第68話 運命の歯車
バンッ──。
倉庫の重たい扉が勢いよく開かれた。 舞踏会場の華やかな音楽と笑い声が一瞬だけ背後から流れ込み、すぐに扉が閉ざされると、そこは別世界のように静まり返った。薄暗い倉庫の中、高窓から差し込む月光が積み上げられた木箱を照らし、不気味な影を壁に伸ばしている。
中央では、マクシムが一人の男を床に押さえつけていた。男は必死にもがくが、鍛え抜かれた腕力の前には無力だった。荒い呼吸と埃の匂いだけが狭い空間を満たしている。
私は一歩踏み出し、冷ややかな声で問いかけた。 「問う。なぜクロエを狙った」
男は一瞬こちらを見て、すぐに視線を逸らした。唇を固く結び、何も答えない。
「……答えるつもりはないか」
低く告げると、シドが一歩前に出る。 「殿下。先ほどこの男は“セリーヌ”と口走りました。しかし直後に“リシャールの娘”とも……」
レオが険しい顔で頷く。 「狙いは姉上です。間違いありません」
私の胸に冷たい怒りが広がる。しばし沈黙したのち、声を鋼のように硬くした。 「……王宮へ連行しろ。拷問の上、斬首に処す」
空気が凍りついた。押さえつけられていた男がはっと目を見開く。 「ま、待てっ!!!」
焦りに満ちた声が倉庫の壁に反響する。 「ち、違う! 命までは狙っていない! ただ……ただ女の顔に傷をつけろと、そう命じられただけだ!」
レオが激昂する。 「姉上を……傷つけるためだけに、こんな真似を……!」
シドは冷ややかに目を細めた。 「顔に傷を……命ではなく未来を奪うつもりか」
男は肩で荒く息をしながら「本当だ」と繰り返すばかりだった。
私の脳裏に、忌まわしい記憶がよぎる。前の世界でもクロエは冤罪によって立場を奪われた。今度は顔に傷をつけ、伯爵令嬢としての未来を潰そうとしていたのか。嫌な符合が、冷たく胸を締めつけた。
「……やはり王宮へ連れて行け。背後関係を洗い出す」 私はマクシムを見据える。 「マクシムも同行せよ」
「承知しました」
マクシムは頷き、男を立たせると近衛兵と共に倉庫を後にした。重たい扉が閉ざされ、静寂が戻る。
残されたのは、私とシド、そしてレオ。
そのとき──レオがぽつりと呟いた。
「……また、この世界でも姉上が狙われるのか」
胸が強く鳴る。 今……何と言った?
苦しげな表情のまま答えを飲み込む。
私は目を細め、すぐにシドへ向き直る。
「シド。クロエを守れ。命に代えてもだ」
「御意」
シドは深く頭を下げ、倉庫を出ていった。
倉庫の扉が閉ざされ、残されたのは私とレオ。 静寂が部屋を埋め尽くす。
「レオ」 私の呼びかけに、彼ははっと我に返った。
「あ……」 先ほどの言葉は無意識に出たものだろう。
レオは床を見つめ、握りしめた拳を震わせている。
「レオに聞きたいことがある」 声をかけると、彼ははっと顔を上げた。
「……すみません、ルーカス様。僕、何か言いましたでしょうか」
「あぁ……。『またこの世界でも』とは、どういう意味だ?」
まさか……レオも前世の記憶を持っているのか? そんなはずはない。アルテミリオンの声は私にしか聞こえないはずだ。王家に代々受け継がれる加護、王か王位継承者だけのはず……。 だが、もし記憶を持ったまま時間が逆行した者が、他にもいるとしたら。
レオは唇を噛み、視線を逸らす。だがやがて観念したように、小さく息を吐いた。
「……ルーカス様に信じてもらえるかどうか」
その声音は震えていた。けれどそれは恐怖ではなく、胸の奥に沈めていた秘密を解き放つ覚悟の震えだった。
「このことを知っているのはマクシムだけです」 (……姉上にも話したことはない。姉上に記憶があることは、言うべきではない。ルーカス様を苦しめてしまうかもしれないから)
「それはなんだ?私に言えるのか」
レオはゆっくりと静かに口を開いた。
「8歳の頃……夢を見たのです。それは恐ろしい悪夢でした」
「悪夢?」
レオは頷き、青い瞳を細める。
「冤罪で牢屋に姉上が囚われていました。僕と父上が王都にいる間に……。姉上に会いたいと嘆願しても、誰も聞き入れてくれず……。父上でさえ……ただ、姉上が苦しんでいたのはわかります」
言葉を継ぐうちに、彼の声がかすれた。
「ただの夢だと思いました。でも姉上の事だけじゃなくて自分に8歳からのことも……記憶があるのです」
私は無意識に拳を握りしめていた。
やはり、レオも“前回の人生”を垣間見ているのか。 胸の奥に冷たい痛みが広がる。前の世界で、クロエを守れなかった記憶。投獄され、孤独に消えていった彼女。私が掴めなかった未来。 それを、レオが夢のように覚えているのだ。
「ルーカス様……私は、これがただの悪夢だとは思えないのです」
レオの瞳が、揺れる蝋燭の炎を映しながら真っ直ぐに私を見ていた。
「運命は……繰り返されるのでしょうか。姉は僕の知っている夢とは違う行動をしています。僕も夢の通りには動いていません。でも……今日、姉上が狙われたと聞いて……どうしていいのか分からないのです」
その必死の言葉に、胸が締め付けられた。
「信じられないですよね、こんな話……」
私は時を戻した。アルテミリオンの力を借り、この世界をやり直している。だが、そんなことは口にできない。私が戻したと知られれば、クロエもレオも再び危険に巻き込むかもしれないから。
