第九十三話
十一月の終わりに差し掛かった頃、姫奈はかつて通っていた夜間専門学校の特別講師として招かれていた。
その日は姫奈が早退し、晶は店の最後の戸締まりをすると、ひとりで帰宅した。
アパートの部屋の扉を開けると、奥から一匹の猫が玄関の柵まで駆け寄ってきた。
「わかったわかった。餌やるから、落ち着け」
足元でミャーミャー鳴く猫と共に、晶はリビングへと向かった。
五年前にstella e principessaの開業を機に、このアパートへ姫奈とふたり引っ越した。店に近い物件は他にもあったが、ペット飼育可能な物件はここしかなかった。
引っ越しと店の開業が落ち着いた頃、譲渡会でこの猫を引き取った。
姫奈が『モカ』と名付けた、茶トラのオス。誕生日や年齢は不明であり、現在で推定五歳。引き取った時は小さな子猫だったが、すっかり大きくなっていた。
晶はカリカリのキャットフードを計量すると、餌皿に移した。
「どうだ? 美味いか?」
モカはすぐに食いつき、ガツガツと貪った。
ほぼ毎日同じ食事でよく飽きないなと思いながら、晶はその様子を眺めた。
すぐにモカは完食すると、晶から離れて窓辺のキャットタワーによじ登った。
「腹減った時だけかよ。お前は本当に可愛げが無いな」
五年経っても未だに懐かないことに、晶は半ば諦めていた。
晶は先にシャワーを済ませると、夕飯の支度に取り掛かった。ポテトサラダの他、豚汁を作った。
作り置いて待っていると、部屋の扉が開き、姫奈が帰宅した。
「ただいまです。わぁー、美味しそうないい匂いですね」
ペットベッドで眠っていたモカが、玄関へと走り出した。
「モカにゃん! いい子でお留守番してた?」
「おかえり。先にご飯にする――か?」
リビングに姿を現した姫奈を見て、晶は言葉を詰まらせた。
片手でモカを抱きかかえ、トートバッグを肩にかけた腕はエコバッグを持っていた。
そのエコバッグの中には分厚い何かが入っていると、形状から分かった。
そして、エコバッグには有名な結婚情報誌の名前が印字されていた。
「……それ、何だ?」
晶はエコバッグを指差し、恐る恐る訊ねた。
「ああ、これですか? ビックリしますよね……わざわざ、こんな鞄に入れてくれるんですから。隠れて買いたい人だって居るかもしれないのに、凄いアピールです」
やっぱり、これ買う人は後ろめたさが無いぐらい幸せなんですかね?
そう付け足しながら、姫奈はエコバッグの中身を取り出した。
分厚い雑誌――エコバッグに印字されている通りの、結婚情報誌だった。
想像通りのものが出てきたが、晶は困惑した。
なぜ、姫奈にこの雑誌が必要なのか。思い当たる節は全く無かった。その状況下で答えを模索できるはずもなく、平静を装うのに精一杯だった。
ただ、ひとつ――どうしても否定したい強烈な予感に襲われた。
胸の鼓動は高まり、嫌な汗が首筋を伝った。
「まだ本屋さんに残っていて、よかったですよ。付録の印鑑ケースがとっても可愛くて、欲しかったんで……」
姫奈は雑誌のページに挟まっていたものを取り出した。
有名なキャラクターの描かれたハート型のプラスチック製品――姫奈の言葉から、晶は印鑑ケースだと理解した――が、ビニール袋に梱包されていた。
それを掲げ、姫奈はとても嬉しそうに笑っていた。
「なんだ、付録目当てか……。ビックリしたじゃないか……」
晶はようやく姫奈が購入した意図を理解し、胸を撫で下ろした。
しかし、引きつった表情で乾いた笑みが漏れた。まだ動揺していた。
「豚汁、具だくさんで超美味しいですよ! 温まります」
「そうか。それはよかった……」
