表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生存競争の宇宙で  作者: ブンイチ
7/21

第四話   理屈と感情

 

 殴り飛ばされ、空中でどうにか受け身を取って着地しようとしたところで、体の内部から食い荒らされるような痛みによって姿勢が崩れ、ロウは無様に地面に激突した。


「その程度でふらつくなッ! 殴られた次の瞬間には魔力をそこに集中させて、相手の魔力が暴れるのを抑え込め!」

「はいッ!」


 言われた通り魔力を腹へと集めるが、体内に侵入した魔力の暴れぶりは、二日前の試験の比ではなかった。まるで腹の中で小さな獣が暴れ狂っているかのようで、とても立ち上がれない。

 痛みと異物感で吐きそうになりながら、せめて声だけでもと張り上げた。


 この日、前日を座学だけで過ごし体を休めたロウたちを待っていたのは、ハルド・ヘイビスによる、殴打と怒号の洗礼だった。


 二メートル近い巨体に岩のようなボウズ頭、そして威圧的な三白眼と低音の声を持つ教官は、訓練場に傲然と立ち、向かってくる訓練兵たちを一撃で吹き飛ばし続けていた。


「いいかッ! 魔力は万能のエネルギーだ。そしてその力を使うのは、人間の専売特許じゃない。獣との戦いでは、傍目には単なる打撃の応酬に見えても、実際には互いの魔力が、その間を激しく行き交っている。頭で考えて操っていちゃ間に合わない。頭じゃなく、体で覚えろッ!」

「あぎッ」


 間の抜けたうめき声とともにほほを張り飛ばされたスウェンが、ごろごろと転がってきた。やはりロウと同様、すぐに起き上がることができない。


「殴られた際に侵入した俺の魔力に対して、お前たち自身の魔力が足りていないから、痛みで立てないんだ。だが魔力は増やそうと思って増やせるものじゃない。だから扱い方を覚えろ。体でな」

「ぅあッ、ぐっ!」


 アヤミは、教官の拳をどうにかガードした。

 だが衝撃でそのまま吹き飛ばされ、着地こそできたものの、左腕はあらぬ方向へ曲がって、ぶらぶらと揺れていた。折れているのだ。


「殴った衝撃で相手の骨を折り、同時に流し込んだ魔力で神経や内臓など、体の内部を破壊する。殴られた方は魔力を接着剤代わりにして骨をくっつけ、破壊された内臓の機能を魔力に代行させて、戦闘を続ける。それがこの世界の戦い方だ。魔力が万能のエネルギーだという意味が、これだけでもわかるな?」


 訓練兵たちはみな、ハルドに触れることすらできずに吹き飛ばされていく。ロウはようやく侵入したハルドの魔力を駆逐して、嘔吐感を抑えながらも立ち上がったところだった。


 赤い髪の青年が、やや距離を置いてハルドの前に立つ。


「お願いします」

「来い」


 次の瞬間の青年の動きを、ロウは捉えることができなかった。

 気づけば青年は十メートルほどの距離を一瞬で詰め、ハルドの胸へと拳を繰り出し、その右手を、ハエのようにはたきおとされた。


 ロウが視認できたのはそれで全てであったため、何故次の瞬間には青年がくの字に折れ曲がった体勢で吹き飛んでいるのか、すぐには理解できなかった。

 右腕を突き出したハルドの姿を見てようやく、青年の拳が左手ではたきおとされるのと全く同時に、右の拳が、その腹に突き刺さっていたのだと理解する。


「もう一度だッ!」


 ハルドの怒声が飛んだ。

 青年が歯を食いしばる。くの字に折れ曲がっていた体勢を空中で立て直し、着地すると、その足が地面を強く踏みしめ、ひるむことなく再びハルドへと挑みかかった。


 だが今度は、その拳はハルドに触れることすらできなかった。振り下ろされたハルドの腕が、赤毛の頭頂部へとしたたかに打ち付けられ、青年は顔面から地面に激突し、その体はバウンドした。


「うわっ」


 かたわらのスウェンが小さく悲鳴を上げた。教官は、いまだ宙に浮いたままの青年の無防備な後頭部へ向け、更に腕を振り上げていたのだ。ハンマーのように両手を組んで……。


 降り下ろされた両の拳による衝撃が、訓練場の地面を、小さなクレーターのように陥没させた。土ぼこりが舞い、ハルドと青年の姿を一瞬隠す。

 頭をかち割られ、血で染まった青年の姿。思わず幻視したその姿を、ロウが見ることはなかった。


 土ぼこりが晴れた時そこにあったのは、クレーターの中心に埋まりながらも、体を反転させて、両腕でハルドの拳をガードした青年の姿だった。


 青年の上から離れながら、ハルドが静かに口を開く。


「殴られた、というのは、それを感じた瞬間には既に過去のことだ。その対応に手いっぱいでいる間は、到底実戦で使い物にならん。姿勢の回復や魔力の移動を、意識せずともスムーズにできるようにする。そしてそれと並行して、現在の状況の把握と、未来に打つべき手の判断。これら全てを同時に、かつ順序立てて行えるようになれ。過去、現在、未来と順番にな」


 そこでハルドは、砕けた両腕をかばいながら立ち上がる青年を振り返った。


「今のところ、過去、現在までできているのはこいつだけだ。だが実戦に出るまでには、全員が未来の判断までできるようになってもらう」


 そう言って、教官は再びロウたちを見渡した。


「ほんの一瞬の間に、やることが多すぎると思うか? だろうな。だから体で覚えるんだ。覚えるまで、いくらでも繰り返すぞ」


(レベルが違う……、教官どころか、大して年は変わらないはずの彼とでさえ……)


 ハルドが来い、と手招きする先で、ロウは無意識に拳を固く握りしめていた。






 ◆◆◆






 訓練は、陽が落ちるまで続けられた。


「よーし、そこまで!」


 ハルドの口からその言葉が発せられた時、一人の例外もなく肩で息をしていた訓練兵たちの間から、控えめながら抑えきれない喜びの声があがった。ロウも無論例外ではなく、空を見上げて深く息をつく。

