表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生存競争の宇宙で  作者: ブンイチ
8/21

幕間    死の惑星で

 

 時をさかのぼること、約三年。惑星オルートが、地獄と化した日。




 夕日が今まさに沈もうとする空から、同時に二つの存在が、重力に引かれて落下していく。


 一つは、まばゆく輝く体を持つ、巨大な獣。

 まるで大気圏へと降りてきた恒星のようなその存在が、本物の恒星より一足早く、海へと墜落する。不思議なことに、その体の巨大さと比して、上がった水柱は極めて小規模なものだった。


 もう一つは、人間の男。

 黒灰色の髪に黒衣の長身。今はそれら全てが血でまみれ、焼け焦げている。つい今しがたまで激闘を繰り広げていた敵手と同様、無防備に落下した男は、固い大地に辛うじて受け身を取りながら激突した。


「……はあっ、……、はあっ、……、はあっ、……、はあっ……」


 男――――イルミナス軍大将にして首都付きの戦闘要員であるディオレ・スティクマは、精も魂も尽き果てていた。


 惑星中の獣が、突如として狂暴化し、互いに争いを繰り広げるという異常事態。

 前触れもなく惑星オルートを襲ったその事態に、駐屯している部隊はその総力を挙げて対処していた。首都星ミッドスターから増援として駆け付けていたディオレもまた同様であり、今まさに、彼はこのオルートの主と呼ばれる、惑星最強の存在との戦いを終えていたのである。


 奴は死んだのだろうか。それを確認することすら困難だった。だが少なくとも、再び戦闘を可能とするほどに回復するには、早くとも半日近くは必要であると見てよかった。

 では、ディオレはと言えば。


「……はあっ、……、はあっ、……、は、ゴホッ、ガハッ! ……ッ、……、はあっ……、はあっ……」


 彼はこの日、惑星の各地で、無数の獣と戦いを繰り広げていた。

 それより以前には、この事態が起こるわずか数時間前まで、隣星フレインでの別の争乱のただ中にいた。

 立て続けの戦闘によって、既に大きく消耗していた状態で、ブリリアントホーンを始めとする複数の強力な獣たちの争いに乱入し、一時的に協力した彼らを相手に、これを制した。


 そして休む間もなく、戦いの気配に惹かれて起き出てきたらしい、この惑星最強の存在と戦闘を行ったのである。

 彼を知る者たちからは無尽蔵とも考えられているディオレの魔力も、とうとう底をついていた。


 そして体の方はと言えば、今も生きているのが不思議なほどの重症である。体力と同様、魔力も休むことで回復していくものだが、それらの魔力をわいてくるそばから生命維持についやすことで、どうにか生きている状態だった。


 だが信じがたいことに、そのような状態にもかかわらず、ディオレは、いまだ任務続行の意思を捨ててはいなかった。


 彼は己のスペックと、今の己の負傷の状態とを、共に完璧に把握していた。

 今の状態で、一秒当たりにどれだけの魔力が回復するか。それらの魔力を、体の回復と、体内に侵入した敵の魔力の迎撃に、それぞれどれだけ割り振るべきか。これ以上敵の魔力によって体の内側が破壊されることを防ぎつつ、体力を回復させるための最適な配分はどこか。


 それらを計算し、寸分の狂いもなく実行する。

 同時に、呼吸を可能な限り一定に保ちながら、手足は微動だにしないことで、可能な限りの体力と魔力の回復に努めていた。


 その間、敵の魔力は常にディオレの体をさいなんでいる。

 全身を、血の代わりに炎が流れているかのような灼熱感。ディオレは自らの意思で痛覚を遮断することも可能としていたが、惑星の主が彼に叩き込んだ魔力は、それを無理矢理こじ開け、脳を焼き切らんばかりに荒れ狂っていた。


「……はあっ、……、はあっ、……、はあっ、……、はあっ……」


 それでもディオレは呼吸を一定に保ち、地面に落下してからぴったり三六秒後、スイッチが入れられたかのように起き上がった。素早く、それでいて体への負担を最小限に留めながら。


