第43話
姫奈はベッドの側から立ち上がった。
穏やかな表情で寝ている晶を見下ろし――キスをしたのだと改めて思った。
晶のことが好きだった。だから、この行為は当然だった。
胸に手を置く。トクントクンと心臓の鼓動が聞こえる。特に早くもなく、いたって正常な心音だった。
意外と落ち着いていると思った。
そう。まだ抑えられる。
この高まる気持ちを――自分の中でのみ大切に抱えられる。
確かに、晶に気持ちを伝えて報われることが、考えられる最高の幸せだった。
しかし、まだそれに至らなくてもよかった。
この気持ちを抱えているだけで、こうしてすぐ側に居られるだけで、十分すぎる幸せだった。
それに――
姫奈はテレビへと歩いた。
テレビを観ていた間、テレビ台に置かれたそれが、否が応でも視界の隅に入っていた。
写真立てを手に取った。
ステージ衣装を着たRAYの天羽晶と――スーツ姿のRAYのマネージャー、一栄愛生と呼ばれる人物のツーショット写真だった。
カメラにピースサインを向けている人物は、もうこの世に居なかった。晶の右目の光と共に、この世から消えて亡くなっていた。
会って話をしようにも、会えなかった。
これは写真というより『ある人間の生きた記録』だと、姫奈は思った。
なぜ、残す必要があるのか。
なぜ、飾る必要があるのか。
――私らには言わなかったけど、彼女とRAY最強のセンターだった晶は、ぶっちゃけ付き合ってた。世界一のトップアイドル目指すんだって、ふたりでよく夢を語ってたよ。
麗美から聞いた言葉の真偽は分からない。
いや、おそらくは真実だったのだろう。
車内で聞いたあの時は、ひとつの事実として受け入れた。
しかし現在、それは受け入れ難い事実となっていた。否定したい気持ちだった。
姫奈は振り返り、晶の寝顔を見た。
もしかすると、晶はまだ――
「……」
その可能性を考えただけで、姫奈の胸内は痛いほど締め付けられた。
*
翌日の日曜日。
姫奈は午前八時半にEPITAPHへ向かうと、扉のシャッターが上がっていた。
閉め忘れたかな? と、まず思った。
しかし、確かにシャッターを下ろして店仕舞いをした記憶を思い出し、その線は消えた。
次に浮かんだのが、強盗の類だった。無理やりシャッターと扉を開け、不法侵入されたと思った。
姫奈は慌てて店の扉を開けた。
荒らされた店内を思い浮かべていたが、その様子は一切無かった。
「よう。おはようさん」
丁度、小柄な店主が気だるそうにダリアの鉢を表に出そうとしていたところだった。
「お、おはようございます。――え? どうしてですか?」
姫奈はその光景に目を丸くするも、すぐ晶の代わりにふたつの鉢とメッセージボードを外に運んだ。
九月の半ば。締め切っていた店内は、蒸し暑かった。
「なんだ? 私がお前より先に来て店を開けたらいけないのか?」
「いえ。そういうわけじゃないですけど……」
姫奈は言葉を濁すが、内心驚いていた。
休日も、この間の夏休み期間も、ずっと姫奈が店を開けていたのであった。
晶がこの時間に起きていることが、姫奈にとってはありえない光景だった。
「……酒を飲むと、眠りが浅くなるんだよ。私はまだ寝たかったのに、早い時間に目が覚めてしまった」
晶はそう言いながら、冷房を動かした。
いつもに増して、気だるげな様子だった。隻眼は眠そうだった。
眠りが浅い。つまり、寝ても疲労が残っているのだと、姫奈は思った。
「晶さんって、お酒には強いんですか?」
「どうだろうな。まあ、人並みには飲める程度だ。ただ、これは体質云々じゃなくて誰にでも言えることだが――疲れてると半端なく酔いやすい。わかったか? もし二十歳になって飲めるようになっても、コンディションと相談しろよ?」
「その言葉……そっくりそのまま自分に言い聞かせてください」
姫奈は呆れた目で晶を見た。
いつの間にか眠っていたのは、そういうことだったのかと理解した。
