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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第31章『誇り』
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第85話

「どうしてカフェなんですか?」

「この前言ったかもしれないが……コーヒーでも淹れながら、ゆっくり、のんびりとした時間を過ごしたいんだ」

「でも、コーヒーの淹れ方わからないんでしたっけ?」

「うるさいな。お前だって、知らないだろ?」

「まあ、そうですけど……。そのうち道具を買いますんで、ふたりで練習しましょうよ」

「そうだな。いずれ訪れるかもしれない日のためにな」

「はい……。別に、お客さんが来なくてもいいじゃないですか。こじんまりしたお店で、晶さんとふたりで細々とやっていけたらなって、私は思いますよ。だから、どれだけ不味くても大丈夫です!」


 頭上には青空が広がっていた。

 春風が、満開の桜の木を揺らす音が聞こえた。

 暖かな風と共に、桜の花びらが綺麗に舞った。


「そんな日は来ないんだよ! 本当に、すまなかった!」


 その美しさを眺めることなく――一栄愛生(いちえあい)の墓石の前で、天羽晶は涙を流して謝罪していた。


 四月一日、金曜日。世間は平日だからか、墓地には晶の他に誰も居なかった。

 誰にも行き先を告げず、携帯電話を持たず、ここにひとりで訪れた理由はひとつだけだった。


 ――許されたかった。

 かつての最愛の人を、自分の人生に巻き込んでしまったこと。

 その結果、事故で二度と帰らぬ存在になったこと。

 自分ひとりだけが生かされたこと。

 そして、そんな自分が幸せになろうとしていること。


 晶はそれらの罪悪感に蝕まれていた。この二年間で、初めてのことだった。

 あの事故以来、天羽晶が一栄愛生のことを忘れた日は無かった。

 晶にとって愛生との別れは辛い出来事だった。しかし、時間の経過と少女との日々が徐々に『思い出』へと変えていった。

 それを大切に仕舞い、ようやく前を向いて歩けるはずだった。


 だが、思い出はここにきて罪悪感へと変貌した。

 それは少女と出会ってからの一年間、晶の中でずっと眠っていたのだ。

 目覚めたきっかけは、林藤麗美と柳瀬結月のふたりによって届けられた一栄愛生からの贈り物だった。

 コーヒーを淹れるための道具と共に入っていたメッセージカードには、こう書かれていた。


 ――美味しいコーヒーを淹れられるよう、頑張りましょう!