 が、それもハルドの次の言葉を聞くまでのことだった。


「ロウ・ジェイムストーン、スウェン・テンディア。両名は残れ。居残りで訓練を続ける」

「ひぇっ」


 そのおびえた声はスウェンのものだったと思いたいが、自分も思わず似たような声を上げていなかった、とは言い切れない。一瞬、二人の脳裏には、昼休憩の際に交わしていた会話がよぎっていたのだ。


「ヘイビス教官ってめっちゃ恐いよなあ」

「威圧感とか、怒鳴られた時の迫力なんかはフーゲル教官の方が上だけど、ヘイビス教官は不愛想だし目つきも恐いしでな」

「二人とも、聞こえちゃうよ」


 あの時、教官との間には十分な距離があると判断したが故の会話だったのだが、改めて先日のジェインの地獄耳を思うと、背筋が冷たくなる。

 それにしても、二人して思わずアヤミへ助けを求めるような視線を向けてしまったのは、我ながら情けない限りだった。


 案の定、頑張って、とまぶしい笑顔を返され、男の意地を総動員して、辛うじて、応っ、と親指を立てて見せた。そして急いで教官の元へと向かう。


「同期の中で、お前たちが一番劣っているという自覚はあるな?」


 そしてハルドがカミソリのように鋭い眼で見下ろしながら言った言葉によって、危うくへこたれそうになるのをこらえることになった。


「……はい」

「はい」


 しかしそれは今日一日の訓練を通してはっきりと自覚していたことだったので、スウェンと共に素直にうなずく。


「ならいい。言った通り、魔力を用いての戦いは、ひたすら反復して体で覚えるのが第一だ。遅れを取り戻そうと思えば、他人より多く繰り返すしかない」

「はいッ! よろしくお願いします!」


 恐らく、ここでいかにも嫌々といった態度を見せていれば、問答無用で殴り飛ばされるか、黙って他所(よそ)の惑星へと転属させられるのだろう。

 だがこの時、ロウがことさらやる気に満ちた態度を示したのは、演技やポーズのためではなかった。ごく自然に、ロウの心には熱意があふれてきたのである。


 体は疲れ切っていたが、まだ動く。これもこの日の訓練を通して感覚的に理解したことだが、どうやら魔力は、感情や精神の高まりに応じて活発化するものらしい。今ロウの体には、再び力がみなぎりつつあった。必要なのは根性、魔力は万能のエネルギーという教官たちの言葉が、段々と実感できるようになってくる。

 そしてそんなロウの様子を見て、スウェンも負けじと声を張り上げた。


「俺も! よろしくお願いします! 日付が変わるまでお願いしたいくらいです!」


 そして、盛大に見栄を張った。


「ほう」

「ちょっ、スウェン!」

「あっ、いやっ! 今のはちょっと調子に乗っちゃったっていうか」

「いい度胸だ。行くぞ」


 早速吹っ飛ばされていくスウェンを見ながら、ロウはこのイルミナスでできた最初の友人の、少々お調子者な部分を、ほんの少しばかり恨むことになった。






 ◆◆◆






 幸い、二人は三時間ほどで解放された。

 だが教官一人に対して、十数人から二人になったのだから、当然その訓練の密度は増す。ハルドが今日はこの辺にしておこう、と言った時、二人はそろって二日前のように倒れ伏し、指一本動かせなかった。


「あ、ありがとうございました……」

「またよろしくお願いします……」


 ハルドの両脇に抱えられて宿舎へと運ばれる最中も、二人はそう口にするのが精いっぱいだった。だがそうしてマッサージルームに運び込んだ二人に、巨体の教官はぼそりとつぶやいた。


「お前たち二人は、あの赤毛を除けば一番若く、経験も皆無に近い。だから、今周りに劣っているのは当然だ。だが教官が言っていたように、この世界で上に行くのに必要なのは、まず何よりも根性だ。……その点で言えば、お前たちは悪くない」


 思わず痛みも忘れて振り返るが、ハルドは既にこちらに背を向けており、すぐに扉の向こうへと消えていってしまった。


「あらあら。ヘイビス様にああ言ってもらえるなら、あなたたち見所あるわよ」


 マッサージ師の女性にもそう言われて、ロウとスウェンは互いに目を見合わせて思わずほほを緩め、続いて女性に腰を強く押されて、そろって悲鳴を上げた。






 ◆◆◆






 その後汗を流した二人は、遅い夕食を取ろうと食堂へと向かった。どちらも片腕と片足が折れて、まだくっついてもいなかったため、互いに支え合った不格好な体勢で建物内を進む。


「食堂まだ開いてるかな」

「閉まってたらどうする?」

「もうこの時間じゃ俺たち外出禁止だし、勝手に抜け出して外のコンビニにでも行ったらマズいよね」

「良くてフーゲル教官かヘイビス教官に殴られるな。ていうか俺たちじゃ、ばれずに抜け出すなんて無理な気がする。こんな身体じゃ尚更」


 幸い、食堂は開いていた。二人は安堵したが、同時にその食堂の前に立つ、意外な相手の姿を見つけることになった。


「アヤミ?」

「二人ともお疲れさま」


 長い黒髪が美しい、一つ年上の女性が歩み寄ってくるのに合わせて、その豊かな胸が柔らかく揺れる。

 今更なことではあるが、アヤミは非常に美人である。整った目鼻立ちに丁寧に切りそろえられた髪が、上品で清楚で柔和な美しさを形作っているが、それ以上に、こうして改めて見ると、その所作の一つ一つに、美しい気品が感じられた。


 自分たちの訓練が終わるのを待っていてくれたのか、と思うと、ロウの内側のどこかの部分が、むずむずとするのを感じたような気がした。


 アヤミがロウたちの前で立ち止まり、上品な笑顔を受かべると、花のような香りが、二人の鼻孔をくすぐる。それを見たスウェンは――――いきなり涙ぐみ始め、ロウとアヤミを驚かせた。


