第16話(前)
翌日。姫奈は学校へ行くと、昇降口の掲示板に中間試験の成績上位者が貼り出されていた。
姫奈の名前があったが、喜ぶ気分にはなれなかった。
その日は一日中、頭がぼんやりとしていた。アキラをどう見ればいいのか分からないまま、放課後を迎えた。
バイトには行こう。わたしが正体を知った事を、アキラさんはきっと知らない。
それが姫奈の暫定的な答えだった。あわよくば『いつも通りの関係』で居られると思った。
現実と向き合うと決めたが、結局は逃げる事を選んだのだった。
スカートのポケットにあった細長いもの――アキラから渡されたライターを握りしめた。
昨晩からの雨は、放課後になっても降り続いていた。
傘をさして校門を抜け、しばらく歩いていると、背後から一台の自動車が徐行運転で近づいてきた。
黒色のSUV車だった。
姫奈は立ち止まると、運転席の窓が降りた。
「やあ、姫奈ちゃん。お姉さん達と、ちょっとドライブに行かない?」
スーツ姿の林藤麗美が、サングラスを外して微笑んだ。隣の助手席からは、マスクを着けた柳瀬結月がぼんやりとした瞳を向けていた。
「すいません。わたしこれから、バイトに行くんで……」
嫌なふたり組だと思いながらも、姫奈は苦笑で会釈した。
「残念ながら、今日はお店閉まってるよ。――晶が寝込んでるからね」
麗美の言葉から、アキラの様子が安易に想像出来た。
昨日の今日のタイミングで――姫奈は、ある予感がした。
「まあ、乗りなさいな」
動揺が表情に現れたのだろうか。麗美はどこか哀れみながら、親指で後部座席を指した。
姫奈は逃げられないと覚悟し、後部座席の扉を開けた。
姫奈が乗り込むと、麗美の運転する車はすぐ、高速道路に上がった。
「どこに向かってるんですか?」
「安心しなよ。お話が済んだら帰してあげるから」
「……ごめんなさいね、姫奈ちゃん。ここも安心というわけでもないけれど、私達周りの目が怖いのよ」
著名人の生活は全然想像できないが、落ち着いて話せる場を作ったのかと姫奈は理解した。
側面のスモークガラスから同じような景色が続いているのを眺めていると、逃げ道を完全に塞がれたとも思った。
「最初にさ、これ訊かせて。――本当に知らなかったの?」
後部座席から、サングラス姿の麗美がルームミラー越しに見えた。真っ直ぐ前を見て運転しているため、視線は合わなかった。
「……はい。本当です」
何をですか? と姫奈は訊ねなかった。
「あーあ。私の負けかぁ」
「ほらほら。姫奈ちゃんは見かけ通り、純粋で良い子なんだよ」
姫奈の回答に、前方のふたりが盛り上がった。
「あー、ごめんね。この前、晶の店で三人集まった時に、姫奈ちゃんが私らのことガチで知らないのか、知らない振りの演技なのかで盛り上がっちゃってさ。私はガチ派だったよ」
「私は演技派だったわ」
大人ふたりが談笑を始めた。
姫奈としては重い空気のつもりだったので、その落差に戸惑った。
「すいませんでした……。RAYという名前だけは昔っから知ってたんですけど、メンバーの名前も顔もさっぱりで」
「いやー。何も、姫奈ちゃんが悪いわけじゃないよ。……まあ正直、超ショックだけど」
「そうよね。てっぺん取った手応えあったもの」
「ていうか、最近の若い子って何に興味あるの? ネット配信者? アニメ声優? インディース歌手?」
「いえ。そういうのも、わたしは全然です。あっ、でも――結月さんはこの前、雑誌で見ましたよ」
姫奈は雑誌名を口にすると、前方のふたりは冷ややかな声で驚いた。
「姫奈ちゃん、無理しなくてもいいのよ? あなたぐらいの歳だと、もっと別に読むものあるでしょ?」
「ちなみに、あのインタビュー私が代わりに答えてるんだよ。結月に喋らせると、とんでもないことになるからね」
それは秘密にしておいてよ、と助手席の結月がハハハと笑っている麗美を小突いた。
そんなふたりの様子を、姫奈は苦笑しながら眺めていた。
「ちょっとだけ話を戻すけどさ……晶はあの時『ガチ派』だったんだ。全然疑わないで、姫奈ちゃんのこと信じてたよ」
麗美は声のトーンを少し下げ、落ち着いて話した。
純粋にわたし個人を信じてくれていたと知り、姫奈は目頭が熱くなった。だが、溢れそうになった涙をぐっと堪えた。
「昨日の晩、珍しく晶から電話きてね。『姫奈ちゃんの友達が不思議そうにすっごい見てたから、たぶん気づかれた。どうしよう』って血相変えてた。別にもうバレたっていいじゃん、って私は軽く流したんだけど……。でも晶にしてみれば死活問題だったみたいで、一晩でパンクしちゃったってわけ」
やはり、アキラが今日寝込んだ理由は昨日の一件だった。
「はい……。確かに、昨日その友達から訊ねられて初めて知りました」
「それで――姫奈ちゃんとしてはどうなの? 晶ちゃんや私達のこと、現在はどう思ってるの?」
助手席の結月が振り返った。眠たげな瞳は相変わらず何を考えているのか分からなく、姫奈は言葉の深い意図が読めなかった。
「正直、わかりません……。えっと、怒らないで聞いてくださいね? 確かに、めちゃめちゃ凄い人達なんだとは思いますけど、今さら実感湧かないんです。アキラさんも、おふたりも……アイドルというより身近な『カッコいいお姉さん』というのは、今でも変わりません」
姫奈は、本心を正直に話し、俯いた。
おそらく『会う』と『知る』の順序が逆なら、結果はまた違っていただろう。予備知識が無く個人として会っている以上、印象は大きく変わらなかった。
「私としても、姫奈ちゃんがそうなら、それでいいじゃんって感じ。今まで通り、またふたりで仲良くカフェやって欲しいよ。……でも、晶が拗らせてる理由もなんとなく分かるんだ」
頭上の雨音が、自動車の薄い天井越しに重く響いていた。
「麗美ちゃん――」
「いいんだ、結月。姫奈ちゃんはもう部外者じゃないんだから……。何も知らない一般人をあの晶がバイトとして雇った以上、遅かれ早かれ、いつかはこうなってたよ」
定期的にワイパーの動いているフロントガラスを眺めながら、麗美は結月の制止を振り切った。
「いいかな、姫奈ちゃん。全然愉快な話じゃないから、喋るのはこれっきりね。これを聞いたうえで、もう一度考えみて」
麗美の前振りに、姫奈は顔を上げて確信した。
アキラの事故――世間は亡くなっていると認識している事に触れる、と。