 顔中を、浮き出た脈のようなものが縦横に走っているという、彼の異形の容貌は、今は血と傷と火傷にまみれたせいで、ほとんど判然としない。その中で、ただ黒灰色の眼だけが、異様なほどの意志の輝きを放っていた。


 ディオレと仲間たちが戦い続けたことで、また獣たち自身が互いに数を減らし続けたことで、この凄惨かつ不可解な事態も、まがりなりにもその規模を縮小させていっているはずだった。

 しかし、このような事態が起こった原因はいまだ全くの不明であり、今後更に何らかの事態の悪化が起こらないなどとは、誰にも言えないのだ。


 何より、今ディオレたちの肩には、オルートの民間人、数百万の命が乗せられているのである。

 彼らは既に地下の避難地区に移動が完了しており、そこへ続く道は、無数の隔壁と迷路のような構造によって守られている。それでも、強力な獣がたった一匹でもそれらを突破すれば、彼らに成す術などない。


 故にディオレは、そのような事態となる可能性をわずかでも減らすために、いまだ安息にひたることを、己に決して許しはしなかった。まともな戦力として計算することは最早不可能なまでに消耗したが、それでもまだ貢献のしようはある。


 仲間たちはどうしているか。クリスは。十年以上の時を戦場で共有してきたディオレの親友であり、今この惑星にいる仲間の中で、彼に次ぐ実力の持ち主。


 この異常事態にあっては、イルミナス全軍においても屈指の力を持つクリスでさえ、死んでいてもおかしくはない。もしそのようなことになっていれば、流石にこの惑星の一時的な放棄すら考えなくてはならないだろう。


 だがその場合、後日、遅くとも数日以内には実行される奪還作戦までの間、避難地区内の人々が無事であるという保証はない。避難地区には食料を始めとし、生活に必要なものは全て数ヵ月は保つよう準備されているため、外部から侵入されるか、内部でパニックさえ起きない限り、危険はないがそれでも……。


「セヴラン様」

『ご無事でしたか』


 とにもかくにも、状況を確認しなければ始まらなかった。惑星内の司令部へと通信を試み、ややノイズ混じりながらも、応答は返ってきた。


「ルティヤと交戦し、これを退けました。生死の確認は取れていませんが、少なくとも当分の間復帰してくることはないと思われます」

『お見事です』


 どこか淡泊なその反応は、特に不自然なものではなかった。

 だが同時に、ディオレを不信がらせる何かが含まれていた。


 セヴラン、現在司令部にあって、この事態の総指揮と情報の統括を預かっている通信の相手は、ディオレの目から見て、ここの所様子がおかしかった。

 だが今は、それを追求するような余裕はない。視界を確保するために開けた場所へと移動しようとしつつ、問いかける。


「状況は」

『よくありません。ルティヤを退けられたのは大きな戦果ですが、全体の状況としては、着実にこちらの戦力を削られています。あなたが戦死するようであれば、私としてはこの惑星の放棄を決断しなければと思っていました』

「クリスは」

『未だ奮戦されています。ですが 駐屯部隊は元々の消耗もあって既に残る数は少なく、今やお二人が頼りの状況です。アルドリッジ様も、先ほどこの司令部へ迫る獣の迎撃に出られ、戦死なされました』

「……アルドリッジも」


 アルドリッジは、オルート駐屯部隊の指揮官を務める男である。それが戦死し、ディオレ自身も満身創痍となれば……最早これまでであると、言う他なかった。


「残念ながら、私自身もこれ以上の戦闘の継続は極めて困難であると言わざるを得ません。この惑星を、一時的に放棄すべきであると具申致します」

『……しかし、民間人を残し、このような事態が起こった原因の究明もできずに、我々だけで脱出するわけには……』

「いえ、私は、この惑星に残していただきたく思います。おっしゃられる通り、奪還作戦が行われるよりも前に、何故このような事態が起こったのか、その原因を究明するべきであると考えます。そのために必要な電子的手段と戦闘力をあわせ持つのは、現在この惑星に私一人――――……ッ?」

