第一話 監視社会の片隅で
早朝の都市を、人々が行き交う。大きな通りを埋め尽くす、無数の人々。その人の波をかきわけて歩く、一人の少年の姿があった。
人と人の間をすり抜けるように追い越し、人の流れに逆らって角を曲がろうとする時は、自分の体を押し込むようにして波を突っ切る。自然と、顔も名も知らない人々と、体を押し付け合い、押し退け合う。
押し退ける側はすみません、の一言もなく、押し退けられる側も、多少強く押された程度では視線すら寄越さずに歩き続ける。
それなりに長じてからは、家族とすらこれほど距離をつめたことはなかったな、と、ふと思った。
この都市は、誰もがどこか焦ったような空気をまとい、それでいて気だるく、周りに無関心なようでいて、常に周囲にピリピリとした注意を振りまいている。もちろん、少年も例外ではなかった。
少年、ロウ・ジェイムストーンは、人類社会を構成する三国家の一つ、セリウス共和国の人口の大部分を占める、いわゆる被支配階級、その中においても下層に位置する家庭に生まれた。
その一七年に及ぶ人生はおおむね、その国と社会的地位における、典型的なものだったと言える。父、母、兄、妹の四人家族に生まれ、幼少の頃、病弱な母が過労で死に、父は体の丈夫さ以外に際立ったところのない人物だった。
そしてロウと三つ下の妹ガラヴァリスは、そんな正反対な両親の健康状態を、更に広げて受け継いでいた。常に病床にあるガラヴァリスの分まで、ロウは学業のかたわら、働かなくてはならなかったのだ。
幸い、ロウは上背こそ然程ではないものの、体格と健康には恵まれており、職に困ることはなかった。平凡より少しはましという成績で義務教育を終え、そのまま学生の頃から働いていた職場に就職した。
その作業環境は過酷ではあるが、必ずしも劣悪ではない。だが、給与は安い。労働者は安くこき使うが、倒れられたり事故を起こされるのは困るから、作業環境の整備はするというわけである。
当然、薄給な分は労働時間で取り返さなくてはならず、朝から晩まで働き、休みは月に一日か二日、あるかどうかという有り様だった。
そんなロウたちの上に立つ支配者階級とはつまり、政府、軍、大企業の要人といった人々である。その格差は明確かつ極端なもので、中間層というべきものが少ない、あるいはほとんど存在しないのが、セリウスという国家の特徴と言えた。
両者の格差は巨大なものだが、その地位は血統によって固定されたものではなく、一代での転落もあれば、逆に成り上がることも可能とされている。しかしそのためには、まず当然のこととして、高い能力が求められる。
そしてセリウスにおいてそれ以上に必要とされるのが、そうした国家や体制に対し、疑問や反感を抱かない、あるいは、抱いていないように見せることだった。少なくとも、反国家的な言動を見せた者に訪れる未来、という一点に関しては、地位や身分にかかわらず、セリウスの人間はみな平等だった。
実はロウは、就職の際、軍に入隊することを考えなかったわけではない。セリウスでは、国民はみな定期的な検査によって、多岐にわたる項目から軍人としての素質を測られる。そしてそれがある一定の水準を超えると判断された者は、本人の意思にかかわらず、軍人となることを強制された。
それも期限を定められた、いわゆる徴兵制とも違う。職業軍人として、戦闘及びその支援活動の専門家としての道を、長期にわたって歩むことを要求されるのである。
退役が認められるのは、国家に対して十分な貢献を果たしたと認められるか、軍人としての活動がそれ以上不可能となるほどの傷を、心身に負った場合などしかない。
幸いというべきか、ロウにはそんな、飛び抜けた才能は存在しなかった。だが体の強靭さに加え、勤勉な性格でもあったロウは、本来なら軍人としての適性は、決して低いものではなかっただろう。
だがそれが、セリウスの国軍でとなれば話は別だった。
組織内での立ち回りの上手さや、国家や権力者への服従の姿勢を常に示し続ける自分という姿に、ロウはどうしても自信を持つことができなかった。周囲の評価もまた同様であり、結果として、ロウは軍人の道を諦め、巨大な都市の隅で、作業現場と自宅とを往復する生活を選んだのである。
