第67話 仮面の真実
仮面を落としたセリーヌを伴い、私はレオと共に回廊を歩いた。
舞踏会の音楽は扉の向こうで遠ざかり、冷たい夜気が静かに肌を撫でていく。足元の大理石は月明かりを反射して鈍く光り、ヒールと革靴が響かせる小さな音だけが、三人の呼吸を繋いでいた。
セリーヌは仮面をつけていない素顔を俯かせ、頬を真っ赤に染めている。揺れる栗色の髪が顔を隠すように肩へと流れ、震える吐息が夜の冷気に白く溶けた。
(……余計な注目を浴びさせてしまった。私が間違えなければ、こんなことには)
心の中で舌打ちする。だが表情には出さない。王子が動揺を見せれば、彼女の羞恥はさらに深くなるだろう。
「……お送りいたしましょう」
低く告げると、すぐ隣で歩いていたレオが一歩前へ出る。
「馬車まで僕もご一緒します。殿下、セリーヌ嬢」
真っ直ぐな声。セリーヌは驚いたように顔を上げたが、すぐに視線を逸らした。
「……ありがとうございます、殿下。そして……レオポルド様」
その声は小さく震えていた。だが耳を澄ませば、確かな安堵と……ときめきが混ざっているのがわかる。
抱き寄せたのは私だった。だが、いま彼女の胸を高鳴らせているのは、隣で真摯に手を差し伸べるこの少年の方なのかもしれない。
セリーヌは立ち止まり、裾をつまんで深く頭を下げた。
「レオポルド様……会場前ではろくにお礼も申し上げられず……失礼いたしました」
侯爵家の娘が伯爵家の子息に頭を下げるなど、本来なら考えられぬこと。だが彼女は、礼を欠くまいと素直にその身を折っていた。
レオは慌てて手を伸ばす。
「頭をお上げください。私は伯爵家の人間です。……それに、ここは回廊です。人に見られれば噂になってしまいます。今、セリーヌ嬢は仮面をつけていませんから」
諭すような声音。その言葉にセリーヌはさらに頬を赤らめた。
レオは少し困った顔をして、ちらりと私へ視線を送る。
「殿下、後ほど詳しくご説明いたしますが……姉上も私も、今日はセリーヌ嬢とご縁があったようです」
「……縁?」
問い返すと、セリーヌがはっと顔を上げた。
「仮面……そうでした。会場に落としたまま……」
その言葉に、胸がざわついた。
(仮面……。あれは本来、クロエに贈ったものだ。なぜ彼女がつけていた? クロエは気に入らなかったのか……いや、私の名を伏せて送ったから、受け取ってもつけてくれなかったのか?)
考えを巡らせていると、レオがすぐに言った。
「僕が探して姉に返しておきます。ですから、どうかお気になさらず」
セリーヌはその言葉にわずかに安堵し、レオを見つめる。
「クロエ様に……謝らなければ。お借りした仮面を……失くしてしまったのです」
クロエの名が口にされた瞬間、心臓が跳ねて止まったかのようだった。
(やはり……クロエの仮面…… どういうことだ……?)
耳鳴りがして、遠くで鳴る夜警の鐘の音すら霞む。喉の奥は焼けるように熱く、冷たい風が肺に入り込んでも呼吸が整わない。
レオが切なげに微笑み、静かに告げた。
「姉とは学園でまたお会いできるでしょう。そのときに声をかけていただけるだけで十分です」
セリーヌはその言葉に小さく頷いた。
やがて、校門へと辿り着いた。広い敷地の奥に侯爵家の馬車が待ち、月光に銀の紋章が浮かび上がっている。御者が扉を開け、灯火が小さく揺れていた。
「こちらへ」
レオが一歩前に出て、恭しく扉を開き手を差し出す。
セリーヌは少し迷ったのち、その手を取って馬車に乗り込んだ。
その直前、彼女は私を真っ直ぐに見つめる。
「……殿下。一曲しか踊れませんでしたけれど……夢のようでした。本当は……」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
沈黙のあと、別の言葉を選んだ。
「今日の日を、忘れないでしょう」
気品に満ちた微笑み。だが、その瞳の奥には、未練の影がかすかに揺れていた。
返す言葉を探す間もなく、私は黙礼をした。
馬車の扉が閉まる音。
視線を影の一人へ送る。
「カイル。護衛として同行せよ」
「はっ」
どこに潜んでいたのか、気配を殺していた青年が音もなく馬車に寄り添う。
セリーヌはその存在に気づかぬまま、蹄の音と車輪の軋みを残して闇へと消えていった。
残されたのは私とレオだけ。
静まり返った夜の校庭に、二人の呼吸と風の音だけが残る。
「……クロエの名を出していたな。どういうことだ」
抑えきれぬ苛立ちが声に滲む。
レオは真剣な眼差しを向け、慎重に言葉を選んだ。
「姉上が、セリーヌ嬢に姉上がつけていた仮面を貸したのです。入場前に壊れてしまったと聞いて……」
(……そういうことか。だから、あの仮面をつけていたのはセリーヌだった。私は――間違えて彼女を選んでしまったというわけだ)
喉の奥が苦くなる。
「……レオ。お前と彼女の縁とは?」
「姉が仮面を取りに行っている間に、ミア嬢とセリーヌ嬢が口論していたので止めに入っただけですが……」
少し考え込み、思い出したように言葉を継ぐ。
「そういえば……セリーヌ・ド・アルヴェール。あの方は幼い頃、アベル様の婚約者候補でした。しかし三歳の時に病に倒れ、候補から外れ……領地で療養していたはずです」
「アベルの……婚約者候補だった?……」
私は息を呑んだ。だから前世で見た記憶がなかったのか。療養のため、社交の場に姿を見せられなかったからだ。
それでも――
(クロエが……あの仮面をつけてくれていたのか)
「クロエは……あの仮面をつけていたのか」
つい零れた言葉に、レオが目を見開いた。
「……殿下。あの仮面は、殿下からだったのですか?」
「あぁ……。お前にだけでも伝えておけばよかった」
レオは唇を噛みしめ、そして小さく頷いた。
「では……殿下は本当は」
その続きを口にできずにいるレオに、私は苦笑を返した。
「そうだ。私はクロエにダンスを申し込んだつもりだった。……冷静になれば、仮面だけで判断するなど、愚かにもほどがある」
情けなさが喉に絡みつく。
だが、次に落とされた言葉はさらに重かった。
「殿下……狙われたのは、セリーヌ嬢ではありません」
「……なんだと?」
「標的は……姉上、クロエです」
全身から血が引いた。冷たい風が骨に染み込む一方で、胸の奥では燃えるような熱が広がる。
(クロエが……狙われていた……! あの仮面が目印になって……?)
拳を強く握りしめ、奥歯を噛み締める。
「……詳細は別室で聞く。来い、レオ」
月明かりの下、並んで歩き出した私たちの影が、石畳の上に長く伸びていた。




