三月の自由な大人
花冷えの三月。みずいろの空に、薄く白い雲がぽやぽやと浮かんでいた。今日は、休日。
花冷えの三月。
みずいろの空の下の方に、薄く白い雲がぽやぽやと浮かんでいた。
今日は、僕にとって休日の最後だった。明日からは、また、仕事の毎日が始まる。
朝食をすませた僕は、自転車で図書館へ向かった。
昨日、区立図書館のサイトでインターネット予約した本が、朝には、すでに直近の図書館に用意できているという知らせを受けたからだ。素早さに感心した。
その本は、映画の原作になった小説だった。僕は最近、映画化やドラマ化された作品の原作小説を読みたくなる傾向がある。原作小説があると知ると読まずにはいられない、そんな病気にかかってしまったようだ。
休日に、自転車を走らせるのは気持ちがいい。時間制限がないので、ゆったりペダルを漕いで進む。
気候もいい。
僕は、こんな時、なぜかいつも同じシーンを思い浮かべる。
ばかな妄想だ。
僕は、中学生の男子に、急に話しかけられるのだ。
「ねえ、大人になったら、楽しい?」
僕は、とっさの事で、言葉に詰まる。
「う、うーん……」
少年は、不安そうに地面のアスファルトに視線を落としている。
何か答えなくては。何か気の利いたことを、と僕は焦る。
僕は、子供と言葉をかわすのが苦手だ。どんな調子で話せばいいのかわからない。上から目線で、何かを教えてやろうという雰囲気をかもし出すのも、後から自分が嫌いになりそうで気をつけたい。子供の目線と同じ高さにするために、しゃがんで話しかける人がいるが、それも遠慮したい。それこそ、上から意識のタマモノではないのか、と考える。
「楽しいよ!」
僕は、少しだけ元気よく答える。
少年の表情が、明るくなる。僕も、ほっとする。
「本当? じゃあ、楽しく生きるコツってなんですか?」
少年は、さらに質問を重ねてくる。
やばい、こいつ質問厨か? 僕は急にその子のことがうとましくなったが、答える。
「自由でいることかな」
言葉にした瞬間から、自分の中のもう一人がダメ出ししてくる。その答えで大丈夫か? 無理して大人っぽい事を言おうとしたな。その答えで子供が納得すると思うか? 意味わかんねーよ!
「自由?」
案の定、少年が言う。
「あらゆるものから自由でいられるように、進むべき方向を見定めながら生きることかな」
「ふうん……」
少年は、生まれて初めて飲んだ珈琲がまったく美味しい物ではなかった時のような顔をして去って行く。
そして、一人になった僕は思う。
自由……か。
僕は、何を偉そうに語っているのだ。
僕はいま、確かに、借金の取り立て屋に追われる事もなく、何かの締め切りに迫られている訳でもない。誰かに強迫されることもないし、生活費に困ってもない。いわゆる「自由」だ。
しかし、自由に生きていられるのは、自分だけのおかげだろうか。
おそらく、これまでかかわってきた、たくさんの人たちに、僕は迷惑をかけてきている。そして現在も、何人もの人に迷惑をかけ、面倒をかぶってもらいながら生きている。何を、自分ひとりの力で自由な身分を勝ち取ったような気になっているのか。と、反省する。
さっきの少年は、大人に問答をふっかけ、回答を得た気になっているだろうが、実は、精神年齢でいうと高校一年生くらいの、とっちゃん坊やに話しかけ、くだらない雑談をして時間を無駄にしただけなのだ、と僕は思う。
そんな妄想。
「誰か! 助けてください! 警察を呼んでください!」
ひきつったような声が、近くの駐車場の奥から聞こえたのは、その時だった。
その駐車場は、入口は、自動車が一台やっと通れるくらいの幅しかないが、奥に行くと、わりかし広く、十台ほどの駐車スペースがある、ビルに囲まれた駐車場だった。
最初、その声を聞いた時は、何と言っているのかわからなかった。大声と言うには、かすれていて腹から出した声でもなかったし、母親が、言うことをきかない子どもを叱っているようでもあった。
助けを求めて大声を上げているとは、思えなかった。
人間、恐怖に迫られると、声帯が緊張して、大声を出すことができないものだと聴いたことがある。いま思うと、そんな現象が起きていたのだろう。
とにかく、僕の脳は、緊急性を感じなかった。
女の子が泣いているのか、叫んだのか。あるいは、下校途中の中学生が、大声でお喋りでもしているのか。瞬間的に、そんな風に感じた。
最近の、子供たちの話し方は、よくわからない。大声で怒鳴りあっているから驚いて、でもしているのかとよく聴いてみると、普通に会話していいるだけだったりする。
海外では、大声というものに敏感で、聴いた話だと、街中で日本人旅行者が大声で話したりするのを、現地の人たちが、顔をしかめながら通り過ぎていくという光景をよく見るそうだ。僕も、それが普通なのではないかと思う。大声は、不快だ。
そんな日常を送っている日本人は、本当に危険が迫っていて助けを求める声に鈍感になっているのかも知れない。
僕は、その駐車場を自転車で通り過ぎてから、その声を左脳で反すうして、内容を理解した。
「え、やばいんじゃない? 今の声……」
僕は、Uターンして戻り、駐車場の入口に自転車を停めて、自転車に乗ったまましばらく中の様子をうかがった。