酔い潰れて眠ったのは、結果として良かったのかもしれない。悪酔いの相手や嘔吐の世話が無かったのは、助かったと思った。
それに――キスもできたと、姫奈は思い出して恥ずかしくなった。
「念のために訊いておきますけど……昨日のこと覚えてませんよね?」
「すまないな。映画は途中までしか覚えてない。どうだ? 面白かったか?」
「ええ。まあ……」
そっちの話か、と姫奈は戸惑った。
眠りが浅いと言っていたが、この様子だと一時的とはいえ熟睡していたのだと思った。
キスを覚えていないことに安心する反面、少しだけ寂しかった。
「しっかし……今日はずっと死んでると思う。すまないが」
スタッフルームで、晶は気だるそうにエプロンを纏った。
「よくわかりませんけど、二日酔いってやつですか?」
「まあ、そんな感じだ」
「二日酔いって、何が効くんですか?」
「さあ。シジミ汁とか?」
「コンビニに売ってるわけないですね……」
姫奈もエプロンを着て髪を結びながら、晶の回復は諦めた。
日曜日なのでいつもより多い来店客を予想するが、晶の分も頑張ろうと思った。
実際、午前中はやはり忙しかった。水出しアイスコーヒーも売り切れた。
晶の表情がだんだんと青ざめ、とても接客向けではないと姫奈は思ったので、スタッフルームで休ませた。
正午に客足が一旦途切れた間に、晶を帰宅させた。
午後からも、客は疎らながらも立て続けに来店していた。とはいえ、姫奈としては午前中より余裕があった。
その時だった。
「あの……。晶さん、いらっしゃいますか?」
青い花束を抱えたひとりの女性が来店した。
神妙な面持ちから、晶を訪れたファンだと一目で分かった。
一般客が店内でくつろいでいるため、姫奈は扉を指差して女性を外に誘導した。
「わざわざお訪ね頂き、ありがとうございます。ですが……すいません。本日は外出で、不在にしています」
ふたりで店外に出るや否や、姫奈は苦笑しながら謝った。
「体調を崩してるわけじゃないんですよ? 辛いことがありましたけど……現在はすこぶる元気でやってます!」
二日酔いだとは絶対に言えないと思いながら、精一杯の笑顔で擁護しておいた。
女性をなだめる意味があったが、言葉自体は紛れもない事実だった。
「そうですか……。その言葉を聞けただけでも、嬉しいです」
泣き出しそうだった女性の表情が、ふっと和らいだ。
「あの。これ、渡して頂けないでしょうか?」
姫奈は、女性から花束を渡された。
青い小さな花――姫奈は名前を知らないが、デルフィニウムの花束は色鮮やかで可愛かった。
「はい。確かに受け取りました。晶もきっと喜びます!」
「では、また改めて来ます」
「本日はありがとうございました。ご都合のよろしい時に、いらしてください」
立ち去る女性に姫奈は深々と頭を下げて見送った。
「ふぅ……」
頭を上げ、緊張感が解けた。
晶のファンは、以前からこうして不定期に訪れていた。しかし、姫奈としてはなんだか久々のような気がした。カフェとしてエスプレッソマシンの購入を検討するまで成長したからだが、姫奈は気づいていなかった。
店に戻ろうとした時、扉に書かれたEPITAPHの文字が目に入った。
そう。『墓標』を意味する店名の通り、世間では故人となった天羽晶を偲ぶのが、この店の本来の主旨であった。本来であれば、カフェとしての役割は二の次なのだ。
晶には現在もなお数多くのファンが居るが、彼女達の気持ちはどうなんだろう。ふと、姫奈はそう疑問に思った。
あくまで、ひとりのアイドルとして好きなのか――もしくは、自分と同じような好意を抱いているのか。
そう考えると、晶が多くの人間から愛されているとはいえ、あまり良い気はしなかった。預かった花束を、いっそ捨ててしまいたかった。
この嫉妬した感情が芽生えたと同時、ある人物が頭に浮かんだ。
あの人はどうだったんだろうか――
ずっと晶さんの側に居たあなたも、わたしと同じ気持ちだったんですか?
一栄愛生さん。