「ど、どうしたのスウェンくんっ?」

「いや、アヤミの顔見たらめっちゃ癒やされて……、さっきまでずっとロウと教官だけの男くさい空間にいたから……」

「ええ……、マッサージ師の女の人に、マッサージしてもらったんでしょ?」

「あの人たち手加減ないし……」

「だからって泣くなよ……、いやまあ、気持ちはわかるけども。ほらアヤミちょっと引いてるぞ」

「あはは、引いてない、引いてない。ほら、それより二人ともお腹すいてるでしょ? 私の部屋でご飯食べていかない?」

「マジで? いいの?」

「もちろん。自分用に作ったあまりになっちゃうけど」


 その時のアヤミの表情は、手間のかかる弟に呆れつつも世話を焼く、落ち着いた姉のもののようだった。

 この場合俺も弟扱いなんだろうな、とロウは思ったが、実力の面でも、包容力や精神的余裕の面でも負けていることは明らかだったので、それも仕方ないかと思うことにした。


「じゃあ二人とも、私が肩貸すね。それとも両脇に抱えた方がいい?」

「いやそれは流石に……」

「男のプライドってものが……」


 見た目は華奢(きゃしゃ)なアヤミに、二人して物のように運ばれるというのは、流石に情けなさすぎる。

 そう思ってアヤミの左右にそれぞれ支えられる形に落ち着いたが、アヤミは自分より一〇センチは大きい二人の重さなど、まるで感じていないかのように進んでいく。アヤミとて、今日一日訓練を受けて疲労しているはずだというのに。


「もしかしなくてもアヤミって、俺たちよりよっぽど力強いよね」

「そういうことは思っても女の子に言わないのっ」

「お前はデリカシーがないよな、スウェン……」


 そのまま三人は、連れ立ってアヤミの部屋へと向かう。その道中でスウェンが折れた片腕をぶらぶらとさせながら、再度口を開いた。


「やっぱりアヤミは、入隊する前から戦闘の訓練とか受けてたりしたの?」

「うん、強化技術の手術を受けて、魔力が使えるようになったのは最近だけど、基礎的な訓練は小さい頃からずっと受けてきたよ」

「あー、やっぱりアヤミって、いい所のお嬢様だったりする?」

「それ関係あるのか? 確かにアヤミは育ち良さそうだけど、昔から鍛えてたってのとは関係なくない?」


 ロウの疑問に答えたのは、当のアヤミだった。

 それにしても、この位置関係はアヤミから漂ってくる良い香りが、どうにも気になって仕方がない。高級そうな石鹸のにおいに、かすかに混じって感じるのは、アヤミ自身のものなのだろうか。


「イルミナスでは、名家の子は生まれつき体が弱いわけでもない限り、そういう訓練を必ず受けさせられるんだよ。親や兄弟だったり、雇った専門家の人にね。大体は何かあった時に自衛できる程度にだけど、私みたいにそのまま入隊する人も多いね」

「小さい頃からって、何歳くらい?」

「確か四歳か五歳か……、物心ついた時にはもう、って感じだったから」

「そんな頃からっ? 訓練って、どんなことを?」

「祖父が軍人で厳格な人だったし、私は兄弟の中でも素質があったから。他の習い事と並行して、一日中祖父に鍛えられたり、多少大きくなってからは、家が私有してる、ちょうどいい強さの獣だけが生息してる森の中に放り込まれたり……」


 思わず目を丸くする。ロウも十代前半の頃には学業のかたわら働いていたが、アヤミ、というよりイルミナスの名家の子女の教育方法は、そういう次元ではないらしい。

 同時に、ロウは思い出していた。イルミナスという国の持つ特異な概念。等量の義務と権利とを、その人物の器量に合わせて課されるという、相応主義の存在を。


「辛くなかった?」

「もちろん辛かったけど、祖父も厳しいだけの人じゃないしね。戦闘のための技術と一緒に、教えられてきたから。イルミナスは、宇宙に生きる人々を、可能な限りの数救うために建国された国なんだ、って。だからその数を一人でも多くするために、名家に生まれ、素質にも恵まれた者は、それが必要とされる時、自らの身を危険にさらすことをいとってはならない、って」


 アヤミの声にも表情にも、建前を口にしているような白々しさは皆無だった。少なくともアヤミ自身は、その言葉を心から信じていることが理解できた。


「可能な限りの数……」


 その時、スウェンが彼らしくない、こもったような声でつぶやいた。


「スウェン?」

「……アヤミ、俺たちイルミナスの国民は、アヤミの言う通り、この国が武力・公正・慈悲の三つを柱として建国された、って教えられているけど、アヤミは、それを信じてる?」

「……うん、信じてるよ」


 そううなずくアヤミの、理性と確信を宿した表情は、同時に盲信とは無縁のものであるように、ロウには感じられた。一方、スウェンは依然、何かを思いつめたような表情を浮かべている。

 そのスウェンに向けられたロウの視界の端を、赤と青の二つの髪が通り過ぎていった。


「スウェンくんは、信じてないの?」

「……軍にいる身で、こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、俺、ずっと疑問に思ってたんだ。慈悲が国の柱って言いながら、戦いたくない人間を強制的に軍に入れて、十年、二十年も戦わせて死なせるなんて、おかしいんじゃないかって。多数のための少数の犠牲とか、優先順位があるとかって言うけど、国としてそんな在り方が正しいのかって」


 スウェンの言葉には、彼が快活な気質の奥に長年にわたって溜め込み続けてきた、疑念と不満とを吐き出しているかのような響きがあった。イルミナスに来て以来、ロウが持ち続けていたその思想と体制に対する疑問を、今まさに、スウェンはアヤミに対してぶつけているのだ。


 アヤミは黙ってそれを受け止め、ロウは凝然として、そんな二人を見つめていた。


「……アヤミみたいに、素質もあれば覚悟もある人のことは凄いと思うけど、そうじゃない、国とは無関係の人たちにまで戦いを強制するなんて……」

「聞き捨てならないな」


 不意に、割って入る声がした。


 振り返った先に、鮮やかな赤い髪に、オレンジの瞳の青年が立っていた。


 顔立ちはロウたちと同年代に見えるが、同時にそうとは思えない風格のようなものを感じる。一八〇センチを超える理想的に引き締まった体からも、今はかすかにけわしい表情を浮かべた端正な顔からも、常に確固たる意志が充溢(じゅういつ)しているかのように見える男だった。


 その背後にはもう一人、こちらは暗い青の髪に水色の瞳の男。身長は前の男と同程度のようだが、やや前傾姿勢を取っている。猫背というより、意図的に男より視線を低くしようとしているかのように見えた。


