第46話(前)
十月になった。
姫奈の予想に反し、水出しアイスコーヒーはまだ三本分が毎日完売していた。
季節は秋へと移ろい、扉の風鈴はいつの間にか消えていた。それでも夏らしい飲み物をまだ準備するのは、姫奈にとってなんだか可笑しな感覚だった。
未だに異論はあるものの、晶の経営判断は決して間違っていなかった。
釈然としない気持ちを引きずりながらも、水出しアイスコーヒーの仕込みをしていた日曜日の夕方だった。
昨日は体育祭で、久々に大きく身体を動かした。疲労を抱えながらも、今日一日のアルバイトを終えた時だった。
ふと、扉の開く音がした。
この後は晶の部屋で夕飯を食べることになっていたので、店は早めに閉めていた。『closed』の札を扉に引っ掛けたのにと思いながら、姫奈はキッチンカウンターから扉を見た。
「やっほ」
柳瀬結月が立っていた。マスクと眼鏡で一応変装こそしているが、眠たげなぼんやりとした瞳と、アッシュピンクの柔らかな髪から、すぐに分かった。
しかし、姫奈は違和感があった。
自動車のエンジン音が聞こえなかった。いつもは遅れて入ってくるはずの麗美も、中々来なかった。
そして、結月はキャリーケースを引いていた。
「……どうした? まさかとは思うが、麗美とケンカでもしたか?」
客席の掃除をしていた晶が、どこか深刻そうに訊ねた。
「ええ。家出してきたわ」
「はい?」
思ってもいなかった返事が聞こえ、姫奈は目を丸くした。
結月の様子はいつもと何ら変わらないように見えた。しかし、晶はまるで腫れ物を扱うが如く、慎重にカウンター席に座らせた。
「麗美ちゃんがね、私に黙ってたのよ――プリンのこと」
結月がぽつりと漏らし、姫奈はピクリと僅かに動揺した。
プリン、そして隠し事。誰の生活にも遭遇しそうな出来事だが、思い当たる節がひとつだけあった。
嫌な予感がした。
「悪かった! お前の分まで食べたのは私だ!」
晶が結月に、物凄い勢いで謝った。ペコペコと頭を下げ、そのうち床に額を擦りつけそうだった。
ここまで必死な晶を、姫奈は初めて見た。それだけ結月を恐れているのだと思った。
「結月さん、わたしも共犯です! 一個だけですが、一緒に食べました! ごめんなさい!」
思わず、晶に便乗して暴露した。
ジロリと、晶からこちらに結月の視線が移った。いつもと何ら変わらない眠たげな瞳が、どうしてかとても冷ややかに感じた。
「なにもね、プリンを食べられなかったことに怒ってるんじゃないのよ」
「本当か? 結構美味しかったぞ?」
「……やっぱりナシで」
「冗談だ! 所詮は安物だからお前の口には絶対合わない!」
晶は本心を漏らしたと姫奈はすぐに悟ったが、ここは晶の肩を持ち、黙っていることにした。
「麗美ちゃんが私に隠し事をしていたのが、許せないのよ」
――結月には黙って来てるから、ややこしくなる。
そういえば麗美がそんなことを言っていたと、姫奈は思い出した。
あの日はふらりと立ち寄っただけに見えたので、こんな些細な事まで報告する義務があるのかと疑問だった。こうした結月の拘束が強いと思ったが、とても言えなかった。
「わかったから、ひとまず落ち着け。家出してきたなら、一旦私の部屋に行こう」
晶は素早くスタッフルームに入ると、エプロンを脱ぎ帰宅準備をして出てきた。
そして、結月のキャリーケースを引き、店を出た。
その際に一度だけ、険しい表情で姫奈に隻眼を向けた。『店の片付けは任せた』とも『お前も上手くやれ』とも言われたような気がして、姫奈は頷いた。
「ふぅ……」
ふたりが店から出て行き、姫奈はようやく緊張感から開放された。
とはいえ座り込むわけにもいかず、水出しアイスコーヒーの仕込みと店内清掃の残りを素早く片付けた。