「冷凍ご飯チンしますけど、晶さんも要ります?」
「いや。私は大丈夫だ」
姫奈は化粧を落として部屋着に着替えた。
晶は姫奈と、遅い夕飯を食べた。頭がぼんやりしているせいか、味がしなかった。
食べ終わり、後片付けを済ませると、姫奈は風呂に入った。
その間、晶はリビングのソファーに横になっていた。
目の前のテーブルには、付録の印鑑ケースを乗せた結婚情報誌が置かれていた。
「……」
妙に分厚い雑誌だった。表紙の『結婚式の費用明細』『ふたりで話すべきこと』『新婚お悩み相談』等の見出しが目に入った。何ページに渡ってそれらが書かれているのか気になったが、中身を読む気にはなれなかった。
それらの見出しよりも、晶はウェディングドレス姿の表紙の女性に目がいった。
その姿は、物心がついた頃に憧れたことがあった。
しかし、現在は――純白のドレスを着た姫奈の姿が、脳裏に浮かんだ。
姫奈とここでの同棲を始めて五年、出会ってからは八年となる。
八年間、恋人として付き合ってきた。生活に変化はあったが、ふたりの距離に変化は無かった。
晶はそれに安心していた。これからも、ずっと変わらないと思っていた。
だが、女子高生の導き手になるほどに姫奈が成長していたことを、改めて感じた。
それでいて、二十三歳とまだ若い。姫奈のこれからの可能性は、まだ未知数だった。
だから、この雑誌を見た時――姫奈が他の誰かと遠くに行ってしまう予感に襲われた。常識的に考えて年齢的にあり得ないが、インターンシップに参加している女子高生の顔が、一瞬浮かんだ。
私の側に、これからも居てくれるんだろうか?
ふとした疑問は、拭えない恐怖感としてまとわりついた。自分を落ち着かせるように、晶は右手薬指の指輪に触れた。
ニャン、と――モカの鳴き声で、晶は我に返った。
モカがテーブルに上り、包装された印鑑ケースを物珍しそうに前足で撫でていた。
「おい。こら、やめろ」
このままだと玩具になってしまうと思い、晶は身体を起こしてモカを抱きかかえた。
「ふぅ……。いいお湯でした」
暴れるモカを抱えながら、印鑑ケースを手に取ったところで、風呂上がりの姫奈が姿を見せた。
晶はモカを離すと、姫奈の足元へと走った。
「これ、どこかに片付けておけ」
「すいませんでした。ていうか、早速使いましょうよ」
姫奈は印鑑ケースを受け取ると、ビニール袋の包装を破り、中身を取り出した。
開いたハート型のケースには、二本の印鑑が収まるようになっていた。
「ほら。わたしと晶さん、ふたり分が入りますよ!」
常識的に考えれば旧姓と新姓の二本を入れるものだと、晶は理解していた。
しかし、姫奈の笑顔を見ると、それが本来の使い方であるとさえ思った。
姫奈の右手には、色違いの自分と同じ指輪が輝いていた。
晶はそれを確かめると気分が少し晴れ、ふっと苦笑した。そして、姫奈に近づき、正面から抱き締めた。
「えっ、どうしたんですか?」
「……なんでもない」
姫奈の困った声を聞きながら、晶は姫奈の胸に顔を埋めた。
パジャマ越しに、湯上がりのボディーソープの香りと――温もりを感じた。
「もう……甘えん坊さんですね」
「別にいいだろ? これからも、ずーっと甘えるからな……」
頭を撫でられながら、晶は顔を上げた。
今にも泣き出しそうな表情をしていると、自分でも分かった。
しかし、強がることなく姫奈を見つめた。
「いいですよ。わたしに一生甘えてください……」
微笑む姫奈から、そっと唇を重ねられた。
現在の晶には、これ以上ない安心感を与えられた。
特別編
『涙』
shouldn't be so patient anymore