「……何だよ」


 スウェンの声がやや尖ったのは、両者の顔に、それぞれニュアンスは異なるものの、あまり友好的でない表情が認められたからだった。


「盗み聞きしたわけではないが、宿舎の廊下で泣き言が聞こえたのでな。ましてやそちらの彼は、発音から察するにイルミナスの出身ではないのだろう? この国に来て日の浅い人間の前で、何を言うつもりだ」


 オレンジの瞳が、ロウの方を向いていた。


「俺は……」

「大きなお世話だっ! 俺たちが何を話していようと勝手だろ!」


 ロウが言うべき言葉を探しあぐねる内に、スウェンが青年へと食って掛かった。


「僕も何も秘密警察めいた真似をしたいわけじゃない。だが民間人同士の会話ならいざ知らず、君自身が言った通り、我々は見習い同然とはいえ既に軍人だ。そんな立場も話す場所もわきまえられないような者が、思想的に不安定と見える人間の前で何を言い出すかと思えば、放ってはおけない」

「だからそれが余計な世話だって……ッ」

「お前っ、弱っちいくせにオブリオさんの言うことに文句つけてんじゃ、ぐぇッ」

「君は黙っていろ」


 赤い髪の青年へと詰め寄るスウェンを、更にもう一人の男がさえぎろうとしたが、当の青年にえり首を掴まれて、再びその後ろへと引き戻される。


「別に君の考え自体に興味はない。だがそれを、影響を受けやすい状態にある他人にまで波及させかねないような真似はやめろと言っている」

「上から目線で偉そうに……!」

「おいスウェンッ、その辺に……」


 険悪な空気でにらみ合う両者に、流石に止めなければと肩に手を伸ばそうとするが、


「はい、それまでっ。もう明日に備えて寝る人もいる時間なんだから、こんな所で言い争ってる方が迷惑でしょ? 言いたいことがあるなら部屋でしなさいっ」


 それよりも早く、アヤミが二人の間に割って入っていた。

 スウェンと青年は、共にわずかに不満げな様子を見せつつ互いに一歩下がったが、すかさずアヤミはその手を取り、有無を言わさず引っ張って行き始めた。


「ちょっ、アヤミ……」

「いいから来なさい」


 ぴしゃりと言われ、スウェンは首をすくめた。

 青年の方も逆らう気はないらしく、黙って先導される。やや戸惑いつつも、ロウと青髪の男もその背を追うことになった。






 ◆◆◆






 訓練兵の数は奇数の一九人、ということで、アヤミはロウたちのものと同じ作りの部屋を一人で使っていた。

 住み始めて三日目では、部屋の主の個性も出にくかったが、数少ないしゃれた小物などが、女性らしさを感じさせる。それなりの広さがあり、スウェンのベッドの周りのような雑然さとも無縁のため、四人の男が座るスペースにも、然程困りはしなかった。


「お腹すいてたらカリカリして当たり前なんだから、ご飯持ってくるまで自己紹介でもしてること! 私はアヤミ・シロサキ、一八歳、よろしくね」


 そう言ってアヤミは現在、キッチンに立っている。すぐに温め直された夕食の食欲をそそるにおいが漂ってくる中、四人は言われた通り、ごく簡潔な自己紹介を済ませていた。


「ロウ・ジェイムストーン、一七歳」

「スウェン・テンディア、一七」

「オブリオ・オーガスタ、一七歳だ」

「シャルカ・ヤング、二一歳。年上だぞ、尊重しろよ」


 そのまま、これもアヤミに言われたからというわけではないが、四人はしばしにらみ合っていたが、沈黙は長くは続かなかった。


「はい、いっぱいあるからお代わりしてもいいよ。オブリオくんとシャルカさんはお腹すいてないだろうけど、スープくらい飲みなさい」

「いいかっ! そもそも何度でも言うけど、俺たちはお前らにとやかく言われる覚えは、あっ、美味いこれ」

「ホントだ美味え」


 アヤミが戻ってくるなり、待てをされていた犬よろしく口を開いたスウェンだが、同時に口に運んだスープがのどを通ると、途端に視線をテーブルへと落とした。シャルカも同様に、出されたスープを飲んで目を丸くしている。


 オブリオも黙ってスープに口をつけていた。ロウも食べてみたが、相当レベルが高かった食堂での食事と、全く遜色がない。

 四人は更にしばしの間、黙々と食事に集中した。


「ご馳走さま」

「お粗末さまでした」


 やがて器を置き、それをアヤミが運んでいくと、今度こそスウェンが口を開いた。


「まずはっきりさせろよ。何でお前が俺たちの話に割って入ってくるのか。セリウスじゃあるまいし、言論統制でもしようってのか?」


 アヤミの言った通り腹がふくれたおかげか、スウェンは喧嘩腰こそ消えていなかったものの、その口調は幾分か落ち着いていた。


「だからお前なんかがオブリオさんに」

「黙っていろ」


 シャルカを一にらみで黙らせると、オブリオは再びスウェンへと向き直る。


「言いがかりはやめろ。確かに、僕の方もそう取られて仕方がない物言いだったのは認めよう。だが先ほども言ったように、軍人として不適切な会話を不適切な場所でしていたのは君なんだ。加えて、柔和なアヤミさんは、君の言にも厳しい意見はしないだろうと思ったしな」


 このようなことになった原因の一つのようでありながら、蚊帳の外になりそうなロウだったが、存在感を示す意味でも、ここで気になったことをたずねてみることにした。


「アヤミのことを知ってるのか?」

「顔見知りだ。ごく軽いな。今はそのことはいい。確かにこの国では言論の自由は保障されているが、その上で軍人として、口にして良いことと悪いことはある。だがリグヘット教官の言ではないが、このようなことで上官に告げ口などとつまらないことをしようとも思わない。だからこの国の在り方について議論したいのなら、僕が相手をしようと言っている」

「つくづく余計な世話が好きな奴だな。委員長かよお前。けど、いいさ。俺の疑問にお前が答えてくれるっていうなら、相手してくれよ」

「なら、率直にいこう。君は、身内か友人か、近しい存在を亡くし、それに関連してイルミナスという国に疑念を抱いているのか?」


 誤魔化しやはぐらかしを許さないその鋭い口調と言葉は、スウェンを目に見えて鼻白ませた。だがやがて、相手の眼を真っ直ぐに見据え返しながら答えた。


「そうだよ。俺の爺ちゃんは、国から強制的な入隊を命じられて、二十年以上戦い続け、退役が決まった直後、戦死した。父さんは自分の意思で入隊して、やっぱり死んだ」

「それを、国に使い捨てられたと感じていると?」

「そうじゃない。そうじゃないけど、でも、爺ちゃんは、本当は戦いたくなんてなかったはずなんだ。なのに二十年も命がけで戦わされて、ようやく退役して平和に暮らせるようになるっていう直前で、死んじゃって……、それで可能な限りの多数を救う、って言われても……」

