第86話
四月十日、日曜日。
桜の木は花びらがほとんど散っていた。
「私のことを恨みたければ、恨んでくれて構わない」
一栄愛生の墓石の前に立ち、天羽晶はそう告げた。
ここへは十日間通ったが、愛生の声は最後まで聞こえなかった。彼女が自分に対し、本当に恨んでいるのか、何を想っているのかは、これからもきっと分からないだろう。
「それでも、私はもう行くよ……」
しかし、彼女と過ごした九年間は確かに在ったのだ。それらの記憶が晶の中で、これからもずっと罪悪感として残るだろう。
晶は二年かけ、ようやく受け入れることが出来た。一生背負っていく覚悟が出来た。
すまない――何度言ったか分からないその言葉を、再度口にしかけた。
――違いますよ。そこは感謝するところです。
耳元で、少女の声が聞こえた気がした。
晶は右腕を顔まで上げた。手首に着けたチェーンブレスレットの宝石が輝いていた。
陽の下では、鮮やかな青色に見えた。
「愛生。ありがとう……。お前との思い出は、これからもずっと大切にしていく……」
罪悪感であるのかもしれない。
しかし、あの九年間は、彼女との幸せだった日々は、晶の中で温かな思い出だった。
それを大切に心に仕舞うことが、感謝の気持ちを持ち続けることが、かつての最愛だった人物への敬意なのだ。
もう泣かないと決めていたが、晶の左目から涙が流れた。
泣きながら、晶は優しく微笑んだ。十日間で初めて見せた笑顔だった。
青空の下、散り落ちた桜の花びらが、春風に舞った。
その中を、晶は歩き出した。
歩くために必要なものを、しっかりと抱えながら――
*
自宅の最寄り駅に着いた時には、夕方になっていた。
自宅への帰り道、途中にはEPITAPHがあった。
しかし、まだ明るい時間帯だが、店のシャッターは下りていた。
「……」
晶は店の前で一度立ち尽くすと、そのまま客船ターミナルの広場へと向かった。
EPITAPHが閉まっているからか、最近は賑やかだったが、現在は誰ひとり居なかった。
緩やかな階段状になっている広場の段差で、晶は腰を下ろした。海に面した柵――いつもの定位置まで歩くのが、なんだか疲れた。
橙色に染まった広場で、晶は十日振りに煙草を吸った。
広場の雰囲気も、煙草の不味さも、まるで一年前のようだった。
流石に、愛想尽かされたかな――
ぼんやりと、そう思う。
とてつもなく大きな不安のはずだった。しかし、泣き疲れていたことから、頭が上手く働かなかった。
この十日間、下着はコンビニで購入したものに替えたが、衣服はずっと同じものを着ていた。髪と肌は痛み、化粧もしていない。
ボロボロだなと、晶は自嘲した。
少女に、最愛の人に会いたいのに――こんな格好悪い姿では、会う資格が無いと思った。
会いたいな……。
しかし、その気持ちは消えるどころか次第に大きくなった。右手薬指の指輪とチェーンブレスレットをそっと撫でた。
晶はこの十日間の行動に、悔いが無かった。だが、少女に何も告げなかったこと、何も連絡しなかったことに関しては、現在になってひどく悔いた。
結果として、あれだけ大切にしていたものを手放した形となっていたのだ。
それを自覚すると、ぼんやりとしていた不安が、段々と形を帯びてきた。現実味を増してきた。
まさか、もう本当に会えないのでは――
煙草があまりにも不味くて吸えたものではないので、吸いかけだが携帯灰皿に閉まった。
誰も居ない広場。さざなみの音が不安を煽る。孤独の恐怖が押し寄せる。
それに耐えきれず、左目から涙が溢れた。あれだけ泣いたのに、まだ涙が残っているのだと驚いた。それを拭おうと、手を伸ばした。
「何やってるんですか……」
しかし、背後からの声に咄嗟に手は止まり、晶は振り返った。
広場の最上段で、長い影が伸びていた。
――晶が受けた第一印象は『背丈の高い人物』だった。
だからこそ長い髪とロングカーディガンが映え、潮風に揺れていた。
「明日から新学期なのに、今日は定休日なのに……いつ帰ってくるんだろうって、様子を見に来たらこれですよ……」
もう一度声を聞いて、懐かしい声だと晶は思った。
声の主は不機嫌そうに、晶の横を降りていった。広場の端――海に面した柵まで歩いた。
「で――こんな所で、大人がひとりで何してるんですか?」
女性は振り返り、柵にもたれ掛かった。
まるで、成人している女性だと晶は思った。
そう。決して少女のようなあどけなさは無かった。
逆光で、かつ距離が離れていても――眼鏡を外し、凛とした表情は――体の大きさに見合う『大人』の顔つきだと分かった。
「失恋でもしたんですか?」
真っ直ぐな瞳が、晶に向けられた。
「ああ。ちゃんと失恋してきた……」
晶は左目から涙を流したまま頷いた。
――失恋にはまだ時間がかかると思う。
クリスマスにこの場所で言った台詞を思い出した。
あの時は、気持ちの自然な変化を望んでいたが、こうして強引に気持ちの整理をつけてきた。
「黙って行って、悪かった。あの時の私は、どうにかしてたんだ。大事なものを、こうも簡単に投げ出すなんてな……」
どれだけの謝罪も、どれだけの言い訳も、意味が無いと分かっていた。
それでも、晶は懺悔するしかなかった。
「過ぎたことは仕方ないでしょ。貴方はこれからどうしたいんですか?」
「分からない……」
それは嘘だった。自分のやりたいことは分かりきっていたが、不安が口にするのを妨げた。
女性は柵から離れると、スタスタと晶に近づいた。
晶は女性から強引に立ち上げられ、そして左頬を平手打ちされた。乾いた短い音に続き、左頬に熱い痛みが広がった。
「晶さん、言いましたよね!? わたしのこと、自分の誇りだって!」
――よくやったな。お前は私の誇りだ。
雑誌の取材があった時、晶は確かに言った。あの時は少女の成長に、心からそう思った。
「わたしもお店のことも、もっと誇りに思ってくださいよ!? もっと大切にしてくださいよ!?」
両肩を掴んで揺らす女性の表情は、今にでも泣き出しそうだった。泣くのを堪えながら、必死に訴えていた。
「わたしと一緒に、宇宙一のカフェを目指すんじゃなかったんですか!?」
――世界一でいいのか? 目指すのは、宇宙一だろ?
