第64話 仮面舞踏会Ⅰ
「わぁ」
私は思わず言葉が漏れ出た。
学園の大広間前は、色とりどりのドレスと仮面で埋め尽くされていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが幾重もの光を床に散らし、磨き込まれた大理石は鏡のように煌めく。壁際には薔薇や百合が溢れるほど飾られ、甘く濃密な香りが空気を満たす。
遠くから流れてくる弦楽器の調べは波のように緩やかに広がり、時折、笑い声や囁きが混ざり合って消えていく。
(とっても素敵……)
新入生歓迎の仮面舞踏会――。学園に通う者なら誰もが一度は憧れる、華やかで非日常な一夜。
弟レオと並んでその入場列に加わっていた。
レオはシルバー地に深い青の刺繍が流れるように施されたタキシードを纏い、同じ色合いの仮面で端正な顔立ちを覆っている。光を受けて刺繍糸がきらりと輝き、その凛々しい立ち姿を一層引き立てていた。
私は深い紺色のドレスに身を包み、黒地に金の細やかな模様が描かれた仮面をつけている。胸元の金糸の刺繍はシャンデリアの光を受け、星屑のように瞬いた。
「姉上、なんか緊張してる?」
「してないわ」
「じゃあ、その手の握りしめ方は?」
レオが唇の端を上げる。
私は仮面の位置を直すふりをして視線を外した。
――そんなときだった。
列の端、少し離れた場所で立ち尽くす一人の令嬢が目に入った。
淡いアプリコット色のドレス、肩までの栗色の髪。その両手には、右半分が折れ、留め具も外れた仮面が抱えられている。
「……大丈夫ですか?」
私はその令嬢に歩み寄ると、令嬢は驚いたように顔を上げた。瞳は困惑の色を宿している。
「すみません……入場直前に、誰かの袖が引っかかってしまって……」
「あなたも新入生ですか?」
「はい。セリーヌ・ド・アルヴェールです。アルヴェール侯爵家の……」
私は軽く頷き、礼を込めて裾を摘まんだ。
「クロエ・リシャールです。リシャール伯爵家の娘です」
「……まあ」
セリーヌの瞳がわずかに見開かれる。
「困りましたね。入場には仮面が必要で……」
セリーヌは小さく頷き、壊れた仮面を抱き直した。
(……この仮面は私だけに届けられた特別なもの。でも……)
贈られた黒地に金の仮面――大切な意味を持つ品だ。
けれど、目の前の困窮を見過ごすことはできなかった。
「これを使ってください」
「……そんな、でも」
「予備が部屋にあります。今はこれを」
差し出された仮面を、セリーヌは驚いたように見つめ、そっと受け取った。
「ありがとうございます……本当に」
「レオは先に会場で楽しんでて。私もすぐ戻るから」
そう告げて、私は踵を返した。
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レオが姉の背を見送っていると、不意に冷たい声が落ちた。
「常に運から見放された令嬢ですわね」
真紅のドレスに金糸の刺繍が映える仮面の令嬢――ミアが、ゆっくりと近づいてくる。
「……ミア様」セリーヌの表情が硬くなる。
「お久しぶり。まさか学園で再会するとは」
「私もよ。もっとも――婚約候補から外れたあなたが、ここにいること自体驚きですけれど」
ミアは扇で口元を隠し、くすくすと笑った。
「今夜くらいは、みじめなことを忘れて楽しめば?」
侮辱の棘が甘い香りに混ざり、空気を刺す。
セリーヌはゆっくりと息を吸い、視線を逸らさずに言い返した。
「私は一度も、自分が運が悪いと思ったことはありません。神様はいつも私に加護をくださっていますから」
ミアの笑みがわずかに歪む。
「——おやめになった方がいい」
低い声が二人の間に割って入った。レオだ。
「新入生を歓迎する場で、過去の話を持ち出すのは品位に欠けますよ、ミア様」
「……レオポルド様。あなたには関係ありませんわ」
