表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第18章『最低な宴』
57/113

第46話(前)

 十月になった。

 姫奈の予想に反し、水出しアイスコーヒーはまだ三本分が毎日完売していた。

 季節は秋へと移ろい、扉の風鈴はいつの間にか消えていた。それでも夏らしい飲み物をまだ準備するのは、姫奈にとってなんだか可笑しな感覚だった。

 未だに異論はあるものの、晶の経営判断は決して間違っていなかった。


 釈然としない気持ちを引きずりながらも、水出しアイスコーヒーの仕込みをしていた日曜日の夕方だった。

 昨日は体育祭で、久々に大きく身体を動かした。疲労を抱えながらも、今日一日のアルバイトを終えた時だった。

 ふと、扉の開く音がした。

 この後は晶の部屋で夕飯を食べることになっていたので、店は早めに閉めていた。『closed』の札を扉に引っ掛けたのにと思いながら、姫奈はキッチンカウンターから扉を見た。


「やっほ」


 柳瀬結月が立っていた。マスクと眼鏡で一応変装こそしているが、眠たげなぼんやりとした瞳と、アッシュピンクの柔らかな髪から、すぐに分かった。

 しかし、姫奈は違和感があった。

 自動車のエンジン音が聞こえなかった。いつもは遅れて入ってくるはずの麗美も、中々来なかった。

 そして、結月はキャリーケースを引いていた。


「……どうした? まさかとは思うが、麗美とケンカでもしたか?」


 客席の掃除をしていた晶が、どこか深刻そうに訊ねた。


「ええ。家出してきたわ」

「はい?」


 思ってもいなかった返事が聞こえ、姫奈は目を丸くした。

 結月の様子はいつもと何ら変わらないように見えた。しかし、晶はまるで腫れ物を扱うが如く、慎重にカウンター席に座らせた。


「麗美ちゃんがね、私に黙ってたのよ――プリンのこと」


 結月がぽつりと漏らし、姫奈はピクリと僅かに動揺した。

 プリン、そして隠し事。誰の生活にも遭遇しそうな出来事だが、思い当たる節がひとつだけあった。

 嫌な予感がした。


「悪かった! お前の分まで食べたのは私だ!」


 晶が結月に、物凄い勢いで謝った。ペコペコと頭を下げ、そのうち床に額を擦りつけそうだった。

 ここまで必死な晶を、姫奈は初めて見た。それだけ結月を恐れているのだと思った。


「結月さん、わたしも共犯です! 一個だけですが、一緒に食べました! ごめんなさい!」


 思わず、晶に便乗して暴露した。

 ジロリと、晶からこちらに結月の視線が移った。いつもと何ら変わらない眠たげな瞳が、どうしてかとても冷ややかに感じた。


「なにもね、プリンを食べられなかったことに怒ってるんじゃないのよ」

「本当か? 結構美味しかったぞ?」

「……やっぱりナシで」

「冗談だ! 所詮は安物だからお前の口には絶対合わない!」


 晶は本心を漏らしたと姫奈はすぐに悟ったが、ここは晶の肩を持ち、黙っていることにした。


「麗美ちゃんが私に隠し事をしていたのが、許せないのよ」


 ――結月には黙って来てるから、ややこしくなる。


 そういえば麗美がそんなことを言っていたと、姫奈は思い出した。

 あの日はふらりと立ち寄っただけに見えたので、こんな些細な事まで報告する義務があるのかと疑問だった。こうした結月の拘束が強いと思ったが、とても言えなかった。


「わかったから、ひとまず落ち着け。家出してきたなら、一旦私の部屋に行こう」


 晶は素早くスタッフルームに入ると、エプロンを脱ぎ帰宅準備をして出てきた。

 そして、結月のキャリーケースを引き、店を出た。

 その際に一度だけ、険しい表情で姫奈に隻眼を向けた。『店の片付けは任せた』とも『お前も上手くやれ』とも言われたような気がして、姫奈は頷いた。


「ふぅ……」


 ふたりが店から出て行き、姫奈はようやく緊張感から開放された。