『どうされました』


 その洞窟は、山の中腹に、ぽつりと口を開いていた。


 深い木々の奥に隠されるようにして存在していたにもかかわらず、ディオレがそれを発見できたのは、その洞窟から発せられる、異様な気配のためだった。


 わずかな、だが一度気付けば到底無視することなどできないような、不快な気配。ドアの隙間から漏れ出てくるにおいのようなそれは、恐らくこの混乱の中、『結界』越しでは気付けないほどにわずかな、だが無数の戦場を知るディオレでさえ、眉を寄せるような異質なもの。


 独特なうねりを持つ魔力的な気配とも、強大な生物が放つプレッシャー交じりの気配とも違う。

 まるで腐乱した劇物が気体化したかのような、物理的な圧さえ感じさせる、異様としか言いようのない気配だった。


 内部に、何かがある。それは間違いない。そして今は、わずかな可能性であっても探るべき。

 ディオレは瞬時に判断を下した。


「不審な気配のする洞窟を発見しました。内部を調査しようと思います」

『……今は、いいのでは。それより、すぐに向かっていただきたい地点があるのですが』


 セヴランの返答の中に、ディオレは、自らの内にある不信を増大させる、何かを感じ取った。


 この洞窟から漏れ出る気配が、この惑星で起きている事態と、何らかの関係がある可能性は無視できない。そしてもし仮に、その気配の源とセヴランとに、何らかの関わりがあるのであれば……。


「早急に済ませます」


 有無を言わさぬ語調で反論を封じる。今の状況では、時間こそが何よりも惜しむべきものであることは言われるまでもなかったが、ディオレは自身の直観を信じた。

 通信の向こうから、困惑と狼狽の気配が、ほんのかすかに伝わってきた。


 洞窟内に入っても、その気配が猛烈に濃くなるということはなかった。だが相変わらず、ディオレですら気分が悪くなるような気配が、洞窟内に途切れ途切れに漂っている。

 気配の源がこの先にあるというより、この場にあるのはその残り香のような……。


 いずれにしろ、内部の空気は生物の精神に著しい悪影響を与えたとしても、なんら不思議のないようなものだった。己でさえ、長居するのは好ましくない。そう判断し、泥のように重く、燃えるように痛む体が上げる抗議を無視して、洞窟内を駆け抜ける。


 大して長くもなく、一本道の洞窟の最奥へは、瞬く間にたどり着いた。最も、仮に内部が迷路同然だったとしても、気配の元をたどりさえすれば、迷うことなどなかっただろう。それほどまでにその気配は、微量でありながら強烈すぎた。


「これは……」


 そこにあったものは、黒く変色しきった血でまみれた、布の切れ端だった。元は衣服の一部であったようにも見える。そしてもう一つ、幾何学的な紋様が刻まれた、両端のあいた小さな筒。


「……………………」


 これが、この異様な気配の源なのだろうか。ディオレはそうは思わなかった。


 確かに、いかにも禍々しく、呪術的な代物に見える。だがこれらの品から、この今この時も息苦しさを感じるほどの気配が発せられているようには感じられなかった。


 やはり気配の源は、既にこの洞窟から出た後なのか。だとすれば、これらの見るからに怪しい品々は、それを呼び込むために使われた触媒か。洞窟や筒といった要素は、ここではないどこかへと通じる道の役割を与えられ、しばしば呪術や召喚術に用いられることがあるという。


 これらに誘われるようにして、ここではないどこかから、この怨念じみた気配の源はやってきた。そしてそれは洞窟から抜け出て惑星中に広がり、オルート中を大混乱におとしいれたということなのか。