「関係あります。罪のない人が困っている場で、黙って見過ごす教育は受けていませんので」
セリーヌの頬がわずかに赤くなる。
レオはその手を取り、入場口へと歩き出した。
入場口の前に立ったそのとき――。 高らかなファンファーレが響き渡り、視線が一斉に広間の中央へ注がれる。
金の髪を揺らしながら、一人の青年がゆっくりと歩み出た。 第一王子、ルーカス。 ざわめきが広がる。
「……ルーカス様」
レオが小さく息を呑む。
ルーカスは迷うことなく、黒地に金の仮面をつけた令嬢の前に立った。
「君と開幕を迎えられて嬉しい」
差し出された手に、セリーヌは一瞬戸惑い
けれど、周囲の視線に押されるようにそっとその手を取った。
楽団が合図とともに奏で始め、二人は舞踏の輪へと導かれていった。
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背後で響く人々の笑い声や、楽団の調律の音が次第に遠のいていく。
回廊には冷んやりとした空気が漂い、磨き込まれた大理石の床にヒールの音が小さく反響する。
高窓から差し込む月光が床を銀色に染め、影を長く伸ばしていた。
(急がなきゃ……開幕の曲が始まっちゃう)
早足で角を曲がったその瞬間――。
「おっと……失礼」
低く穏やかな声が耳に届いた。
視線を上げると、黒地に白の装飾を施した仮面の青年が立っていた。月明かりに照らされ、端正な輪郭がくっきりと浮かび上がっている。
「……フレデリク様?」
「え……クロエ? どうしたの、そんなに急いで。会場は逆だよ」
「うん……仮面を貸しちゃって。自分のを取りに行くところなんです」
私は会場での出来事を簡単に話した。
フレデリク様は優しく微笑み、
「そうか。それなら――これを使うといい」
差し出されたのは、私の深い紺色のドレスにぴたりと合う仮面。金糸の模様が控えめに光を返している。
「でも、フレデリク様は?」
「予備があるよ。それに……困っているクロエを、そのままにできない」
柔らかく、あたたかみのある声色。ふと、胸の奥の緊張がほどけていくのを感じた。
「……ありがとうございます」
「お礼なんて要らない。ただ……もし叶うなら、後で一曲だけ、時間をくれると嬉しい」
冗談めかすでもなく、優しい眼差しがまっすぐに注がれる。
「……考えておきます」
少しドキドキしてしまう。
私は仮面を受け取り、紐を結びながら小さく一礼した。
「気をつけて、クロエ」
その声を背に、再び会場の入口へと歩き出した。
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重厚な扉を押し開けた瞬間、華やかな光と音楽が雪崩れ込んできた。
視線を向けた先――広間の中央で、黒地に金の仮面をつけた令嬢と金髪の青年が踊っている。
金の髪……第一王子ルーカス。
(え……?)
私の足が一瞬止まる。
――あの仮面、私が貸したもの。
周囲のざわつきが耳に入る。
「第一王子……!」
「お相手はどこの令嬢?」
「見たことないわ……」
囁きが、音楽の下で波紋のように広がっていく。
ルーカスは黒地に金の仮面をつけた令嬢の手を取ったが
その瞬間、わずかな違和感が胸に走る。
(……クロエの銀色とは、微妙に違う)
光の加減かもしれない――そう思いながらも、踊り始めてすぐ視線が交わった。
(瞳の色が……違う)
確信が落ちた。
それでも笑みを絶やさず、一曲を踊り切らなければならない。
(この仮面は、私がクロエに贈ったはず……)
その様子を、広間の入り口近くから見つめている者がいた。
仮面の奥の瞳が揺れるクロエ。
(どうして……ルーカス様よね?……あの仮面の相手と?)
胸の奥にざわめきが広がる中、音楽は盛り上がりに入りクロエの気持ちとは逆に、周りの参加者たちを魅了していた
途中追記しましたm(_ _)m