「綺麗事に聞こえると」


 オブリオの声にも表情にも、嘲笑や軽視の色はなかった。少なくとも、スウェンの語る内容を、下らないと切って捨てる気はないらしい。

 だが、だからといって感銘を受けた様子もまるでない。むしろその、何を言うか大方予想はできていた、とでも言うかのような態度が、スウェンの神経を逆撫でしたようだった。


「より多くの人たちが救われても、その裏で少数にされた人たちの気持ちはどうなるんだ」

「全てを救うことが不可能な以上、少数より多数を取ることは、当たり前すぎるほどに当たり前だ。その手の言葉は、より優れた代案とセットにして初めて意味を持つ。それとも気持ちと言ったが、それは哀悼と謝罪の意を示せということか? もしくはもっと俗に、それを形で表せと? それなら戦死者の遺族には、十分な恩給があったはずだが、それに不備でもあったのか?」


 オブリオの言葉は整然として、かつスウェンの言葉を先回りするような感があった。事実スウェンは、言うべき言葉を探しあぐねるように沈黙してしまう。


「少数の側の事情を考えていないと君は言うが、ならば君は、そうしなければ救われない多数の側の事情を本当に考えているのか? それしか方法がない状況になれば、より多数の命のために死んでくれと、僕は少数に対して言おう。君は、すぐ目の前の少数が見捨てられないから、貴方たちは自分の見えない所で死んでくれと、多数に言うのか? 自分の近くで死なれるのが嫌、というのが理由ならば、それは救いたがっているのは他者ではなく自分の良心ではないのか」

「…………」

「イルミナスが建国されて千年、既にこの手の議論は散々し尽くされている。結局のところ、必要とされるのは、本当にその手がより長期的、大局的に見た場合においても、犠牲を減らすことになるのかということまで、細部にわたって熟慮すること。そしてそもそも少数とは言え犠牲を出さなければならなくなるような事態を、少しでも減らすということだ。そしてそのためにこそ、高い素質を持つ者への入隊の強制も、いざその時には少数より多数を救うことも、この世界には必要なことだと、結論は出ている」


 この国には、ではなく、この世界には、とオブリオは言った。それについて詳しく聞きたいとロウは感じたが、それよりも早くスウェンが声を荒げた。


「お坊ちゃんが澄ました顔で賢しげに……ッ、お前がそんな正論を押し付けられるのも、自分が少数の側になったことがないからじゃないのかよッ!」

「ふんっ」


 今度こそオブリオは、冷たく鼻で笑った。

 それは明確な変化だった。これまでは冷淡ではあっても、議論の相手であるスウェンを侮るような感情を見せることはなかったが、スウェンの糾弾を引き金として、今はそれがはっきりと顔に浮かび上がっている。強いて言うならば、それは呆れに近かった。


「少数より多数と言う者は常に多数の側にいる、か? 君たちは反論が困難になると、決まって伝家の宝刀のようにその言葉を持ちだすな。過去に滅びた国家群ならいざ知らず、イルミナスではその類の言葉が何の意味も持たないと、歴史を学んでわからないのか。歴代の皇帝も、軍の高官も、それが必要とあらば、常に前線に立ってきた。第四代皇帝であるオレオール炳下のしたことを、知らないとでも言うのか」

「それは、でも……っ」


 一度はオブリオへの反発心から気を取り直したスウェンだが、再び口をつぐんでしまう。皇帝、という言葉にひるんだようでもあった。


「はっきりと言え。要は君は、イルミナスの掲げる『武力・公正・慈悲』、そして『器量、義務、権利の一体』が、上に立つ者の方便ではないかと言いたいのだろう。地位と権利に伴う義務を全うすると言いながら、その実権力や金でそれを回避し、下の者たちにばかりそれを押し付けていると。君が感じているのは、この国の掲げる思想が正しいかどうかではない。それが上に立つ者たちにも、本当に正しく適用されているのかどうか、ということだ。だがそこまで言ってしまえば、より直接的に、教官たちまで含めた今現在のイルミナスの上層部を批判してしまうようだから、感情論的な言葉で誤魔化していた。違うか」


 糾弾する側が、いつの間にか入れ替わっているかのようだった。スウェンは何かを言おうと口を開けたが、自分の中にある何かにさえぎられるように言葉を出せず、悔しげに唇を噛んだ。


「そこまで自覚していなかった、という顔だな。だがこの問題の要点はそういうことだ。そもそも相応主義など、何も特別なことを言っているわけではない。地位と権利にはそれに相応しい器量と義務が伴う、という点は、言うまでもなく当然だ。そして素質や能力のある者にも相応の地位と義務を、という点も、常に獣と争い合うこの世界では、誰もがその器量に応じた範囲で義務を果たさなければならない、というだけの話だ。国家と文明の恩恵を受けて生きていながら、国家と関係のないものなど、この国にはいない」


 スウェンは沈黙している。一方オブリオの顔からは既に呆れの色は消え、冷徹な表情を取り戻していた。


「イルミナスという国家が掲げるのは、積み重ねられた経験則から導きだされた、この世界で生きていくのに必要な、当たり前のことだけだ。本来ならわざわざ御大層な理念として打ち出さなくとも、それがそのまま実現されるのならば、国家として何も問題がない。だが人間とは堕落するものだから、君が疑問に感じているように、上に立った者がその権利を利用して義務から逃れようとすることが起こり得る。だから、少し考えてみれば当たり前のことをわざわざ国家理念として掲げ、それに付随する様々な制度や思想で、それが形骸化することを防いでいる」