「セヴラン様、洞窟の奥で、不審な品を発見しました。映像を送ります」

『……………………』


 推測の余地はまだあったが、まずはセヴランへの報告を優先する。

 不自然な沈黙に、ディオレが疑念を深めた、その時。


『……知らない』

「は?」


 何重もの意味で唐突、かつ不自然な言葉が、通信の向こうから聞こえてきた。


「セヴラン様?」

『そんな物のことは、僕は知らないッ! ぼ、僕を疑っているのかッ? 何を根拠にッ、そ、そんな疑惑をッ! あ、ああぁぁッ!』

「セヴラン様、落ち着いて下さい」

『知らない、知らないッ! 僕であるはずが――――』


 セヴランのその突然の発作じみた反応は、墓穴を掘るどころのものではなかった。一体彼の精神内で、どのような感情の化学変化が生じたのか。

 勝手に己を追い込み、勝手に自らが関与していることを自白したも同然の反応である。


 だがディオレは勝ち誇るわけにも、呆れているわけにもいかない。今は大規模かつ、こちらにとって不利な異変の真っ最中であり、狂乱しているのはその総指揮官なのだ。


「セヴラン様、私は貴方を疑ってなどいません。どうか落ち着いて下さい」

『ぼ、僕は……! あ、あなたが……ッ』

「それよりも、次の指示を願います。私は次に、どうすればよろしいですか? やはり総員で、この惑星から撤退致しますか?」

『……………………』


 ディオレは自ら、話を強引に逸らした。

 妙に浅く早い呼吸が通信の向こうから聞こえてこずとも、セヴランの状態がいまだ正常でないのは明らかだった。そのうえで、一言でも彼を疑うような、追及するようなことを言えば、それだけで何らかの暴発を招きかねないような危うさを感じ取ったのである。同時に、指示を求めることで、自分がセヴランを疑っていないということを、言外に訴える。

『……………………いえ、ひとまず、こちらの指示する地点へ向かってください。位置情報を送ります』

「了解致しました」


 こちらの側から通信を切り、駆け出す。とにかく、今は自分と話すというストレスから、セヴランを解放すべきだと判断したのだ。

 だが、素直に彼の指示通りに動くべきかどうか。当然これは、よく考えなければなるまい。


 今や今回の事態に、セヴランが何らかの好ましくない形で関わっていることは、ほぼ確実なのだ。

 彼が以前から、自分のことをうとんでいるらしいことは察していたが……。


 洞窟を抜け出したディオレのふところには、血まみれの切れ端と、紋様が刻まれた筒が収められている。

 そのまま見えない足場を蹴るようにして宙を跳び、やはり空中に足場が存在するかのように静止する。そして高空から辺り一帯を見渡しながら、今の己に残された魔力を振り絞り、内蔵されたセンサー類の出力を上昇させた。


 セヴランに向かうよう指示された地点には、多数の獣の反応が存在した。

 既に限界まで消耗しているディオレをそこへ放り込み、始末しようというのか。それとも単純に、なおも作戦を継続させようとしているのか。


 いずれにせよ、既に自分は戦える状態にないと伝えているのだから、まともな指示とは言えない。先ほどの会話をかんがみれば、既に彼は物事を理性的に考えられていないということも、十分に考えられる。


 最早作戦の続行は、完全に不可能。ディオレは、そう結論せざるを得なかった。


 始めからジリ貧と言う他なかった状況を、ここまでどうにか保たせてきたが、ここにきて総指揮官に不穏な疑いが出た上に、その総指揮官に惑乱の兆しすら見えたのである。

 一般市民に強いることになる危険を考慮したとしても、限界と言うべきだった。だがセヴランが作戦を続行しようとしている以上、それに反する意見を述べることすら危険だと、最早判断するしかない。