晶としても、あの言葉に冗談や誇張は無かった。それだけの自信があったのは、この女性と――澄川姫奈とEPITAPHを成長させたからであった。
あの日々がとても懐かしく思え、晶はさらに涙を流した。
「……まだ間に合うのか?」
「それは晶さん次第です……」
消え入るような声の返事と共に、姫奈に力強く抱き締められた。
温かかった。抱えていた不安が和らいだ。
まだ手を伸ばせば――掴めそうな気さえした。
「誕生日プレゼント、ありがとう……。お前のセンス、とても良かったぞ……」
脱力気味の晶は姫奈の肩越しに、橙色の空をぼんやりと眺めていた。
「晶さんと一年居ましたからね……晶さんほどではないにしろ、わたしのセンスもちょっとはマシになったと思います……。それに、大好きな人のことを考えてのことですよ……」
まだ自分のことを好きだと言われ、とても嬉しかった。
――その気持ちを汲みたかった。
澄川姫奈とEPITAPHの存在は、現在の天羽晶にとって誇りとなっていた。
空っぽだった自分に、大切に思うものが確かに宿っていた。
しかし、ボロボロで格好悪い自分が、この女性に釣り合う存在であるのか、分からなかった。
本当に掴んだままでいいのか、分からなかった。
「こんな私なんかが……お前のこと、誇りに思ってもいいんだな?」
「当たり前じゃないですか! 晶さんはいつだって最高にカッコいいんですから!」
姫奈は晶から離れると、微笑んだ。まるで子供のように無邪気な笑顔を見せた。
「――私は、生きたい」
不安が消えた現在――晶は『やりたいこと』を口にした。
大切に抱えた誇りのためにも、どれだけ辛くても生きなければならなかった。無理やりにでも、格好良く振る舞わなければいけなかった。
晶は、責任を果たすことを望んだ。
「もう二度と手放したりはしない……。だから、私の人生に付き合ってくれ!」
「言われなくても、わたしはどこまでも付き合います!」
それは確認ではなく、心からの願望だった。
自分の人生に巻き込むことへの躊躇は無かった。それほどまでに欲した。
「ありがとう……」
これ以上無い返事に、左目から溢れる涙は止まらなかった。
拭うこともせず、嗚咽を漏らしながら感謝した。生きることへの願望を、ようやく許された気がした。
それに応えるように、姫奈からそっとキスをされた。
そして、唇が触れたまま――医療用眼帯を外された。
まるで、重い枷を外されたような開放感があった。
右目で光が視えたような気がした。長らく忘れていた両目で見ていた景色を、思い出したような気がした。
この一年間の思い出があるように、ふたりで語ったこれから先の将来図が確かに視えた。明るく、希望に満ちたものだった。
そう信じられるものが、右目の奥に宿っていた。
「これからも、私の誇りで居てくれ!」
「はい。愛しています」
左目の涙を拭われ、霞んでいた視界の向こう――すぐ目の前に、眼鏡を外した澄川姫奈の顔があった。
自信に満ち溢れたその顔は、すっかり大人の顔つきへと成長したと改めて思った。かつての劣等感を抱いていた童顔では無かった。
姫奈が素顔を隠す仮面を外したように、晶も仮面を外してもいいと思えた。
もう空っぽではないのだから――
「すっごく心配したんですからね……。おかえりなさい……」
「ただいま……」
晶は、大切な存在を力強く抱き締めた。
どれだけ格好悪くとも、どれだけ情けなくとも、彼女のために生きようと心に誓ったこの日――天羽晶は、胸を張って自分の人生を歩けた。
次回 第32章『解散』