 スウェンの視線は下を向いていた。悔しげに口を結びながら、何かを考えている。オブリオはその表情を見て、やや語気をゆるめつつ、話を締めくくった。


「国家として当たり前のことが、当たり前になされる国家。イルミナスとは、かくあるようにして建国された国なのだ。そして歴史が証明する通り、建国の理念を実現、維持できず、腐敗するような国家は、すぐに滅びる。イルミナスがこの世界で千年存続している事実自体が、その理念がただの建前ではないことの証だ」


 そして考え込む表情のまま出るスウェンから、視線を横のロウへとずらした。


「君は、何か言いたいことがあるか」


 向けられた視線を、ロウは正面から見返す。

 強い光を放つ眼だった。これまでの人生で彼が積み上げてきた努力、経験、見識、信条、それらに支えられた、精神的な強さが見て取れた。


「なら、聞かせてもらう。察しの通り、セリウスから亡命してきたばかりな上に不勉強で恥ずかしいんだが、さっき言っていた、国家理念を形骸化させないための様々な制度や思想、とは例えばどういうものがあるんだ?」

「それはかなり多岐にわたる上、千年の間に必要に応じて変化してきたものも多い。原典にあたる、初代皇帝炳下の著書を読むのが一番だろう。だが一つ挙げるとするなら、僕はさっきから、必要という言葉を何度か使ってきただろう」


 言われてみれば、会話の中で何度か、印象的に使われていたような気もする。


「国家として、あるいは公人としての行動はみな、必要にのっとって行われるべきものである。ただし」


 オブリオは、次の言葉を強調するように間を置いた。


「その際に、それが本当に必要なことなのかどうかということこそ、深く考察されなければならない。そしてその上で、それが必要であると確信をもって判断されたなら、それを実行することを、決して躊躇してはならない。――――これから軍人として生きていくのなら、上層部の意識の中には常にこの考えが存在していると、あるいは存在しているべきなのだと、覚えておいた方がいい」

「……成る程」


 気づけばスウェンと二人で、似たようなポーズで考え込んでいた。


「じゃあ、これは話の間、ずっと気になってたことなんだが」


 それは正確には、ロウがイルミナスという国に来てから、常に抱いていた疑問だった。


「なんで、イルミナスは、帝国なんだ?」

「…………」


 初めて、オブリオは沈黙した。


「イルミナスが、器量、義務、権利を一体であるべきとする相応主義を、上から下にまで徹底させていることはわかる。けどそれは、最も重要な最高権力者の地位を、一つの家系が世襲する君主制とは矛盾する。そうじゃないか?」


 オブリオの沈黙は、痛い所を突かれた、という風ではなかった。予想はできていた問いだったらしく、返ってきた答えによどみはない。


「余談を先に言うようだが、まず王国ではなく帝国であることに関しては、建国当時の周辺諸国との間にあった事情に関連したもので、現代では深い意味を持たない。そして君主制である、という点に関しては、申し訳ないが、僕も明確な答えを返すことができない」


 常に自信に裏打ちされた態度だったオブリオだが、このことに関しては彼自身、十分に吟味された考えを持っていないらしかった。


「皇室に関しては、相応主義とは別の問題が絡むからだ。イルミナス連邦帝国に、貴族はいない。皇帝こそが、世襲される唯一の公的な地位だ。イルミナスを建国した煌祖は、自らの血筋に何らかの目的の元、特別な術式を施したと伝えられる。それが、その子孫によって最高権力者の座が引き継がれる理由であり、イルミナス繁栄の要因の一つであると。だがその何らかの目的、というのを含めた詳細は、この国の最高の国家機密であり、詳しいことは何もわからない」

「それは」

「いかにも怪しい、と思うのはわかる。結局は、最高権力の一家系による独占のための方便ではないか、と思うだろう。僕もこの件に関しては、完全に納得しているわけではない。だが、イルミナス皇族が、分野を問わず、質、量ともに、宇宙で最も人材を輩出してきた家系であるということは、たとえこの国の体制に批判的な者たちであっても、否定できない事実だ」


 納得していないなりに、誠実に向き合いたい。この件に関する、オブリオの複雑な内心が、その声と表情には表れていた。


「それは、皇族には生まれつき優れた者が生まれやすく、また良家に生まれた者ほど厳しく育てられる、というこの国における原則を、皇族に生まれた者こそが、最も厳格に適用されているからでもある。事実として、この国の歴史において、明らかな暗君や暴君と呼ばれる類が、半年以上玉座についていたことはない」


 ロウは小さくうなずいた。

 その答えに、ロウもまた完全に納得することはできなかったが、この件に関しては、これ以上オブリオにたずねてもどうにかなる問題ではないのだろう。


「それと、これは皇帝という存在とも関係のあることだし、早いうちに知っておいた方がいいことだから言っておこう」


 一方、オブリオの次の言葉については、意外なこととは思わなかった。


「この国は、公正ではあっても、平等であるとは限らない」

「相応主義は、全ての国民を公正に扱うという考えであり、同時に全ての国民を不平等に扱う考え、だからか」


 公正は公平を内包した概念だが、公平と平等は、時に矛盾することの方が多い概念である。その人物の器量に相応しい義務と権利が与えられるのが公平であり、器量にかかわらず、全ての人物に同じだけの義務と権利が与えられるのが平等だからである。


「もちろん基本的かつ最低限の平等さは保障されているが、時に他の概念との両立が不可能となり、無視されるものでもある。先ほど多数か少数か、という話をしたが、時にその前に、長期的に見て、という言葉がつけられることがある」

「……全くの一般人が複数と、極めて高い器量の持ち主個人とでは」

「後者が優先されることも、ある」


 オブリオは言い切った。この国では一人の人間の価値は、平等とは限らないと。


「これは特に、僕たち軍人に適用されることが多い考えだ。命のやりとりになりやすいということ以上に、一般人とは比較にならないほど、個人の能力の差が大きくなるからな。この場にいる全員と、教官たちの誰か一人のどちらかだけを、という事態になれば、まず間違いなく、後者が選ばれるだろう」


 オブリオの言葉には、自分たちがいるのはそういう組織なのだと、突きつけるような響きがあった。


「……なら、最後に聞きたい」


 ロウは改めてオブリオを見据えた。蒼穹のような青い眼と、燃えるようなオレンジの眼が、互いを映し合う。


「イルミナスの国家理念が正しく実現されているのかということを、どう判断したらいい? 公正さにしても、公平は平等と違って主観的な概念のはずだ。国家として当たり前のことが当たり前になされていると、誰が証明できる?」

