9話
「ま、噂なんてばかばかしいものに振り回されないようにね。上手く利用すればいいのよ」
にやりと笑っておっしゃったリザベル様は、ぶつぶつ文句を言っているアジャーニ君と立ち去られた。
どうやら研究科にご用事があったらしい。
これは去り際のアジャーニ君の言葉からの推察。
シャルたちもリザベル様たちが去られたあとすぐに何も言わずにそそくさと去っていった。
途端にそれまでわたしたち以外静まり返っていたラウンジが騒がしくなる。
「これもまた噂になるわね」
「ごめんね、リュシー。庇うどころか、何も言うことができなくて」
「気にしないで、アンネット。あの人たちには何を言っても無駄だってわかったし」
「確かにそうかも……」
アンネットはお家が郷士で、貴族であるシャルやステファニーさんには遠慮して何も言えないのは当然だから。
それどころか今もこうして一緒にいてくれて笑い合ってくれるだけで嬉しい。
あんなみっともない場面をリザベル様に見られたのは恥ずかしいけど、でもやっぱり噂どおりかっこいい女性だったな。
たまには噂も本当のことがあるのね。
この日の出来事は瞬く間に噂が広まったけれど、それも下火になった頃、お父様から驚くべきことを伝えられた。
「婚約、解消……?」
「ああ。今日、正式にベルトラム子爵から申し入れがあった。正直に言って不満はかなりあるが、向こうが解消したいというものを引き止めるつもりはない。そもそもこの婚約は……いや、とにかく受け入れたよ」
「そうですか……」
「リュシーの意見も聞かずに悪かったとは思うが、このまま婚約を続けてもお互い不幸になるだけだろう。勝手に決めたことを怒るかい?」
「……いいえ。これでよかったのだと思います。ただわたしよりもお父様にご迷惑がかかるのではないですか?」
淡々と告げたお父様だったけど、わたしの反応に不安になったみたい。
驚きすぎて言葉が上手く出せなかったけど、頭が動くようになったら逆に心配になった。
子爵とは仕事でも繋がりがかなりあったはずよね?
それに、娘が婚約を解消されたなんて世間に知られたらなんて噂されるか……。
「ああ、それは心配しなくてもいい。子爵とは仕事の方向性が違うことで以前から少しずつ別々に動くようにしていたし、仕事に影響はない。それにわたしは最初から爵位には興味なかったからね」
「それでは……」
「子爵への融資分は先月利息も含めて返済してもらったよ。かまわないと言ったんだが、わたしに借りを作ったままではプライドが許さなかったのだろう。まあ、仕事やお金の話はいい。それよりもリュシーにはつらい思いをさせてしまうことになるな。世の中にはいろいろな人がいるからね」
「いいえ、それはかまいません。優しい人もたくさんいることを知っていますから。大丈夫です」
「そうか」
わたしの言葉にお父様はほっとされたような、でも悲しそうなお顔をされた。
すると、それまで黙っていたお母様がわたしへ心配そうな眼差しを向ける。
「リュシー、無理はしなくていいのよ。シャル君とはあんなに仲がよかったのだから……本当に大丈夫なの?」
「確かに、こんな形で終わってしまうのは残念だと思います。でも少し時間を置けば、また友情は戻るかもしれないでしょう? 心配してくれてありがとう、お母様」
「あなたがそれでいいなら……」
もう何も言うことはないというように、お母様はまた黙り込んでしまった。
たぶんお父様よりもお母様のほうが、婚約破棄された女性への世間の風当りの強さをご存知だものね。
わたしは居間を出て部屋に戻ると、そこでようやくほっと大きく息を吐き出した。
お母様に言ったように、こんな形でシャルとの友情が終わるのは残念だし寂しい。
でも本当の本当は、すごく安心してる。
わたしはいつの間にかシャルのことを弟のようにしか思えなくなっていたから。
それはきっと……ジェイ先生に出会ったことで気付いてしまったこと。
ずっと誰にも言えなくて、本当は苦しかった。
それでもシャルとなら上手くやっていけると、穏やかな家庭が築けると思ってた。
だけどステファニーさんが現れて、シャルが彼女のことを好きなのだとしたらと思うとつらかった。
他に好きな人がいるのに別の人と結婚するのは苦しいはずだから。
だから大切なシャルが傷つかないといいと思ってた。
この先、シャルが好きな人と――ステファニーさんと幸せになれるといいのにね。
そう思えるほど、わたしはシャルのことを弟としてしか見られない。
もちろん傷つくこともたくさん言われたし、ステファニーさんのことは本音を言えば嫌いだけど。
わたしはこの先、どういう方と結婚することになるのかしら。
お父様は準男爵でお金持ちだけど、婚約破棄された娘――ある意味で傷ものの娘だもの。
もちろんお父様の地位と財産があれば縁談はいくらでも持ち込まれるでしょうけど、あまり条件はよくないかもしれない。
だけど、次から持ち込まれる縁談は自分の意思で決めることができるかも。
ただ、その方が必要なのはお父様のほうでわたしはその足がかり。
たとえそうでも、できたらわたし自身を見てくれる人がいいな。
(でもいっそのこと結婚しないって選択は?)
そこまで考えて諦めのため息を吐く。
いつかは結婚しないとお父様やお母様、お兄様にご迷惑をかけるものね。
このまま高等科を卒業して社交界デビューしたら、一から婚活を始めないと。
って思ったものの、当然のことながら学院では次の日にはもう婚約解消のことは広まっていた。
予想はしていたけれど、わたしに原因があるかのような噂になっているらしい。
アンネットや友達がわたしの代わりに怒ってくれて、グレーテは心配して会いにまできてくれた。
改めて友情が深まって嬉しかったから噂のことは別にかまわない。
ただシャルから何も――一言もないのが悲しかった。
学院内で偶然出会ったときに話をするどころか目を合わせようともしない。
この八年間、友情だけでも育めたと思っていたのに。
(がっかり、というか腹が立ってくるわ……)
落ち込むよりも腹を立てていたわたしは、数日後に校内配達人から一通の封書を受け取って驚くことになった。
差出人は研究科のオリヴィア・カルヴェス女史。
それは女史の研究室への招待状だった。