第88話
一年前。
麗美は、開業したばかりのEPITAPHに立ち寄っていた。
天羽晶の様子が心配だったので、こうして暇を見つけては訪れていた。
「もうかりまっか?」
「ぼちぼちな……」
麗美はカウンター席に腰掛け、晶とそのようなやり取りをした。
晶は浮かない表情だった。ここ一年、ずっと見てきた表情だった。
この店には既に何度か訪れているが、麗美は客の入っている場面に遭遇したことが一度も無かった。
カフェという体は成していなかった。『ファンとの別れの場』として機能しているだけだった。
いくら立地が悪いとはいえ、元トップアイドルのカフェだというのに世知辛いなと思った。
晶がカフェをやりたいと言い出し、麗美は準備を手伝った。明確な店の目的があるが、一般的なカフェとしても営業することを、少し期待していた。
カフェのマスターとして、ひとりの『一般人』として晶が歩き出すことを望んでいた。
しかし、現実は厳しかった。
ひとりじゃ無理なのかな……。
麗美の脳裏には、もうこの世には居ない一栄愛生の影が浮かんだ。彼女が遺した晶への贈り物を思い出した。
あれこそ現在の晶に必要なものだが、現在の晶に渡せないのが、この上ない皮肉であった。
それを除いても、晶本人からやる気が感じられなかった。提供する飲み物はインスタントのエスプレッソマシーンを使用して――以前までカウンター席から見えていたキッチンのエスプレッソマシーンが無くなっていることに、麗美は気づいた。
「そういえば、学生のバイトをひとり雇った」
「え? バイト?」
突然の晶の言葉に、麗美はきょとんとした表情を見せた。
「どう見たってバイトなんて必要ないと思うんだけど、マジで雇ったの?」
「どうしてもって言われてな……。こんな店なのに、わざわざ履歴書まで持ってきたんだぞ? それぐらい、私が憧れなんだとさ」
「それはよくないよ。ファンの子とはちゃんと距離置いて――繋がり持っちゃダメだって」
話の流れから、麗美は察した。
こうなる可能性は事前に分かってはいたが、この店まで訪れるファンは節度を持っているものだと思っていた。迷惑をかけないものだと、ファンを信用していた。
「いや、それがな……。ファンじゃないんだ。この顔はともかく、アキラという名前を出しても気づかなかった。どうも、芸能人やトレンドには疎いらしい。正真正銘、私のことを知らない一般人だ」
苦笑する晶の表情を、麗美は久々に見た気がした。
それが嬉しい反面、晶の言葉が今ひとつ信じられなかった。
「えっ、マジ? あんたのこと知らないなんて、そんなの有り得るの?」
一年前だが、麗美はRAYがトップアイドルの座についた確信を得ていた。少なくとも、この国で三人の名前を知らない人間は存在しないと思っていた。
「信じられないだろうが、本当の話だ。私だって最初は驚いたさ」
「本当だとしたら、その世間知らずっぷりが超ムカつくんだけど……知らないフリしてる演技じゃないの?」
「そんなことはないと思うけどな……。まあ、もうすぐ来るから見てやってくれ。ヒナという奴だ」
可愛い響きの名前だなと、麗美は思った。そして、晶がわざわざ雇ったのがどのような人物であるのか、興味が湧いた。
それからすぐのことであった。店の扉が開き、学生服姿のひとりの少女が現れた。
「お疲れ様です」
店内に客が居ないこと前提の挨拶だと、麗美は思った。
「やあ!」
「い、いらっしゃいませ」
麗美はわざとらしい挨拶をした。
少女は現状をようやく理解したのか、挨拶を言い直した後、そそくさと奥の部屋に入り込んだ。
「おい、姫奈。別に客でもないから慌てなくてもいいぞ」
「えっ、お客さんじゃないんですか?」
晶から誤解を解かれるも、部屋から出てきた少女はきちんとエプロンを纏い、髪を結んでいた。
麗美の抱いた少女の第一印象は『背の高い少女』だった。身長には自信のあった麗美だが、おそらく自分より高いため、真っ先にそう感じた。
「こいつはレイミ。私の旧い知り合いだよ」
「この子がヒナちゃん?」
「ああ」
「ふーん」
麗美は物珍しそうに少女を眺めると、少女は恥ずかしそうに俯いた。
髪型と髪色を変えた晶はともかく、麗美の首から上は現役時代と変わらなかった。
しかし、残念ながら少女に『目の前にあの林藤麗美が居る』という動揺や緊張感は一切無かった。
「……うん。本当だ」
麗美は晶の言葉をようやく信じた。
確かに演技の気配は無く、この少女は本当にRAYを知らない。天然記念物のような人間は実在した。
晶の話では腹立たしい存在だったが、いざ実物を目の当たりにすると、驚きから拍子抜けした。
「だろ?」
「今どき珍しいねぇ。それとも、最近の若い子はこうなのかな?」
「どうなんだろうな。私もお前も、自惚れていたのかもな」
「あのー……。さっきから何の話ですか?」
「何でもないよっ!」
現場を離れて時間が経ったからか――元トップアイドルとしての屈辱は、意外にも無かった。
一般人となった晶が自分の正体を知らない一般人と出会ったという奇跡に、麗美は静かに喜んだ。
店の現状としては、確かにアルバイトは不要だった。しかし、晶を良い方向に導く存在になり得るので、少女は必要だと思った。
「姫奈。お前が来るのを待ってたんだよ。こいつにコーヒー淹れてやってくれ」
晶に言われ、少女はコーヒーを淹れた。
偶然にも、ハンドドリップだった。
どこかおどおどと頼りない少女だったが、不慣れながらも真剣だった。コーヒーを淹れる瞳は真っ直ぐだった。きっと、この目で晶はアルバイトをせがまれたのだと、麗美は想像した。
ああ。そうか――
この雰囲気が、麗美には懐かしかった。
晶が少女を雇った理由を理解した。
「うん、美味しい」
出されたホットコーヒーを一口飲み、麗美は率直な感想を漏らした。
「ようやくカフェらしくなってきて、よかったじゃん」
麗美の目から見て、改善すべき箇所はまだ山のようにあるが、希望を感じさせた一杯だった。
これから一般的なカフェに成り得る可能性は充分にあると思った。
「ねぇ、ヒナちゃん。この女、メンヘラとサブカルを足して二で割ったような感じだよ? どう見たって近づいたらヤバい感じするんだけど、よくここでバイトしようだなんて思ったね」
「メンヘラ? サブカル? えーと……」
麗美は晶を指差し、少女に意地悪な質問をした。確認のつもりだった。
「アキラさんは……カッコイイです。わたしの憧れです」
少女ははっきりと、そう答えた。
たとえ晶の正体を知らなくとも、少女には惹かれる部分があるのだ。
空っぽだと思っていた晶の中に、少なからず何かがある――まだ残っていることを知り、麗美は少し安心した。
ゼロでは無いのなら、それを大きくすることが出来る。
晶には、再び誇れるものを持って欲しかった。それを抱え、一般人としての人生を歩んで欲しかった。
一栄愛生の気持ちを届けるために――RAYを終わらせるために――
結末には必ず痛みが伴うと、麗美は理解していた。
それを知りながらも、ふたりを見守るしかなかったのだ。
大切な仲間の幸せを願った。
――その気持ちは偽善に過ぎないと、自覚していた。
「ヒナちゃん――アキラのこと、よろしくね」
私は、なんて残酷な女なんだろう……。
麗美は少女に微笑むと、EPITAPHを後にした。