その日は珍しく仕事が早く終わったので、ロウは入院している妹に会いに行こうと、足早に帰路につこうとした。だが曲がり角の向こうから、何人かの同僚の男たちの話し声がふと聞こえてきて、足を止める。
「ローガンの奴、今日も来なかったな。なんかトラブルに巻き込まれたみたいなこと言ってやがったが」
ローガンというのも、同じ職場の同僚である。そう言われれば、ロウもここ数日見ていないことに気が付く。
「…………」
「ん? おい、どうした?」
「……あのさ、俺、あいつが最後に顔見せた日に話したんだけど、あいつ、変なこと言ってた」
「……変?」
「何かを、見ちまったとか、聞いちまったとか。政府がどうとか、ガルグイユが……」
「おい! やめろッ!」
角の向こうで、空気が張り詰めるのを感じた。ロウは咄嗟に、近くの物陰へと隠れる。それはそれまでの人生で必要に迫られて身に着けた、反射にも近い反応だった。角の向こうで、今のロウと同じ顔で、辺りの人影を警戒する男の姿が見えるようだ。
「……いいな、二度と誰にも、その話はするな。いや、ローガンのこと自体、これからは口に出すんじゃねえ。お前たちもいいな?」
張り詰めた空気を保ったまま、男たちが遠ざかっていくのを確認して、大きく息をつく。そして周囲に人影がないのを確認してから、今度こそ妹が入院する病院へと向かう。自然と、その足は先ほどよりも早くなった。
◆◆◆
『国家情報省』。
この宇宙は、『人』と『獣』という二つの種族が、己の生き残りのために常に争い続けている、生存競争の宇宙である。
だが、セリウスの国民たちが何よりも恐れるのは、その競争相手であるはずの、強大な獣たちではない。〝国家の安全と秩序を守る〟ことを目的としたこの秘密警察こそが、彼らにとって、何よりの恐怖の対象だった。
この国では、どこに誰の目があり、誰の耳があるかわからない。人間、機械、魔道、あらゆる方法によってあらゆる角度から、社会と、そこにひそむ〝国家の秩序を乱す者〟を監視し、弾圧し、矯正し、排除する。
政府内の一省に過ぎない存在でありながら、この国の支配層の一角である軍や巨大企業群にも匹敵する力を持つとされる、セリウスという国家を象徴する組織である。
ある日突然、隣人が、同僚が、あるいは親友や恋人が、彼らに連れていかれても、決してそれに疑問をていしたり、詮索してはならない。でなければ間違いなく、その後を追うことになる。
連れていかれた人々のその後の運命は、苛烈な尋問と拷問によって廃人にされる、実験動物として死ぬまで使い潰される、強制労働施設へと送られるなど、様々にささやかれていた。
それを荒唐無稽として笑い飛ばせれば、どれだけいいか。事実として、ガルグイユに連れていかれ、戻ってきた者は皆無とされていた。
他人と深い関わりを持たず、常に周囲の目と耳を警戒し、目をつけられかねないものから距離を置き、国家への忠誠と献身をアピールする。それが、ロウのような被支配階級の、否、セリウスの常識。
階級社会であり、管理社会であり、監視社会。
三国の中でも群を抜くと称される、高い完成度を持った統制システムと監視機構。そしてそれらによって実現される、弱者から徹底的に搾取する支配体制こそが、セリウスという国家を支えるものだった。
◆◆◆
「お父さんは、元気ですか?」
「ああ、今のいそがしい時期が終われば、また見舞いに来るって言ってたよ」
職場から然程離れていない病院で、ロウは数週間ぶりに、妹のガラヴァリスと話をしていた。
顔立ちこそ似たものの、それ以外の部分では、真逆な印象を受ける所の多い兄妹だった。
ガラヴァリス・ジェイムストーンは、今年で一四歳だが、その体は一五〇センチにも届かず、肉付きも薄い。生来の病弱さに加え、十分な栄養を取れていない生活からのものだったが、そうした外見的な部分だけではない、一種の危うさを、その身はまとっていた。
首筋を隠す程度の短い純白の髪は、母親譲りの美しいものだったが、肌の色は美白と言うよりも、その健康状態を表すような、痛々しさを感じさせるほどの白さ。控えめな表情と伏し目がちな仕草が、そんな印象を更に強いものにしていた。
吹けば飛ぶ花びらのような、手に乗せればとけてしまう淡雪のような少女。雪の降る中たたずむ姿を見れば、然程迷信深い者でなくとも、雪にまつわる神秘的な存在ではないかと思わせるような、そんな儚げな透明感の持ち主だった。