入口からは、人影は見えなかった。駐車している車と車の間にいて、入口からは見えないようだった。
「助けてください。殴られました」
今度は、はっきりと聞こえた。叫び声というより、声を張って宣言しているような感じだった。
僕は、意を決して、自転車で散歩をするかのように駐車場の中に進入していった。
近づくと、駐車している車と車の一台分のスペースに、男性と女性が立っていた。そして、女性の方は、スマートフォンを右手に持ちながら独り言のように「警察呼んでください。殴られました」とうわごとのように言っている。
僕が自転車で二人のすぐ横を通り過ぎるのを確認して、僕に対して言ったのだろうか。さきほどと同じような感じで、独り言のように女性は繰り返した。女性は、スマートフォンを操作するのに必死だった。自分で110番通報するつもりなのだな、と僕は思った。
男は、
「どうすんだよ、これ!」
と、自分の車のドアについた、こすったような何本もの傷跡を手でなでていた。おそらく、女性がヒールで何度もごりごりこすったのだろう。そんな傷跡がついていた。
地面を見ると、大き目の女性用のウィッグとハンドバッグが落ちていた。
それらの状況から、僕が立てた筋書はこうだ。
まず、男性と女性は、何らかの原因で喧嘩をしていた。駐車場まで来たが、まだ喧嘩は続いていて、女性は男性の車の側面をヒールでごりごりこするなりして傷をつけた。それに腹を立てた男性が、女性の髪の毛をつかんで殴った。髪の毛をつかんだことで、ウィッグが取れて地面に落ち、ハンドバッグも落ちた。殴られた女性は、叫び声をあげて周囲に助けを求めた。
「……事件です。はい、いま殴られました」
そんな事を僕が考えているうちに、女性はすでに、110番通報をして、警視庁の交換手相手に事情を説明していた。数分後には、警官が、ここにやって来るだろう。
僕は、その場を離れた。
女性が自ら110番通報をしているのだから、問題はないように見えた。
男性も、それ以上、暴力をふるおうとは思っていないように見えた。
★
図書館からの帰り道。
僕は、あの駐車場の前を通ることにした。
あの後、どうなったのか確認したかった。
女性が通報していたのだから、当然、警官が白い自転車で駆けつけるなり、パトカーなりが停まっているだろう。
見ると、やはりパトカーが二台留停まっていた。
一台は、駐車場の入口をふさぐようにして停められ、もう一台は、少し離れた場所にあった。
そして、救急車も。
僕の心臓が、ひとつ大きく鼓動した。
僕は、パトカー越しに、駐車場の中を見た。
地面に、血痕らしき、黒っぽい水たまりがあった。
僕は、固まって動けなくなった。僕が立ち去った後、何かあったのは明らかだった。
パトカーも、救急車も、屋根の上の回転灯をくるくる回してはいたが、無音だった。
その静けさが、異様に、僕を追い詰めているようだった。
この状況を見ての、僕の憶測はこうだ。
警察が来ているので、彼女は、通報に成功したのだ。
そして、僕が去った後、何らかの事件が起きた。
おそらく、男性が、実はナイフなりを所持していて、女性を刺したのだ。
で、警察が到着するまでの間に逃げた。いやもしくは、刺したところで警察が到着して、現行犯逮捕され、今は、あのパトカーのどちらかに乗せられている、とか。
僕は、考えても仕方ないので、見物人の一人を呼び止めて聴いた。
「何か、あったんですか?」
「あー、なんかー、男と女が刺されたって。いま救急車に乗せられて……」
と言ってるうちに、救急車は、サイレン音を響かせながら走り去ってしまった。
僕は、見物人の男性に聴いた。
「え、男と女、二人が刺されたんですか?」
「あー、うん。そう。二人が救急車に乗せられてたよ」
すると、そばでその会話を聞いていたもう一人の見物人が口を挟んできた。
「白い自転車に乗った男を探してるんだって。さっきパトカーの無線で喋ってた。容疑者は白い自転車の男、って。」
ちょっと待て。
白い自転車。
まさか、僕のことか? 僕が疑いをかけられてる?
おそらく、僕が彼らに近づいたところを、誰かに目撃されていたのだろう。
おそらく、あのマンションの上の階かどこかから。
白い自転車の男がいた、それだけを警察官に話したりしたのだろうか。
中途半端なことをしやがって。
全身から、汗が噴き出た。
まずい。
どうすべきだ。考えろ。
まったく考えられなかった。
僕は、何もしていない。なら恐れることはない。警官を呼び止めて言えばいい。自分が白い自転車の男だと。
だけど、この汗はどうする。僕の顔面は、すでに汗でびっしょり濡れていた。完全に挙動不審である。
「ここじゃ何ですから、ちょっと署までご同行願えますか」
なんて言われたらどうすればいい。
「お前がやったんだろう」
って、刑事に囲まれて、あらかじめ作られたストーリーを読み上げられて、調書にサインだけしろなんてすごまれたら、どうやって逃げればいい。弁護士に、知り合いもいない。
大人は、楽しいことばかりじゃない。日常の中に、とてつもない落とし穴が、用意されていたりするものだ。
僕は、自由を手放すことのないよう、進むべき方向を探しながら汗をかいていた。
小説、練習中です。失礼しました。