「私はもう、美味しいコーヒーを淹れられるんだ!」


 愛生の時間は止まったままなのだと、晶は痛感した。

 そして、彼女の時間が二度と動かないことも――


 彼女を置いたままの二年間は何だったのだろうと、晶はふと思う。

 本当は、私の時間も止まったままでいるべきだった。

 本当は、ぽっかりと空いた右目が満たされてはいけなかった。

 本当は、空っぽの毎日を送るべきだった。

 それでも、私は――


 罪悪感が、晶のこの一年間を否定した。しかし、晶はさらに否定した。

 もがき苦しむ中、かろうじて首を横に振った。

 肯定と否定。謝罪と懺悔。それらを交互に繰り返している内に、晶の身体がその場に崩れ落ちた。


「すまなかった……」


 墓石の前に跪き、嗚咽と共に声を絞り出した。

 無常にも、暖かな陽射しに照らされた。

 震える背中を擦る者は、この場には居なかった。


 日が暮れると、足を引きずりながら近くのビジネスホテルに移動した。

 ろくに食事を摂らぬまま、シャワーと就寝だけを利用した。


 それから何日かは、墓地とホテルの往復だった。

 晶は一日中、一栄愛生の墓石に泣いて謝った。

 罪悪感があれど、愛生からの恨みが迫ってきたわけではない。だが、愛生の許しを得ない限り、ここから先へは進めないと思った。

 一向に聞こえてこない愛生の声を待ちながら、晶は罪悪感にさいなまえた。心身ともに擦り減らした。

 まるで、二年前のようだった。

 どうにもならない現実に、心のどこかでは死を望んだ。三つの傷跡が痛んだ。

 そして、頭が痛いのか、右目の奥が疼くのか、それとも両方なのか――分からなかった。


 だが、頭痛が酷くなったのは五日目のことだった。明らかに、精神疾患以外の現象だった。

 涙を流しすぎたことからの、脱水症状だった。

 頭が割れそうな激しい痛みが生の実感と、情けなさを与えた。

 コンビニでスポーツドリンクを購入し、少しずつ飲んだ。


 身体に潤いを与えると、次は腹が鳴った。いっそ死にたいと思っていたのに――それでも空腹を感じた。

 あまりにもおかしく、晶は乾いた笑みが漏れた。

 悔しくて情けない思いで、コンビニで購入したおにぎりを食べた。何も味がしなかったが、無理やり腹に詰め込んだ。


 心は死を望むが、身体は生を望んでいた。故に、どれだけ心が不調であろうと身体は死ねなかった。

 相反する中で――晶は、少女が初めて作ってくれた料理であるハンバーグを、ふと思い出した。

 いくら不出来で不味くても、少女との食事はとても美味しく、とても温かかった。それが懐かしくなり、涙を流した。


 この一年間、少女と沢山の思い出を作った。これもまた、晶の中でかけがえのないものとなっていた。

 それらを順に振り返るが、やはり罪悪感が込み上げてきた。

 空っぽの自分の人生に巻き込んで、よかったのだろうか――晶は現在になって、そう思う。

 まだ十六歳という若さなのに、こんな自分を信じて進路を決めた。その決断を聞いた時、少なからず恐怖はあった。大学への進学が彼女の為だと思った。

 しかし、ふたりで歩いて行こうと約束した。


「すまない……」


 現在は――もう一度少女と顔を合わせられるなら、謝りたかった。まだ間に合うのなら、彼女自身の真っ当な人生を歩ませるべきだった。

 それが、大人としてのせめてもの責任だった。


 巻き込んではいけなかった。信じさせてはいけなかった。

 私は、自分の人生すらまともに歩けないのだから――歩くために必要なものを、持ち合わせていないのだから――

 晶はベッドで震えながら、少女への届かぬ謝罪を繰り返した。


 晶がそれに気づいたのは、九日目のことだった。

 愛生からの許しを得られぬまま、その日も『死ねない身体』でベッドに倒れ込んだ。


 ふと、パーカーのポケットに手を突っ込むと、煙草の箱の他、ひとつの小箱が入っていた。

 身に覚えが無いまま開けると、中には――メッセージカードと共に、シルバーチェーンのブレスレットが入っていた。

 ブレスレットには、カボションカットされた一粒の宝石が嵌められていた。青紫の落ち着いた輝きは、とても美しかった。


 ――お誕生日、おめでとうございます! いつまでもカッコいい晶さんでいてください!


 そして、メッセージカードにはそう書かれていた。


「ひな……」


 涙と共に溢れ出した感情は、情けなさであった。

 少女のそのような期待に応えられないと、分かっていたからであった。

 自分は決して格好良い存在ではない。そのような価値は無い。


 晶はそう否定するが――少女が晶のために贈った青紫の輝きは、それを許さなかった。

 少女がどのような気持ちでこれを贈ったのか、晶には痛いぐらいに分かった。

 そう。たとえどれだけ格好悪くても、憧れの感情を抱いている彼女の前では、格好良くなければならないのだ。

 どれだけ彼女に謝罪しても済む話ではない。これこそが、少女を自分の人生に巻き込んだ、せめてもの責任だった。


 晶は、右目を医療用眼帯越しに手で押さえた。

 まるで涙が溢れるかのように、目の奥が熱かった。

 決して手放せない大切なものは、確かにそこにあったのだ。空っぽでは無かったのだ。

 錯乱して九日間視えなかったものが、ようやく視えたような気がした。


 どれだけ辛くても、どれだけ情けなくても、それを抱えて歩かなければいけない――晶の中で、その強い意志が芽生えた。

 愛生への罪悪感が消えたわけではない。しかし、現在は果たさなければならない責任がある。

 天羽晶は左目で涙を流しながらも、ようやく気持ちが固まった。


 その青い宝石は、タンザナイトと呼ばれるものであった。

 送り主は石言葉を知らなかったが、偶然にも晶へ期待する気持ちと重なっていた。

 そう――タンザナイトは『誇り高き人物』を意味する。

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