その三つ上の兄であるロウは、身長こそ一八〇センチに届かず、厚みも然程あるわけではないが、労働の毎日で日焼けした引き締まった体の持ち主で、短い黒髪とともに活動的な印象を与えている。
それぞれの持って生まれた健康状態が、そのまま外見に表れているかのような兄妹だった。
「兄さん」
二人が父について話していると、不意に、ガラヴァリスが声を低くした。
「うん? どうした?」
「お仕事で、何か、ありましたか?」
ガラヴァリスは、物心ついた頃から病院を出たことがなく、極めて狭い世界で生きてきた。にもかかわらず、時に非凡な鋭さを見せることがある。
職場で聞いた、消えた同僚の話。背後に見える、ガルグイユの影。
もちろんロウには関係のない、間違っても関係など疑われてはならないことだが、ロウはその時、衝動的に強い不安に駆られた。そしてそれをまぎらわせるために、ガラヴァリスの待つ病院へと駆け込み、儚くも可憐な妹との語らいに没頭しようとして、当の妹にそれを見破られたのである。
「……うん、ちょっと職場でトラブルがあってね。もう解決したことだから大丈夫だよ」
「……そうですか」
セリウスの市民にとって、ガルグイユは、その名を口にすることすら恐怖と警戒を伴わずにはいられない存在である。ましてやこの無力な妹の前では、決してその名を出すことはできなかった。
ガラヴァリスが追及してくることはなかったが、わずかに伏せられた目には、沈痛な色が浮かんでいる。それは、ロウにはよく見覚えがある色だった。
まだ幼い頃、ガラヴァリスの病が発見され、入院生活を余儀なくされると発覚した時。それから然程時を置かず、やはり病弱だった母が亡くなった時。
すぐに元気になる、お母さんは少し用事がある。
そうした言葉で、父もロウも問題を先送りにしようとしたが、ガラヴァリスはあっさりとその嘘を見破った。それから、瞳にあの色を浮かべるのだ。無力感と、自責の色を。
父も兄も、自分のことを想ってついた嘘だとわかっているが故に、その嘘を見破ったところで何一つ状況を好転させられない自分の無力を、ガラヴァリスは責めていた。青い瞳の奥で。
「兄さん」
「ああ」
ガラヴァリスが、兄の自分と同じ色をした目を見つめる。
同じ青い目であっても、受ける印象はやはり違った。一方は蒼穹のような、もう一方は氷海のような青だった。
母の死を見破られて以来、ロウは自身にやましいことがなくとも、その目で見つめられると、思わずひるんでしまうことがある。そのかすかな動揺を押し殺して、見つめ返す。
「どうか、ご自分の安全を第一に考えてください。わたしは……」
今のままでもいい。無理に体を良くしようとしてくれる必要はない。
そう言いたくとも、今のままでもガラヴァリスの入院費は少なくない負担であり、かといって快方に向かうための手術を受けようと思えば、更なる金がかかる。その矛盾が、ガラヴァリスを苦しめていた。
「大丈夫。大丈夫だよ、ヴァリス」
だからロウも、そんな益体のないことしか口にすることができない。
無力感。
それが、兄妹の心の奥深い部分に、共通して根ざすものの名だった。
◆◆◆
その夜、ロウの父、クレイグ・ジェイムストーンも比較的早くに帰ってきたため、親子は腰を落ち着けて話すことができた。ガラヴァリスとほどではないが、やはり久し振りのことだった。
「そうか、ガラヴァリスに会ってきたか」
「ヴァリスも父さんに会いたがってたよ」
温和で人のいい父は、妻を亡くした後、共働きが常識のセリウスで、病弱な娘を含めた二人の子を一人で育ててきた。その苦労は並大抵のものではなく、クレイグが息子と同様に頑健な体の持ち主でなければ、間違いなく身が持たなかっただろう。
ロウが働けるようになってからは以前よりマシにはなったものの、それでも生活は楽ではない。ここ最近も、朝から晩まで働き続けて、息子とゆっくり会話する時間もないほどだった。
「ヴァリスは、元気そうだったよ」
そう言うロウも、うなずくクレイグも、その表情には深刻な陰がある。
ガラヴァリスは、二〇歳までは生きられないだろうと言われていた。手術を行えばその限りではないが、その費用は、二人がこのままほとんど不休で働き続けて、ガラヴァリスが二〇歳になるまでに、ようやく貯まるかどうか、というものだった。
