第30話
七月の終わり、八雲とナイトプールへ行く日となった。
十八時頃――まだ陽は明るいが、ホテルへと向かった。
眼鏡をつけてプールに入れないので、あらかじめ外してきた。眼鏡無しの外出は慣れないせいか、姫奈にとってなんだか変な感じだった。八雲には、今日はコンタクトレンズだと言っておいた。
唯一心配していた入場の際の年齢確認は、特に身分証の提示を求められることなく通過出来た。
姫奈は青い花柄のオフショルダータイプのトップス、ネイビーのボトムスの水着に着替えた。そして、髪をまとめ上げた。
隣の八雲も一緒に購入した水色のクロスワイヤービキニと、青い花柄のボトムスの水着だった。
「それ、いい感じだね」
「いいでしょ? 百均で買ったんだ」
八雲はいつも通りのお団子ヘアーに、サングラスを乗せていた。カジュアルな雰囲気が、さらに引き立てられているようだった。
「あっ、ケータイの防水ケースの準備忘れたや」
八雲の首からぶら下がっている――ネックストラップの防水ケースを見て、姫奈は存在を思い出した。
「大丈夫だよ。今日はウチが撮るから。それじゃあ、行こうか」
八雲に手を引かれ、ロッカールームから出た。
以前の台風で痛い目を見ているので、姫奈はウォータープルーフのファンデーション等、濡れても落ちにくい化粧をしてきた。最後に鏡で確認をしたかったが、その余裕は無かった。
しかし、屋外のプールサイドに出た途端、姫奈の心配はどこかに消え去った。
「わぁ……」
思わず声が漏れてしまうぐらい、綺麗な景色だった。
夕陽に照らされた中――木々と優しい光に囲まれたプールは、なんだか郷愁的だった。プールサイドに並んだサマーベッドやレイチェア、そして成人女性しか居ない客層は、とても落ち着いた雰囲気だった。
都心なのに、まるで遠くのリゾート地に来たかのようだった。
「ありがとう八雲! 来てよかったよ!」
姫奈は胸の前で腕を小さく振りながら、興奮を抑えられなかった。
「あはは……。まだ早いって。とりあえず、あそこで撮ろうか」
八雲が指をさした先には、開いた貝殻の大きなオブジェがあった。
女性がふたり並んで座って、係員が携帯電話で写真を撮っていた。実際の使用方法を見て、あれがフォトスポットなのだと姫奈は理解した。
「うん!」
姫奈は写真を撮られるのが恥ずかしく苦手であったが、現在は楽しまなければ勿体ないとの気持ちだった。
少しだけ順番を待ち、八雲は携帯電話を係員に渡した。ふたりで貝殻に腰掛けた。
アルバイトでの接客と違い、カメラ相手に笑顔を作るのは難しかった。ぎこちないながらも、姫奈は現在の気持ちの昂りのままに笑って見せた。
その後、プールに入った。
姫奈はともかく、八雲でも充分に足のつく深さだった。
陽が暮れてきても、外はまだ暑かった。水中に潜ったり泳いだりはせずとも、プール内に立っているだけでも涼しかった。
ホテル側が用意したものだろう。プール上には浮き輪をはじめとする遊具が無作為に置かれていたため、それで遊んだ。
陽が沈み暗くなると、一度上がり飲食コーナーへ向かった。
姫奈はグレープフルーツジュースを注文した。
「ウチはこれで」
八雲が指差して注文したものに姫奈は驚いたが、店員が目の前に居るため騒がずに平静を装った。
「ちょっと――それ、お酒だよ?」
「まあまあ。こんなの、どうせジュースと同じだって」
それぞれドリンクを受け取り、プールサイドのサマーベッドへと向かった。
八雲が注文したのは、フローズンストロベリーマルガリータと呼ばれるものだった。小さなグラスにピンク色のシャーベットが盛られ、苺とカットライムが添えられていた。見た目はとても可愛らしかった。
姫奈はお酒の種類を知らないが、メニューのアルコール類に位置したものなので、本来は自分達が飲めないものだとは理解した。
とはいえ、ここにも年齢を偽って入場していることを思うと、八雲を叱れなかった。
並んだサマーベッドにそれぞれ寝そべり、八雲が写真を撮った。
「うーん……。確かにお酒だね」
一口飲んだ八雲は苦笑した。
さっきまでジュースと同じだと言っていた余裕は消え、姫奈は察した。
「姫奈ちゃんもどう?」
「えー。一口だけだよ?」
姫奈としても味に全く興味が無いわけではなかったので、グラスを受け取り一口飲んだ。生まれて初めてアルコールを口にした。