 緊急の策を取るべきだった。


 司令部へと早急に帰還し、セヴランの今回の事態への関与の疑惑を理由に、指揮権を奪取。そして残る全ての戦力をまとめ、この惑星から脱出する。


 一歩間違えれば、こちらが造反者と見なされかねない手である。

 むしろ、既にセヴランが、ディオレに造反の疑いありと、司令部の後方要員や戦闘要員に讒謗(ざんぼう)していないか、それすら警戒しなければならない。


 クリスを、今もこの惑星上で戦っている、彼の親友を味方につけるべきであった。

 彼ならば、セヴランよりも自分を信じてくれると、まず断定できる。そのうえで、二人の実績、名声、人望を合わせれば、仮にセヴランに先手を打たれていたとしても、部下たちの支持を受けられる公算が大である。


 幸い、求めていた反応は、比較的近くに存在した。セヴランに指示されたのとは逆の方向から、多数の獣のそれに混じって、クリスの魔力の波長が伝わってくる。

 今まさに、クリスがそこで戦っているのだ。


 思考時間は秒に満たなかった。見えざる足場を蹴り、地上へと降りるやディオレは駆け出した。

 空中を移動するのは目立ち過ぎ、無用な戦闘を招きかねない。


 地上を走る彼の体内では、侵入した敵の魔力が、今もその暴威を何ら減じることなく荒れ狂っている。

 そもそも、主との戦いの後、瀕死同然のディオレがこうして動けているのは、本来敵の魔力の〝駆逐〟に使うべき残存魔力を、〝抑止〟に留めていたためだった。

 つまり、敵の魔力を体内から追い払おうとするのではなく、あくまでそれ以上の破壊を阻止するのに留めることで、必要な魔力を抑え、その分を体の回復に回しているのである。


 その結果、ディオレの体は一秒ごとに自身の魔力で回復しながら、敵の魔力によって痛覚を蹂躙され続ける状態にあった。これは、ディオレが休むことなく身を酷使し続けている限り、永遠に変わることがない。

 自らの目的を果たすのが先か、常軌を逸した激痛が脳か精神を焼き切るのが先かのチキンレースに、彼は挑んでいたのだ。


 急がなければならない。だが体への負担も抑えなければならない。

 その二つの矛盾する問題の間にある、ベストと判断した速度で駆け続けていたディオレの前に、不意に人影が躍り出た。


「――――エリック?」


 それは、ディオレもよく知る部下の一人だった。だが、無事だったか、という言葉は、口から発されることなく、のどで止まった。

 エリックが無事でないことは、一目でわかった。体がではなく、精神が、である。


 無論、体も無傷には程遠い。だがそれすらかすむほどに、その目と表情に表れた異常は明らかだったのだ。目は黒いガラス玉のように虚ろであり、表情は人形のそれだった。


 だからこそ、ディオレに襲い掛かる、そのかつてと変わらない鋭い体捌きは異質だった。

 だがそれでも、ディオレの心臓をえぐるべく伸ばされた右腕は、手首を鷲掴みにされて、完全に静止していた。


「よせ、エリック」


 ディオレは彼の名を呼んだ。己を育ててくれた祖母に楽をさせるため戦うのだと言っていた、まだ二〇代の部下の名を。ガラス玉のような目と正面から視線を合わせ、その精神の奥深くへと語りかけるように。

 エリックの左腕が空を切ろうとし、やはりディオレに触れるよりも早く静止した。


「エリック」


 右足は、蹴りを繰り出すより早く、ディオレによって踏みつけられていた。エリックは両腕と右足を動かそうともがいたが、まるで微動だにしない。


「エリック、やめてくれ、私だ」


 エリックが歯をむき出し、首筋へと噛み付いてこようとするに至って、ディオレは言葉によって正気を取り戻すことを断念した。左手で首筋を叩き、声も音もなく気絶したエリックの体を支える。


「この、現象は……!」


 理性を喪失したかのように襲いかかり、そうでありながら戦闘力や知性にはいささかのかげりも見せない。この日、自らが立て続けに戦った獣たちを、想起せずにはいられなかった。