もし、いざという時になれば、とロウは思う。もしも、十分な額が貯まらないままその時が見えてきたならば、たとえ自分には不向きであろうとも、入隊という道を、ロウはいとうつもりはなかった。
「お前たちには、もっと別の生き方をさせてやりたかった」
その時クレイグがふと、ぽつりとつぶやいた。
「父さん?」
「単純なことしかできない父さんと違って、お前にも、ガラヴァリスにも、本来ならもっと豊かな選択肢から、自分の生き方を選べるだけの才能があったと思うんだ。けど父さんの力不足で、そうさせることができなかった。いや、今からでも遅くない。いつか、お前たちには」
そこでクレイグは、今現在の自分の中にはない、何かの答えを探すように言葉を切った。明朗な父には、珍しい姿だと、ロウには思えた。
「……親の贔屓目だよ。明日も早いんでしょ? もう寝よう」
疲れてはいたが、寝具の中で目をつぶっても、すぐには眠気が襲ってはこなかった。まぶたの裏に浮かぶのは、こちらを真っ直ぐに見つめてくる妹と、何かを思いつめるような父の姿。
父と妹のいる生活を守ることだけが、ロウの望みだった。たとえ、ごくたまにしか会話もできないような生活であっても。それは何の力も持たない、被支配階級にある身であっても、決して過ぎた望みではないはずだった。
――――それが所詮、無力な一市民の、都合のいい希望的観測でしかなかったとロウが思い知らされるのは、この翌日のことだった。
◆◆◆
その日も疲れ果てて自宅へ帰ったロウは、玄関の前に立つ、幾人もの男たちの姿を見て――――瞬間的に、背筋を凍らせた。あるいはその時、ロウは男たちの正体を本能的に察したのかもしれない。
男たちは、ロウが男たちに気づくよりも早く、こちらに気づいていたらしい。素早く近づいてくるとともに、ごく自然に、ロウを包囲した。その内の一人が、身分証を提示する。
ガルグイユのエンブレム。
「ロウ・ジェイムストーンさんですね? 貴方の父親が犯した罪の連座により拘束いたします」
「な、なんのこ――――」
それが、ロウと男たちが交わした、唯一といっていい会話の全てだった。
男が手を振るや、それ以外の男たちの手によって、ロウは有無を言わさず拘束された。それ以上何の説明も受けることなく、目と口までふさがれると、荷物のように車へと押し込められる。
それからの急速な展開は、ロウにとってひどく現実感に欠けるものだった。
より正確には、今まさに不本意な拘束を強いられている身でありながら、自分がこの唐突に訪れた非現実的な事態の当事者である、と自覚することが困難だったというべきか。
実際、何の説明も受けず、質問も許されず、行動の自由と選択肢を一方的に取り上げられた今のロウに、当事者として、事態に対し自身の意思と責任で対処できることは皆無だったのである。
何もわからないまま、車で一時間ほどの距離の、どこかの建物へと連れていかれた。ガルグイユの本部かとも思ったが、それも想像でしかない。そこで何らかの検査を受けさせられた後、同様に病院から拘束されてきたらしいガラヴァリスとともに、再び移動させられる。今度の移動は長く、数時間がかかった。
すぐ隣にいるらしいガラヴァリスの存在を確認することすらできないロウの心中では、ある感情が、大蛇のようにうごめき始めていた。
それは、これまでの人生において、ロウが常に心の中に抱き続けていた感情。それが、表向きにも決して清廉とは言い難いセリウスという国家の、更に暗部というべき面を今まさに突きつけられて、ロウの中で急速に成長を始めていたのである。
それは、何の前触れもなく、それまでの生活を奪われようとする理不尽。そしてそれから自分と家族を守るどころか、自らの意思や努力を介在させることすらできない、己自身。
それらに対する、激しく深い、憤りと、無力感だった。
ようやく着いた先は、どことも知れぬ巨大な施設だった。
そこでロウとガラヴァリスは、それまで二人を運んでいた男たちから、施設の人間と思われる研究者風の男たちへと引き渡された。そこでようやく目と口をふさいでいたものが取り去られ、研究者風の男たちは二人へといくつかの質問を投げかけた。
ロウたちはそれに対し、反抗的とも言える沈黙を守ったが、男たちが気分を害した様子はなかった。その目は、モルモットが非協力的だからといって一々いらだつよりも、協力したくなるようにした方が効率的だ、と言っていた。