扉を閉めシャッターを下ろしたところで、このまま逃げようかと一瞬思った。
だがその時、携帯電話が震え、着信を伝えた。麗美からの電話だった。
『もしもし、姫奈ちゃん! 結月、そっちに行った!?』
麗美にしては珍しく、とても焦っている声だった。確かに、大物芸能人が音信不通でひとり出歩いているのは、雇い主としてもマネージャーとしても只事では無いのだろうと理解した。
「はい。ついさっき来ましたよ。現在は晶さんとマンションの方に向かってます。……安心してください。つけられてる様子はありません」
いつかのようにマスコミに接近されたら厄介だと、麗美からの電話で思った。念の為周囲を見渡すが、夕陽に照らされた中、人気は無かった。もしマスコミの目に留まったのなら、マンションには入れないため、現在ひとりきりの自分のところに訊ねに来るだろう。
『そう……。ちなみに、どれぐらい怒ってた?』
麗美はひとまず安心した様子だった。
そう訊ねられるが、姫奈はあの結月を初めて見たので、基準や比較が分からなかった。
「んーと。晶さんが超ビビるぐらい、ですかね」
『うわぁ……。ヤバいね、それ』
電話越しに、麗美の呆然とした声が聞こえた。とても深刻な状態なのだと、姫奈に伝わった。
『キリのいいとこで私もそっちに行くから、それまで保たせておいて。謝罪用にいろいろ買ってくから、ちょっと遅くなると思う』
「はい。分かりました」
姫奈は反射的に頷いたが、通話が切られてから、逃げられなくなったことに気づいた。
面倒になったと思うや否や、次は晶から電話の着信があった。
『どうだ? そろそろ来れそうか?』
「はい。ちょうど今、お店を閉めたところです」
『そうか。こっち来る時、コンビニでなるべく高いワインを買ってきてくれ。あと、何かツマミと』
晶からそう一方的に伝えられると、通話を切られた。
「……」
思うことは沢山あるが、姫奈は手に持っていたエコバックの中身を見た。
いくつかのキノコ類をはじめとした――パスタの準備が台無しになったことを理解した。
本来では、今日は店を閉めた後、晶とのふたりきりの時間を過ごすはずだった。
それを邪魔された挙げ句、厄介事から逃げられなくなった。
「はぁ……」
姫奈は、大きく溜め息をついた。
晶に言われた通り、コンビニに寄った。
ワイン棚を眺めるが、知識が無い姫奈にとっては何も買えばいいのか分からなかった。
そもそも白ワインと赤ワインのどちらを買えばいいのか、それすら疑問だった。
少しだけ悩むも、一番高い値段のものを選んだ。約二千円の赤ワインだった。
おそらくワインとしては安物であり、芸能人の舌には絶対に合わないと思ったが、これがコンビニの限界だと割り切った。
次に、ワイン棚の隣にある酒のツマミの棚を眺めた。
やはりこれに関しても、何を買えばいいのか、赤ワインに合うものは何なのかと、さっぱり分からなかった。
商品を順に確認した末、スモークチーズを選んだ。悩むことを放棄し、姫奈自身が一番食べたいものとしての基準だった。
手に取った商品をレジに持っていく際、スイーツコーナーで立ち止まった。
パン生地に溢れんばかりの生クリームを挟んだものが目につき、残っている三つ全てを取った。
ワインをレジに通した時、画面に『自身は成年である』との確認が表示され、躊躇しながらも承諾のボタンを押した。
後ろめたさが残ると同時、私服姿でよかったと思った。そして、未成年に酒を買わせた晶を少し恨んだ。
というか、高いワインもおつまみも、自慢のウーバーで頼めばよかったんじゃ――
コンビニの扉を出た時、ふとそう思ったが、全てが遅かった。