「この世に絶対者がいない以上、それを完璧に証明してくれる存在も在り得ない。それぞれが考えて、判断するべき問題だ。だが僕は、当代のこの国の為政者たちが、完璧ではないにしろ、一つの理想ではあると、信じている。それを押し付けることはできないが……、差し当たっては、テレビでもインターネットでも自分の耳目ででも、集められるだけ情報を集めて、吟味してみることだろう。その上で、議論なり批判なりをする自由は許されている。その時望むなら、また僕が相手をしてもいい」


 その言葉に、ロウはかつてサーベラスに言われた言葉を思い出していた。

 その時、それまで口を引き結んでいたスウェンが、拗ねたような表情で口を出した。


「お前さっきから、自分で調べろって言ってばっかだな」

「わかってるじゃないか。そうするべき問題なんだよ」


 そう言って、オブリオは立ち上がった。


「あ、おいっ」

「君は物の道理がわからないわけじゃない。だからこれ以上必要なのは、言葉や知識より、経験と実感だ。アヤミさん、長々と邪魔をした」

「オブリオさん、待ってくださいよ」


 立ち上がろうとするシャルカには構わずに、赤い髪の青年は振り返ることもなく去っていってしまった。慌ててその後を追う青髪の後ろ姿に、スウェンが心底呆れたようにつぶやく。


「……ていうかあいつは何しに来たんだ」

「スウェンくん」


 そのスウェンに、部屋の主でありながら、それまで常にやや離れた場所でロウたちが話すのを聞いていたアヤミが、静かに声をかけた。


「オブリオくんが言ってたこと、納得できない?」

「ん……」


 口を尖らせるスウェンの様子は、オブリオに対して深刻な悪感情を抱いているというよりも、ロウにはやはり、単に拗ねているだけのように見える。


「あいつの言ってることが、全部じゃないにしろ大体は正しいって、頭ではわかってるんだよ。でもあいつの澄まし顔がどうもむかついて、つい普段から思ってるわけでもないようなことまで言っちゃって……」

「そもそもスウェンは、イルミナスに疑問を持っているのなら、どうして軍に入ろうと思ったんだ?」


 ロウが気になっていたことをたずねると、スウェンはバツが悪そうに頭をかいた。


「さっき、爺ちゃんは戦いたくなんてなかった、なんて言ったけど、本当にそうだったのか、実はわからないんだ。爺ちゃんが死んだのは俺が七歳の時だったし、爺ちゃんは少なくとも表面上は、俺に対してそんな素振りは見せなかった。婆ちゃんは爺ちゃんが無理矢理戦わされた挙句死んだって言ってふさぎ込んじゃったけど、父さんはそれを否定してた。その父さんも自分から軍に入って、二年前に死んで……、俺、それでよくわかんなくなって、二人がどういう場所で戦ってたのか、どうして戦ってたのか知りたいと思って……、ごめん、説明下手で」

「それで国に対しても内心で疑問を持つようになって、オブリオくん相手につい、それを大袈裟(おおげさ)にして言っちゃったの?」

「……………………うん」


 しかられている子供のような表情で、スウェンはうなずいた。


「ごめん二人とも、俺がムキになったせいで、こんなことに付き合わせて」

「いいって。俺も正直疑問に思ってたことだから」

「ロウくんもスウェンくんも、その疑問の答えは、オブリオくんも言ってた通り自分自身で見つけるしかないね。それで、そのオブリオくんのことだけど」


 初めて会った時より、どうにも大人びた存在に見えるアヤミに、スウェンは先ほどロウがオブリオに対してしたのと同じ質問を投げかけた。


「あいつは詳しいこと言わなかったけど、アヤミはあいつのこと知ってるの?」

「知ってる、ていうほどじゃないんだけど……、親に連れられて行ったパーティーで、何回か話したことがあるくらい? 私と同年代の凄い人として、噂はよく聞いてたけど」


 アヤミはそう言いながらわずかに首をかしげていたが、やがて二人に対して表情を改めた。


「イルミナスでは、私やオブリオくんの実家みたいな家、いわゆる名家って呼ばれるような家は、国から爵位や称号を与えられてそう呼ばれるんじゃないんだ。分野を問わず、継続的に優れた人材を輩出し続けることで、周囲から自然とそう呼ばれるようになるもので、そしてそのことを何よりの誇りにしてるの。自分たちが人の上に立つのは、決して根拠のないことじゃない、って」


 そう語るアヤミの顔にも、自分がその一員であるという自覚と責任感が、はっきりと浮かび上がっている。


「そしてそのために、そういう家に生まれた子は、こう教えられて育つんだ。この国では、人はみな自らの器量に応じた義務と権利を持っていなければならない。にもかかわらず、お前はまだ自らの器量を示してもいない内から、他者より豪勢な暮らしをしているのだから、その分一般的な家庭の同い年の子供より、遥かに多くの努力をしなければならない、って」

「き、厳しいなあ」

「だから小さいうちは実家じゃなく、縁のある一般的な家庭で、特別扱いされずに育てられる子もいるね。私の場合は、一年の半分くらいを、家が私有してる山や森に閉じこもって、獣を狩って生活してたんだけど……」


 先ほどアヤミの口から出た、親に連れられて行ったパーティー、という言葉から連想していた暮らしとの落差に、ロウもスウェンも唖然としてしまう。


「そういう教えや暮らしをどう受け止めて生きるかは人それぞれだし、途中で挫折しちゃう子もいるんだけど。オブリオくんはそういう、〝努力もしない内から恵まれた環境にいる者の義務〟っていうものに対して、すっごく真面目だって有名な子だったから。自分にも他人にも厳しい分、偉そうに見える所があるのは許してあげてくれない?」


 アヤミの話を聞いてロウたちがわずかにでも自分を恥じる気持ちになったのは、オブリオのような存在を見て、才能と家柄ばかりを笠に着た御曹司、という偏見を、多少なりとも持っていたことに対してだった。