研究員と、その護衛らしい屈強な男たちに前後を挟まれて、ロウとガラヴァリスは、施設の長いエレベーターを降りていく。つい昨日までの、恵まれていたとは言えずとも、確かに幸せが存在したかつての日々。
そして最早目の前に迫っているように思われる、自分たちを待ち受ける想像もつかないような暗い運命。それらが交錯して、ロウの頭を埋め尽くした。
エレベーターの扉が開き、乱暴に背を押されて歩き出す。左右にいくつもの扉がある、長く薄暗い廊下。その先に見える、一際大きな部屋の扉が、自分たちの人間らしい人生の終着点なのだろうか。そう、ロウの心が絶望の沼に沈みかけた時。
目の前を歩いていた男の内二人が、気が付けば倒れていた。
そしてそのことに気が付いた時、既に周囲は修羅場と化していたのである。それが、この時ロウがどうにか知覚できた全てだった。
自分の心臓の鼓動が、鐘のように頭の中に鳴り響く。視界はスローモーションのようになっているのに、目は何も捉えられない。ただ周囲が、今まで遭遇したこともない〝何か〟へと環境を変え、自分では介入どころか、認識すらできない、圧倒的な何かが起きている。
後から振り返れば、前後の状況から考えても、そこで起こったのは戦闘の類以外にはあり得なかっただろう。だがその時のロウには、今の自分では決して踏み込んではならない何かとしか、感じ取ることができなかったのである。
そんな状況下で、ロウがその時取った行動は、彼が取り得る中で、疑問の余地なく最善のものだった。
拘束され自由の効かない体なりに、ガラヴァリスをかばうようにして二人で体を丸めて、嵐が過ぎ去るのを待ったのである。震えるガラヴァリスを少しでも安心させたくて、可能な限り落ち着いた声で名を呼んだ。
「大丈夫。大丈夫だ、ヴァリス」
気がつけば、辺りは静寂を取り戻していた。
嵐が吹き荒れていたのは、時間にしてどれほどの間だっただろうか。一秒にも満たなかったと言われれば、不思議と信じていたかもしれない。
見渡せば、周囲は自分たちを連れていた男たちの死体で満ちていた。代わりに立っていたのは、体を、恐らくは今倒れ伏している者たちの返り血で赤く染めた男たちだった。
「……ッ、……! ――あっ……」
またしても訪れた事態の急変に頭はついていけず、それでもせめて、彼らが何者なのかをたずねようとして、だが言葉が出てこない。結果としてロウは、呆けたように口を上下させることしかできなかった。
男たちの内、リーダー格と思しき男は、その時のロウの心境を正確に理解してくれたらしい。無駄のない身振りで仲間に指示を与えつつ、迅速に事態を進めようとするかのように話しかけてくる。その強引さが、今はありがたかった。
「説明は後にしよう。成り行きだが、我々は君達二名を救出する。それとも、この施設に残りたいか?」
ほとんど反射的に、首を大きく横に振る。
ロウとガラヴァリスが、それぞれ別の男の肩にかつがれた時、緊急事態を示すサイレン音が施設に響くとともに、遠くから、侵入者、という単語を含んだ、いくつもの叫び声が聞こえてきた。
◆◆◆
リーダー格らしき男は、サーベラスと名乗った。
三〇前後の見た目を持った、所々に白が混じった黒髪の男性。白と黒が入り混じっているのではなく、部分的に集中して純白の毛が生えている。ストレスや遺伝によるものとは思えないが、かといってメッシュにも見えなかった。
その鋭い目つきや均整の取れた肉体、そして落ち着いたたたずまいでありながらもにじみ出る戦闘的な雰囲気は、優秀で成熟したハスキー犬を思わせた。
結局の所、サーベラスたちに連れられて施設を脱出し、そのアジトと思われる場所に連れてこられるまで、ロウはただ事態に翻弄されながら、目を白黒させることしかできなかった。わかることなど何一つなく、わかった気になれたのは、全て彼らから受けた説明によってだった。
曰く、彼らは人類社会を構成する三国家の一つ、イルミナス連邦帝国の諜報組織に属し、先程までいた施設で行われているある研究を調べるために潜入して、脱出する途中で偶然ロウたちに遭遇した。
曰く、その研究とは、詳細を告げることはできないが人間を消耗品同然に扱うような類のもので、施設の最深部では、国家に逆らった者や、国家にとって不都合な者たちが大量に幽閉され、その研究の道具としてのみ生かされ続けている。