 この日最大の危機感が、心中を埋め尽くす。それでもディオレは時間を浪費しようとはせず、エリックを左腕に抱えて、再び駆け出した。


 ディオレの魔力には、最早チリほどの余裕も存在しなかった。

 故に、内蔵するレーダーや他の電子機器を稼働させることは不可能だった。

 故に、その場所へたどり着くまで、そこにそのような光景が広がっていることを知ることはなかった。


 ――――獣たちの死体が、大地を埋め尽くしている。その中心で、クリスは、全身を血で染めた彼の親友は、ディオレを待ち受けるかのように立ちはだかっていた。


「クリス」


 女性と見まがう秀麗な顔は、いつも浮かべていた静謐(せいひつ)な笑みを喪失して、仮面めいていた。そのしなやかな体が、ゆっくりと構えを取る。

 エリックをかたわらに降ろしながら、ディオレもまた構えた。そして呼びかける。虚ろな表情をした友へと。


「クリス」


 共に数えきれないほどの死線を越えてきた友の、かつては強さと優しさをたたえていた眼が、そして今はガラス玉のようになった眼が、殺意に光った。


「クリスッ!」


 クリスが動いた。ディオレも、動かざるを得なかった。






 ◆◆◆






 逃走することは、不可能だった。

 ディオレの体は疲労の極みに達しており、現状における脚力で劣るのが明白な以上、背を向けることは、すなわち死を意味した。


 加減することは、不可能だった。

 クリスもまた体力も魔力も消耗しきっていたが、その戦闘技術はいささかもくもることはなかった。その消耗具合も、今この瞬間生きていること自体が何かの間違いのようなディオレと比べれば、まだ軽いものだった。加減など、欠片でもしようものなら、すなわち死を意味した。


 故に、ディオレはクリスの腕が己の腹を貫くことを、防ぐことはできなかった。


 傷口から、クリスに残された最後の魔力が流れ込み、ディオレの内部を破壊する。それを防ごうとするだけの魔力も、最早ディオレには残されていなかった。それでも、全身からかき集めた最後の力がディオレの左腕を動かし、その腕が、クリスの首の骨を粉々に握り潰す。


 だが、それでもなお、クリスの動きは止まらなかった。その腕が、振りかぶられる。互いに逃げようのない状態にあるディオレに、とどめを刺すために。


「クリス」


 両者の視線が、交わり。


 ディオレはクリスの首を鷲掴みにしたまま、地面へと凄まじい勢いで叩きつけ、その頭部を、破壊していた。


 静寂。

 その後に、敵手を殺害したディオレの体もまた、地面へと倒れ伏す音が響く。


 二人から流れ出るおびただしい血が、獣たちの死体から流れ出るそれと合わさり、血の沼を形作っていく。


 鬼哭啾啾。

 最早そこに声を上げて泣くことのできる者も存在せず、無意味な戦いを強いられた死者たちに代わってすすり泣くように、冷たい風が木々の間を吹き抜けていった。


 ディオレは、いまだ死んではいなかった。

 だが死神の迎えが、すぐそこまで迫っているのは明白だった。それでも彼は、なおも立ち上がろうとした。指一本動かせずとも、その眼の輝きだけは、この期に及んで、何ら衰えることを知らなかった。


 だがそれも、限界が訪れる。


 ディオレの眼は、既に目の前の光景を写さなくなっていた。

 代わりに見えるのは、まばゆい、黄金の光。彼の知る中で最も尊き、恒星の輝き。


 その輝きに、手を伸ばそうとし……。




 陽は完全に落ち、闇が辺りを包み込む。


 だがその闇すら押し退けて、どす黒い何かが、死にゆく男の頭上を覆った。それは目に見えて密度を増し、やがてそれが消えた時、ディオレの姿もまた、この世からかき消えていた。


 彼を迎えに来たのは、死神ではなかった。


 時に何よりも慈悲深い(それ)よりも、遥かに醜悪な神の腹へと、心身ともに傷つき、意識を失った男は、真っ逆さまに転がり落ちていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