 とはいえ座り込むわけにもいかず、水出しアイスコーヒーの仕込みと店内清掃の残りを素早く片付けた。

 扉を閉めシャッターを下ろしたところで、このまま逃げようかと一瞬思った。

 だがその時、携帯電話が震え、着信を伝えた。麗美からの電話だった。


『もしもし、姫奈ちゃん! 結月、そっちに行った!?』


 麗美にしては珍しく、とても焦っている声だった。確かに、大物芸能人が音信不通でひとり出歩いているのは、雇い主としてもマネージャーとしても只事では無いのだろうと理解した。


「はい。ついさっき来ましたよ。現在は晶さんとマンションの方に向かってます。……安心してください。つけられてる様子はありません」


 いつかのようにマスコミに接近されたら厄介だと、麗美からの電話で思った。念の為周囲を見渡すが、夕陽に照らされた中、人気は無かった。もしマスコミの目に留まったのなら、マンションには入れないため、現在ひとりきりの自分のところに訊ねに来るだろう。


『そう……。ちなみに、どれぐらい怒ってた?』


 麗美はひとまず安心した様子だった。

 そう訊ねられるが、姫奈はあの結月を初めて見たので、基準や比較が分からなかった。


「んーと。晶さんが超ビビるぐらい、ですかね」

『うわぁ……。ヤバいね、それ』


 電話越しに、麗美の呆然とした声が聞こえた。とても深刻な状態なのだと、姫奈に伝わった。


『キリのいいとこで私もそっちに行くから、それまで保たせておいて。謝罪用にいろいろ買ってくから、ちょっと遅くなると思う』

「はい。分かりました」


 姫奈は反射的に頷いたが、通話が切られてから、逃げられなくなったことに気づいた。

 面倒になったと思うや否や、次は晶から電話の着信があった。


『どうだ? そろそろ来れそうか?』

「はい。ちょうど今、お店を閉めたところです」

『そうか。こっち来る時、コンビニでなるべく高いワインを買ってきてくれ。あと、何かツマミと』


 晶からそう一方的に伝えられると、通話を切られた。


「……」


 思うことは沢山あるが、姫奈は手に持っていたエコバックの中身を見た。

 いくつかのキノコ類をはじめとした――パスタの準備が台無しになったことを理解した。

 本来では、今日は店を閉めた後、晶とのふたりきりの時間を過ごすはずだった。

 それを邪魔された挙げ句、厄介事から逃げられなくなった。


「はぁ……」


 姫奈は、大きく溜め息をついた。


 晶に言われた通り、コンビニに寄った。

 ワイン棚を眺めるが、知識が無い姫奈にとっては何も買えばいいのか分からなかった。

 そもそも白ワインと赤ワインのどちらを買えばいいのか、それすら疑問だった。

 少しだけ悩むも、一番高い値段のものを選んだ。約二千円の赤ワインだった。

 おそらくワインとしては安物であり、芸能人の舌には絶対に合わないと思ったが、これがコンビニの限界だと割り切った。


 次に、ワイン棚の隣にある酒のツマミの棚を眺めた。

 やはりこれに関しても、何を買えばいいのか、赤ワインに合うものは何なのかと、さっぱり分からなかった。

 商品を順に確認した末、スモークチーズを選んだ。悩むことを放棄し、姫奈自身が一番食べたいものとしての基準だった。


 手に取った商品をレジに持っていく際、スイーツコーナーで立ち止まった。

 パン生地に溢れんばかりの生クリームを挟んだものが目につき、残っている三つ全てを取った。


 ワインをレジに通した時、画面に『自身は成年である』との確認が表示され、躊躇しながらも承諾のボタンを押した。

 後ろめたさが残ると同時、私服姿でよかったと思った。そして、未成年に酒を買わせた晶を少し恨んだ。

 というか、高いワインもおつまみも、自慢のウーバーで頼めばよかったんじゃ――

 コンビニの扉を出た時、ふとそう思ったが、全てが遅かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