曰く、国家への反逆などとは無縁なロウたちの父、クレイグが罪に問われ、ロウたちよりも一足先に幽閉されることになったのは、様々な施設の現場で労働しているうちに、国家にとって不都合な事実を知ってしまったためである可能性が高い。
一度にされたそれらの説明は、混乱するロウとガラヴァリスでも理解できるよう、最大限に配慮され、時間をかけて行われた。だがそれでも、ロウがそれらを頭の中で整理するのには時間を要した。サーベラスが語る内容は、いずれも一労働者に過ぎないロウには、現実感の伴わないものばかりだった。
が、その話を信じる根拠となるものは、ロウ自身の記憶にあった。
「父親と息子はともかく、娘の方は必要なのか? つつけば死んでしまいそうだ」
「体は弱いが、魔力は中々のものらしい。搾られ続けるだけの人生になれば、長くはないだろうが……いや、場合によっては、本来ならまず受けられないような高額な手術を受けて、かえって長生きするかもな」
「どうせ病院のベッドの上でしか生きられないような人生だったんだ。場所が変わるだけ、それも国のためになることができるのなら、幸せというものだな」
車で移動させられる中で聞いた、男たちの会話を思い出す。サーベラスの言葉が急速に真実味と現実感を増して、今更のように全身を寒気が襲った。
まだ彼の言葉が全て真実だと断言はできないだろうが、あの扉の先に連れていかれていれば、真っ当な人としての人生は終わりを迎えていたことは、最早疑いない。だが、自分たちは助け出されて、それで……。
それで、これから、どうするのか?
サーベラスの言葉の真偽に関わらず、自分たちがこれからもこの国で生きていくことは、最早不可能としか思えない。
サーベラスたちを頼ってイルミナスに亡命する? だが、それでは今もあの施設に幽閉されているであろう父は?
まるでロウの思考がそこまでたどり着いたのを見計らったように、サーベラスが再び口を開いた。
「我々はこの国での任務を終え、本国に帰還する。お前たちを連れてこの国から脱出し、イルミナスに亡命させることは可能だ。だが、お前たちの父を含む、施設に幽閉された人々を救出することは、現時点では不可能だ」
その言葉は明瞭で、にごすところがない。それは、ロウが考えてみれば当然のことを、当然だと理解し、納得させるのを助ける効果があった。
一度潜入され、脱出されたことで、施設の警戒はより一層厳重になっているのは、まず間違いないだろう。その施設に再び潜入し、最深部に幽閉された大量の人々を救出して、イルミナスへと亡命させることなど、できるはずもない。
だがそれを理解しても、父を残して自分たちだけが他国へと逃れるということを、すぐに許容することはできなかった。サーベラスも、急かそうとはしなかった。
「自分たちで考え、答えを出しなさい。お前たちには、その権利と義務がある。だが、時間はあまりない。脱出の好機が訪れ次第、遅くとも明日の朝には、我々はここを発つ」
ロウとガラヴァリスにとってそれは、これまでの人生で父以外の相手からは数えるほどしかかけられたことのない、厳しさと優しさが込められた言葉のように思えた。
◆◆◆
「…………」
「兄さん……」
ガラヴァリスも混乱から立ち直り、また体調を崩してもいないようだった。思いにふける兄に向ける青い瞳の奥には、やはりロウのよく見知った色が浮かんでいた。
「ごめん、ヴァリス。俺は、何もしてやれなかった」
「いいえ、兄さん、いいえ」
ロウとガラヴァリスに必要なのは、これからどうすればよいかを考えることではなく、既に出たその問いの答えに納得し、受け入れることだった。父を助け出すことは不可能であり、その上でこの国に残ろうとすることには、何の意味もない。
その葛藤を消化し、空いた心の隙間を、何で埋めようとするか。整理の時間が必要だった。
「俺は、無力だ。今までは、それでもしょうがないと思ってた。それでも、ヴァリスや父さんとの生活を続けていくことはできるって、自分を誤魔化してたんだ。守れるだけの力がなければ、いざ危険が迫った時、ただ一方的に奪われるだけだって、本当はわかっていたのに。ガルグイユや周囲の目におびえて、将来を楽観視して、目先の仕事に没頭して、必死にやっていれば、いつか望む未来が手に入るんじゃないかって」
