震え、今にも抜きかねない激しい感情が迸る。
「落ち着け、フレデリク」
私は一歩進み、低く制した。
「俺がついている。彼女は、私が守る」
リュシアンが震える声で口を開いた。
「洞窟内に野犬がいて、外からも……殿下たちが来てくれて助かりました……僕一人じゃ……」
瞳から涙が溢れ落ちる。
「リュシアン、君は勇敢だったよ」
私は優しく応えた。
「殿下、班を守っていただき感謝します」
フレデリクは片膝をつき頭を垂れた。……だがクロエを危険に晒したという事実を、彼自身が許せない。握り締めた拳がその悔恨を物語っていた。
「フレデリク達が帰って来たということはアベルは大丈夫なんだな?」
「はい……全員無事です」
「そうか、アベルを助けてくれて二人ともありがとう」
第一王子からの礼に、ジュリアンは恐れ多いとより一層頭を垂れた。
「シド、周囲の再確認を」
「直ちに」
「マクシム、火を。風上に立たせるな。――リュシアン、二人を安全な位置へ誘導して休ませてやれ」
「は、はい!」
セリーヌは私の腕の中のクロエを見つめ、考え込む。
(私が倒れていたら殿下はきっと同じように抱き上げてくれたのかしら――。でも今はただ、羨ましくて……胸が高鳴る)
クラリスは胸元で手を握り、そっと息を整える。
(怖くなかった。殿下の剣を見ている間、怖くなかった……!)
私はクロエの体を崩さぬよう片膝をつき、耳元で囁いた。
「……安心しろ。ここにいる」
「フレデリク、クロエを救護班に連れていく。フレデリクもついてきてくれるか? 話がある」
フレデリクはきょとんとした表情になり、
「あ、はい」
「シド、みんなの護衛にここに残れ」
シドを残して、私はマクシムとフレデリクとその場を離れた