沈黙の中、私はただレオを見つめる。彼は秘密を打ち明けた安堵と、言葉にしたことで現実味を増した恐怖の狭間で、幼い横顔を震わせていた。
「レオ」 私は静かに言った。
「お前の見た夢が何であれ、同じことは繰り返させない。クロエは私が守る」
強く言い切ると、レオの瞳が揺れた。
「……ルーカス様……信じてくださるのですか?」
私は小さく頷き、それ以上は何も言わなかった
沈黙を破ったのは、レオの小さな声だった。
「……セリーヌ様に頼まれた仮面を、僕が探してきます」
「仮面を?」
「はい。姉上が舞踏会でつけていたものです。……姉上はドレスよりも仮面を優先したくらい、とても気に入っていたのかもしれません。ドレスの方を仮面に合わせたのですよ……あ……」
レオは自分の失言に気づき、慌てて口を閉ざした。
私はその横顔を逃さずに問いかけた。
「レオ。……もしかして、このドレスは仮面に合わせて仕立てられたの?」
レオは気まずそうに視線を逸らしたが、やがて観念したように答えた。
「……フレデリク様のご希望で、イザベラ様からのお礼として姉上に贈られたものです」
胸の奥がざわついた。私が纏っていた仮面も、ドレスも……フレデリク様と繋がっている。
そのとき。
ギィ──と重たい音を立てて倉庫の扉が開いた。
月光と共に、黒地に金の装飾を施した仮面を手にした青年が姿を現す。
「探しているのは……これではありませんか」
穏やかな声。現れたのはフレデリク様だった。
彼は私とレオを見回し、仮面を差し出す。
「クロエはこの仮面を大切にしていました。……誰から贈られたものかも分からず」
胸が強く打つ。フレデリク様の口からその言葉を聞くとは。
返答に迷う私をよそに、彼は切なげに微笑んだ。
「ルーカス様がご無事で良かった。クロエも心配していました。……今はホールでイザベラと一緒にいますが、ルーカス様、クロエに元気なお姿を見せていただけませんか」
「しかし……」
今やルーカス様の素性は露わだ。人前で私と踊れば、危険に晒すことになる。
フレデリク様は静かに首を振った。
「では、こちらにクロエを連れてまいります」
そう言い残し、彼は扉の向こうに消えていった。
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「フレデリク様……どこに行くのですか?しかもその燭台……」
先ほどまでフレデリク様と楽しく踊っていたのに、急に何かを思いついたように私を会場から連れ出した。
不安と期待が入り混じるまま、案内されたのは倉庫のような薄暗い部屋の前だった。
「クロエ、これを持ってて」
両手に燭台を手渡される。
これでは扉を開けられない。
フレデリク様は背後に立ち、耳元で囁いた。
「クロエ。今日は踊ってくれてありがとう。……今からの時間は、クロエへのプレゼントだよ」
そう言って、私の仮面を外した。
「え……」
「もうこれは返してもらうね。クロエの仮面は、この部屋の中にあるよ」
そう告げて、扉を押し開けてくれる。
中は月明かりと、私の手にある燭台の灯りしかない。
けれど、二つの人影がはっきり見えた。
「あ……レオ……それに……ルーカス様……」
思わず声が漏れる。
私の両手から燭台を受け取ったレオが、部屋の二か所に置いた。
ゆらめく灯りが倉庫の暗がりを幻想的に照らし出す。
ルーカス様の手には──あの仮面。
彼は私に近づき、正面からまっすぐに見つめた。
「クロエ。この仮面は……私からの贈り物だったんだ」
「え……ルーカス様から?」
心臓が跳ねる。ルーカス様は少し照れたように微笑んだ。
「つけてくれるかな。ここで……二人だけの仮面舞踏会を」
私は小さく頷いた。
ルーカス様は私の後ろに手を回し、仮面を丁寧に結び直してくれる。
近すぎる距離に胸が苦しくなり、思わず呼吸を止めた。
やがて彼は静かに手を差し出す。
「クロエ……踊ってください」
一瞬ためらったけれど、私は赤くなりながらもその手を取った。
音楽の届かぬ倉庫。
「こんなところでごめんね」
「いえ……」
頬が熱い。心臓の音がうるさい。
「音楽はないけど……クロエ、私に合わせて。……ほら、いち、に、さん」
「いち、に、さん……」
互いに数えながら、ぎこちなくステップを踏み始める。
最初は恥ずかしくて顔を上げられなかったけど、やがて笑みがこぼれ、ルーカス様の手に身を任せていった。
仮面越しに交わる視線。蝋燭の灯りに映し出される微笑み。
胸が熱く、心が満たされていく。
その光景を見つめながら、レオが小声でフレデリク様に囁いた。
「……良かったのですか?姉上のこと」
フレデリク様は赤くなった顔を腕で隠しながら、静かに笑った。
「いいんだ。クロエが喜ぶなら、それで。……それに、クロエのファーストダンスを踊れた。それだけで、もう幸せだから」
レオはそれ以上は言わず、再び姉を見つめた。
楽しそうに踊る二人の姿は、どんな舞踏会よりも美しかった。
観客はたった二人。
レオは小さく囁く。
「……綺麗ですね」
「あぁ……綺麗だ」
薄暗い倉庫の中。仮面と燭台の灯りに照らされて、二人の舞は誰もが目を奪うほど美しかった