見た目通り、苺の味と糖類の甘さを感じ、確かにジュースのようだと思った。しかし、その奥にある苦味が徐々に口内へと広がった。
ブラックコーヒーや炭酸水をよく飲むため苦味には強いと思っていたが、それらよりも遥かに不快な苦味だった。
「うん……。普通に不味いね、これ」
姫奈はグラスを返し、率直な感想を述べた。
「だよねー。大人はこんなのが美味しいんだね。ウチらも味覚が変わるのかな」
「どうだろ。酔っ払うと気持ちよくなるみたいだし、無理して飲んでるのかも」
あと五年で二十歳になったところで、好んで飲む姿が姫奈には想像できなかった。
自分で注文しておきながら八雲はほとんど飲めなかったので、結局は大半を姫奈が飲んだ。
飲んだ直後もしばらくしてからも酔いや吐き気に警戒したが、それらに襲われることは無かった。
二十時を過ぎた頃、姫奈は浮き輪に深く腰掛けプールにプカプカと浮かんでいた。
暗い空。暗い水。そして、それらを照らすほのかな光。まるで、幻想的な世界に居るかのようだった。
浮遊感も相まって――もしかすると酩酊感もあるのかもしれないが、どこか現実味が薄れていた。
姫奈はぼんやりとした頭で、来て良かったと改めて思った。
プールと最初に聞いた時は場違いだと思い、水着で肌を晒すことにも抵抗があった。
しかし、親友と一緒だと、どちらも楽しかった。
まだ夏休みは始まったばかりだが、さっそく女子高生らしい夏の思い出を作れた。
それに――晶の心配していたナンパ問題など無かった。あの人は一体どういうイメージを持っているんだろうと、姫奈は微笑した。
「姫奈ちゃん」
八雲がプール内を歩いて近づき、姫奈の座る浮き輪にしがみついた。
「大丈夫? 酔ってない?」
「うん。たぶん大丈夫。でも――もうあんなのオーダーしちゃダメだからね」
反省しているようだが、姫奈は念のため釘を刺しておいた。
視界の隅で、立ち去るグループが見えた。営業時間は二十一時までだと思い出し、名残惜しくなった。
「八雲……。来年も、また来ようね。ていうか、帰りたくないな」
あまりにも居心地が良すぎた。
本当に夢の世界にでも居るようだった。
青い光に照らされた水の影が反射し、八雲の顔に映っていた。ゆらゆらと揺れていた。
少し濡れているせいか、親友の顔がなんだか色っぽく見えた。
その映像も――そして、これから先の行為も、幻想的だった。夢の中のワンシーンのようだった。
コツン、と。額に何かが軽く当たった。
それが八雲の頭に乗っていたサングラスだと分かった時には、唇に一瞬、何かが触れていた。
おそらく、周りの客は気づいていないだろう。
姫奈自身、それがどんな感触だったのか分からなかった。
それぐらいさり気ない、自然なキスだった。
「ウチはね、姫奈ちゃんのことが好きだよ」
揺れる水影の奥で――中学生からの親友は、優しく微笑んだ。
「……」
やはり、現実味が無かった。これは夢だと、姫奈は思いたかった。
しかし――キスの後の『好き』が何を意味するのか、頭は理解していた。
*
シャワーを浴び、水着から着替え、モノレールに乗って帰路についた。
地元の駅で八雲と別れた。
それまでの間――不自然なぐらい、どちらも『キスと告白』に関しては触れなかった。今日は楽しかったね、と笑いあっただけだった。
初めて口にしたアルコールに酔っているのかと疑ったが、違った。姫奈も八雲も、どちらもいたって素面だった。
帰宅後しばらくして、携帯電話がメッセージアプリ受信の通知音を鳴らした。
相手が八雲であると、姫奈は見なくても分かった。
携帯電話の画面を恐る恐る見てみると、写真が何枚も送られていた。八雲からのメッセージ自体は一言も無かった。
写真を眺め、今日の思い出を振り返った。
貝殻に並んで座った時から、どれも自分が自然に笑えていることが意外だった。
きっと、それぐらい楽しかったのだろう。
――しかし、写真を見てもその感情は再び湧かなかった。
『ありがとう』
姫奈は一言だけ返信すると、ベッドに倒れ込んだ。
既読マークを確認することなく、枕に顔を埋めながら、携帯電話の電源ボタンを押した。
次回 第13章『元の関係』
八雲からの気持ちに姫奈は困惑していた。ひとりで悩んでいても仕方ないため、ある人物に相談する。