無力感と、自責の念。兄妹の心に長年にわたって巣食い、今まさに飽和して埋め尽くそうとしているかに見えるものの名は共通していた。
蒼穹のような眼と氷海のような眼が、互いを映し合う。ガラヴァリスが、静かに口を開いた。
「いいえ、兄さん。兄さんは、無力なんかではありませんでした。これまでずっと、お父さんと一緒に、わたしを守ってきてくれました。お母さんが亡くなった時も、自分の寿命のことを自覚した時も、兄さんが側にいて、笑いかけてくれたから、わたしは……」
そこでガラヴァリスは言葉を切り、うつむきかけた。
だがすぐに意を決したように顔を上げると、再びロウの目を正面から見据える。儚く無力な少女には似つかわしくない、強い意志を浮かべて。
「兄さん、わたしは、健康には恵まれなかったかもしれませんが、兄さんとお父さんに愛されて、本当に幸せでした。何もできないわたしが、そう感じて生きてくることができたのは、兄さんたちのおかげなんです。だから、自分を責めないでください。わたしの大好きな兄さんを」
訴えるような、兄の心の傷を癒やそうとするようなその声に、ロウの脳裏に、これまでの人生の光景が浮かび上がる。父とともに、常に妹のために汗を流してきた人生が。だがその人生が、不幸なものであったかと問われれば、ロウは迷うことなく否定できる。
父がおらず、ロウ一人では、ガラヴァリスを支えることなどできなかった。だがガラヴァリスがいなければ、ロウの生涯は、経済的には楽なものではあっても、今以上に目の前の現実を処理しようとするだけの、彩りのないものになっていただろう。
ガラヴァリスがいたからこそ、この無機質で機械的であることを求められる社会で、自分は誰かを強く想うことができたのだと、ロウには確信できる。
妹は、父と兄に命を支えられ、生きるための力をもらって。
父と兄は、妹の存在に心を支えられ、生きるための活力をもらって。
自分たち家族は、そのようにして生きてきたのだと、ロウは今更のように気付かされた。
「ヴァリス。俺もヴァリスと父さんがいてくれたから、家族のためだからこそ頑張ってこれたんだ。俺たちは、互いに支えあってきたからこそ、生きてこれた。なら、ヴァリスがいてくれれば、今は父さんを助けるための力がなくても、俺はその力を手に入れるために、これからまた知らない国で、一から頑張れる」
兄妹の心を暗く埋め尽くそうとしていた無力感が、陽に当てられた氷のように、徐々にとけていく。自分たちは、完全に無力ではない。今の二人は、そう信じることができるような気がした。
互いの心の支えになることができていたのであれば、新たな環境で、今までとは違った、よりなりたい自分になることもできるのではないか。そんな、前向きな気持ちが芽生え出していた。
「また一緒に、互いに支え合って生きていこう。そしていつか、父さんを助け出そう」
「……はい!」
二人の顔に、かすかな笑みが浮かぶ。それは控えめな、未来への不安を完全には隠すことができていない笑顔だった。だが、雲間から陽が顔を出すような、その光を浴びた海面が清らかにきらめくような、またこれからも前を向いていくことができる笑顔だった。
久し振りに、心から笑えたような気がした。
◆◆◆
その日の夜、ロウたちは、やはりサーベラスの部下の一人に抱えられて、アジトを出た。
セリウスの首都星であるコスモスから、イルミナスが領有する星域までの、距離的には長く、時間的には短い、緊迫した旅路を、ロウはやはり漠然としか知覚することができなかった。
わかったのは、ワープで移動した先に待機していた別の能力者の力で、再びワープすることを繰り返していたのだということ。その合間に行われた、恐らく二度か三度の短い戦闘で、少なくとも二人以上の味方と、三人以上の敵が、ロウの目の前で死亡したであろうということだった。
その後、イルミナス領内に入ってからの、ワープ機構を備えた高速船による旅は、一転して穏やかなものだった。兄妹にとって、それはそれまでの生涯で、最も安らげる日々であったかもしれない。
そしてそれから更に数日後。ロウとガラヴァリスは、イルミナス連邦帝国の首都星、惑星ミッドスターの土を踏んだのだった。