第72話 校外実習Ⅱ
ジュリアン様の言葉に、その場にいた全員が固まった。
――アベル様……? 前世では野犬に襲われたなんて聞いたことがない。私が知らないだけで、そんなことがあったのだろうか。けれど、大きな怪我を負った話は聞いたことがない。もしそうなら、さすがに私の耳にも届いていたはず……。
もしかして、私が前世と違う行動を取っていることで未来が変わり、アベル様に影響が出ているのでは……? 思考が巡るほどに、血の気が引いていく。
「クロエ、大丈夫だよ」 横にいたフレデリク様が小さく笑みを浮かべ、私の肩に手を置いた。 「アベル様のことは私とジュリアンで助っ人に行くから。クロエたちはリュシアンと安全な場所にいてね」
フレデリク様は軽く、私の頭をぽんぽんと撫でる。 「それに……私達は守られているよ」 フレデリク様は優しく微笑んだ
「……大丈夫です。ご迷惑にならないように、私たちは安全な場所にいますし、きっと近くに先生方もいらっしゃるでしょうから」 私はその手をそっと払いのけ、努めて冷静に答えた。
守られている?…………
そう、これは校外実習。令嬢やご令息ばかりの集まりなのだから、近くに先生方がいないはずがない。アベル様の班にも必ず先生がついてくださっているはず……。
そこへ、クラリス様とリュシアン様が駆け寄ってきた。 「セリーヌ様、急にいなくなるから心配しておりました」 クラリス様は潤んだ瞳でセリーヌ様を見つめる。
「クロエさんが心配で見に行っただけです。私は大丈夫ですわ」 セリーヌ様は気丈に微笑んだ。
クロエさん……呼び方変えたのかな…私の方が爵位が下だし当たり前ね
でもやけどした私のせいで、みんなに心配をかけてしまったのかもしれない。
「セリーヌ様も、クラリス様も……ご心配をおかけして申し訳ありません」 私は手をひらひらと振って見せ、「大丈夫」と伝えた。
そんな私たちのやりとりを見届けると、フレデリク様は真剣な声で命じた。 「リュシアン。クロエたちを安全な場所へ。私とジュリアンはアベル様の班に合流する」
「はい、お任せください」 リュシアン様は即座に頷いた。「近くの頑丈な洞窟か、見通しの良い場所に移動いたします」
「近くに……洞窟がございますわ」 セリーヌ様が指さした先、黒々と口を開ける岩穴があった。湿った風が吹き出し、木々を揺らしている。 「ひとまず、あそこへ避難いたしましょう」
私たちが洞窟へ入るのを見届けると、フレデリク様とジュリアン様は駆け出そうとする。
「お待ちください、フレデリク様!」 セリーヌ様が裾を握りしめ、縋るように声を上げた。 「……リュシアン様だけで、本当に大丈夫でしょうか? どうしてフレデリク様が残ってくださらないのです?」
振り返ったフレデリク様の瞳は強い光を帯びていた。 「この国の王子が危険に晒されている。守りに行くのは当然のことだ。知ってしまった以上、見過ごすことなどできない」
「でしたら、わたくしも」セリーヌ様が前に出る。
「それはいけません、セリーヌ様!」 私は思わず声を張った。胸の奥に渦巻く不安を押し殺しながら。 「私たちがついて行っては足手まといになります。守られながらでは、お二人の邪魔になってしまうだけです」
フレデリク様がちらと私に視線を寄越し、短く息を吐いた。 「クロエ……ありがとう。君たちは大丈夫だよ」
大丈夫?まぁここは野犬の気配が今は無いけれども……
セリーヌ様は悔しげに唇を噛み、拳を握りしめる。 けれどフレデリク様とジュリアン様は迷いなく背を向け、闇へ駆けていった。
◆
洞窟の空気は重く、湿り気が肺にまとわりついた。 冷気が頬を刺すたびに、心臓が締めつけられる。
「こんな所に……?」セリーヌ様が不快げに眉を寄せる。
「ご安心ください」 リュシアン様は膝をつき、真剣な眼差しを向けた。 「セリーヌ様、クロエ様、クラリス様。どうか今だけ、私を信じてください。命に代えても、必ずお守りいたします」
セリーヌ様は驚き、そして小さく目を細めた。
私は無意識に発した……
「……ここ嫌だ……」
全身を襲う悪寒に、私は立っていられなくなった。 鉄と血の匂い、冷気と石壁。牢獄の記憶が重なり、視界が白く揺らぐ。 「は……あ……っ」 息が浅くなる。胸が苦しい。 足が竦み、視界が揺らぎ始める。
――暗い。冷たい。狭い。 石壁の匂い、血と鉄の臭気。
あの牢獄だ。 助けを待ち続け、独りで朽ちたあの場所が、目の前に重なっていく。
「クロエ様!」
リュシアン様が慌てて私の身体を支えた。けれど震えは止まらず、声も出せない。
「……クロエ様?」クラリス様の怯えた声が響く。
セリーヌ様は不思議そうに私の顔を覗き込む (……クロエ様、病弱だったの? もしそうなら……私の方が、ふさわしいのかもしれないわ) 心の奥で、そんな想像が甘く芽吹いていた。
◆
クラリスが顔を上げ震える声で 「今……奥から、何か声が……!」
洞窟の奥から低い唸り声が反響した。 湿った石を掻く爪音、鼻を鳴らす荒い息。――野犬。
リュシアン様は私をクラリス様に託し、三人を背にかばうように立ち塞がった。 剣を握る手は震えていたが、暗闇に向かって声を張り上げる。 「来るなら来い……! 僕は皆様を、必ずお守りする!」
野犬?……死ぬのかな……
みんな何も出来なくて……ごめ……
後ろから足音がした……
「……大丈夫か!」 鋭くも温かな声が洞窟に響いた。
「みんな無事か?」
誰かが助けに来たのだろうか……
けれど、もう私の耳には届いていなかった。 ただ強い腕に抱きとめられた感触と、胸をかすめたあの香りだけが残り……
私は、意識を手放した。