「でも、それと同時に他者への慈悲も忘れるな、っていうのも、イルミナスの重要な理念の一つではあるんだよね」


 そんな二人の様子を見て、アヤミはしばし考え込むと、やがて小さくうなずいた。


「うん、やっぱり今回のことに関しては、オブリオくんも非がないとは言えないよね」






 ◆◆◆






 まとわりついてくるシャルカを追い払った後、完全に陽の暮れた訓練場へと出ようとしていたオブリオは、背後から呼び止められて振り返った。


「アヤミさん」

「オブリオくん、久し振りだね」

「ああ。こうして落ち着いて話をすること自体、今までもほとんどなかったが」

「これから自主トレーニング? さっきすれ違った時も、トレーニングしに行くところだったんだ」

「ああ。……だが、何か僕に言いたいことがあるらしいな」


 社交パーティーで幾度か顔を合わせた、一つ年上の女性の視線を、オブリオはひるむことなく受け止めている。だがその眼からは、先ほどまでの挑戦的なまでの意志の強さは減じられていた。


「私の部屋でオブリオくんが言ったことは、どれも間違ってはいないと思うよ。でもこの場合、正しければいい、って問題じゃないよね」

「…………」


 オブリオはこの日、二度目の沈黙をした。


「スウェンくんはご家族のことで気持ちの整理ができていなくて、あなたはそれに対して正論を言った。スウェンくんは感情を問題にしていて、あなたは理屈を問題にしていた。それで、上手く噛み合うはずがないよね。頭でわかっていても納得できないっていう相手とは、正論で黙らせようとするんじゃなくて、互いの理屈と感情をすり合わせて、調整することこそが必要だ、って、私たちはこの国流の帝王学と一緒に教わったでしょ?」

「……返す言葉もない」


 オブリオは、自負と才能にあふれた青年は、静かに自身の非を認めた。


「君は、僕などよりよほど精神的に成熟しているな。初めから、僕が横から出しゃばったりせずに、君に任せておけばいい問題だった」


 ひたいを抑えて首を横に振る姿は、己を心底恥じ、自省する風だった。


「ロウくんとは、お互いを尊重し合った話し合いができたんだから、スウェンくんとも、もうちょっとお互いに落ち着いて話せてればよかったね」

「全くだ。ようやく望んでいたスタート地点に立ったばかりで、僕も浮き足立っていたらしい。そこに個人的に聞き捨てならない会話が聞こえて、つい熱くなってしまった。君にも迷惑をかけた」


 そう言うオブリオが初めて、名家に生まれた麒麟児などではなく、姉に(さと)される少年のように見えた。


「アヤミさん、彼にすまなかったと、伝えておいてもらえないか」

「だめ。自分で言いなさい」

「…………努力しよう」


 二人の精神的な力関係が確定したとすれば、それはこの時だっただろう。


「おやすみなさい」

「ああ。また明日」


 そう言ってオブリオは訓練場へと姿を消し、アヤミはそれを見届けると、背後の曲がり角の向こうへと声をかけた。


「気がきつい所もあるけど、基本的には素直な子だと思うの」


 ロウとスウェンは、二人そろって座り込みながら、しばらく沈黙していたが、やがてロウが口を開いた。


「俺、ようやくわかった気がするんだ。素人同然のくせに、どうしてここでの訓練から意地でもリタイアしたくないと思ってたのか。これまでずっと抑えつけられてきたから気付かなかったけど、俺、自分で思ってるよりずっと負けず嫌いだったみたいだ。今は、同い年で自分よりずっと強くて努力もしてるあいつに、負けたくないって思ってる」


 それが、教官たちを相手に必死に喰らいついていこうとするオブリオを見て以来、ロウの中でくすぶり続けていた、これまでの人生でほとんど覚えのなかった思いの正体だった。


「だから、まだ完全に納得できてはいないけど、俺は、当分はここで頑張ってみるよ」


 実戦の中で、答えを見つけるまで。


「……俺だって、あんなむかつくお坊ちゃんになんて負けないっての!」


 スウェンが勢いよく立ち上がる。ロウもそれに続いた。そして、あることに気がついた。


「……そのために、今日はもう寝よう」


 自分たちがへとへとで、足も折れていたことを、二人はそろって床に倒れこんでから思い出した。






 ◆◆◆






「教官! お願いがあります!」

「ん?」


 翌日、午前の訓練が終わり、昼休憩が言い渡された後、ロウ、スウェン、アヤミの三人は、自身も食事へ行こうとする金髪の教官を呼び止めた。

 あくびをしながら振り返ったジェインは、だがロウたちの表情を見ると、薄く笑いながら、体ごと向き直った。


「言ってみ」

「はい! これから午後の訓練が終わった後、自分たち三人に、居残りで訓練をつけていただけないでしょうか! もちろん、時間のある時だけで構いません!」

「ふーん」


 ジェインはしばらく三人をながめ、やがてうなずいた。


「オーケー。毎日ってわけにはいかねえが、教官やハルドにも話しといてやるよ」

「ありがとうございます!」


 その光景を、オブリオはやや離れた場所からながめていた。だがアヤミが小さく手招きしていることに気づくと、一瞬ためらった後、迷いのない足取りで四人へと近づいていった。


「自分もお願いできないでしょうか」

「お? オーケー、オーケー。他に希望する奴はいないか? ああ、もちろん、優しくするつもりは一切ねえぞ? きっと、フーゲル教官は特にな」

「シャルカ」


 視線も寄越さずオブリオに呼び止められ、そそくさと離れようとしていたシャルカは、その場で固まった。


「は、はいっ?」

「これ以上僕にくっついてくる気なら、君も参加しろ」


 青ざめるシャルカには目もくれず、オブリオはスウェンへと視線を向けた。


「文句があるか?」

「……別に」


 そのまま二人はどちらかともなく目を逸らし、


「悪かった」

「すまなかった」


 と、ほぼ同時に口にした。


「ちゃんと相手の目を見て言いなさい、って言うべきかな?」

「まあ、いいんじゃない?」


 それを見てアヤミとロウはささやき合い、ジェインは面白そうに破顔した。


「なんだよ青春してんな、お前ら。おっし、付いて来い。今日は俺がおごってやる」

「マジッすかっ?」

「おう、兄貴って呼んでもいいぞ」

「いや、それは……、教官いくつでしたっけ?」

「お前は口は災いの元って知らないらしいなあ」


 首を絞められ、カエルのような声をあげながら引きずられていくスウェンの後を、ロウたちは笑いながら追いかけて行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