セバスチャンの増殖
私が若い頃に商社勤めをしていたとき、短期間ではあったがイギリスのマンチェスターに駐在していたことがあった。あるとき、私は上司の縁でとあるイギリス貴族院に議席を持つという由緒正しき世襲貴族の邸宅に招かれた。そしてその時にはじめて本物の『執事』という存在に出会ったのだが、本当に職業として執事をしている人物を実際に目にしたのはそれが最初で最後であった。
彼の名前は何だったのだろうか。彼の名前を訊ねなかったのは私の人生における後悔の一つである。しかしなんとなく予想はできる。おそらく彼は『セバスチャン』という名前だったのではないだろうか。なぜならセバスチャンは様々な作品に登場し、家事から戦闘、内政・外交まで幅広い活躍で主人公をサポートしてくれる有難い存在だからである。イギリス世襲貴族に仕える本物の執事である彼がセバスチャンという名前以外である可能性の方が低いだろう。
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ところで、近年のネット小説をはじめ、様々な創作物においては多くの『セバスチャン』が登場するようになっているが、その理由としては
① セバスチャンは登場作品ジャンルを選ばない
② セバスチャンを登場させることで大幅な描写の省略が可能となる
という二つの点において圧倒的な便利さがあるからではないだろうか。
セバスチャンはネット小説でよく舞台として選ばれる『中世ヨーロッパ風な異世界』に登場することは自然であるし、現代社会を舞台ににした作品、あるいはSFチックな世界観の作品など、幅広い作品ジャンルの作品に登場させることができるのである。これは作者が主人公を自由に動かすためにサポートするキャラを登場させたいと思った時に、セバスチャンという存在であれば、大抵の場合『セバスチャン』という名前ごと彼の存在を援用できてしまうことを意味する。
また、セバスチャンを登場させることで大幅な描写の省略が可能となるという点については、多くの場合でセバスチャンは最初から有能であると設定できるからである。これは既に人々の中に広まっている『セバスチャン=有能な執事』という共通認識を活用ことによって実現できていることである。このことによって主人公は様々な問題をセバスチャンに丸投げするだけであっさり解決できてしまうのである。
例えば、家事から内政・外交・研究開発に至るまで、ありとあらゆる難題を
主人公「セバスチャンよろしく」
セバス「はい。承りました」
たったこの二行の描写で済ませてしまうのである。
なぜこのような手抜きが許されるのかというと読者達が既に持っている共通認識を利用することで、セバスチャンという名前を出すだけで、「セバスチャンならやってくれそう」と読者は勝手に納得するからである。これがもし仮に主人公の幼馴染ポジションのキャラクターであれば、その仕事を任されるために必要な能力をどの程度持っているか、どうやってその能力を得たのか等についての背景についても細かく説明する必要があり、場合によっては勉強したり修行に行ったりする描写をしなくてはならないため手間が掛かってしまう。この手間は説明のための手間であり、読者も作者もできればこの様なものは省略してテンポよく話を進めたいと考えるのが自然であろう。
そこでセバスチャンという共通認識を利用するのである。セバスチャンであれば最初から有能なので勉強も修行も必要もないし、失敗の心配もないのでその様な描写が全て省略することができるのである。
この様な共通理解が広まっている便利なキャラクターは作者としては是非使いたいと思うところだろう。しかし、これをセバスチャン以外で行うのはなかなか難しい。例えば共通理解が広まっている他のキャラクターとして『ドラえもん』が挙げられるが、ドラえもんを勝手に自作品に登場させることは出来ない。『ドラえもん』という存在は著作権によって守られているからである。しかしセバスチャンであれば大丈夫なのである。
しかも、セバスチャンは「有能執事」というベースにのっとりつつ、細部については改変が可能という利点もある。つまりセバスチャンに対してはその作品独自のオリジナリティを付与することも可能であり、戦闘特化で筋肉質なセバスチャンもいれば、主人公の代理までこなす影武者的なセバスチャンもいるといったなんでもありのキャラクターなのである。セバスチャンは自由自在にその存在を変化させ、どんな作品にもフィットさせることが出来る非常に便利な存在なのである。
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セバスチャンを援用する作品が増えれば増えるほど、人々のなかに『セバスチャン=有能執事』というセバスチャンの共通理解は広まる。そのことによってさらにセバスチャンの援用がしやすくなるので、さらにさらに他の作品でも援用しやすくなるという好循環が生じるのだ。これを私は『セバスチャンの増殖』と表現したい。セバスチャンという概念は様々なネット小説作品の中で増殖を続けているのだ。
しかし、とても便利なセバスチャンではあるが一つだけ危うさをあげるとすれば、それはセバスチャンという概念を知らない新規読者の存在である。『セバスチャン=有能執事』という共通理解を持っていない人々からみれば、特に背景描写もなくいきなり現れて当然の様に大活躍をする有能執事の存在は謎でしか無いだろう。これはセバスチャンの危うさと言える。たとえばもし仮に100年前の読者が現在のネット小説の中に登場するセバスチャンという共通理解を利用して描写を省略するキャラクターを見ても謎にしか感じないことだろう。そしてそれは100年後に読者についても言えるかもしれない。
セバスチャンという存在が語られなくなった時、セバスチャンの共通理解は機能を失い、セバスチャンの有能執事設定は謎な存在となってしまうのである。この現象に名前を付けるのあれば『セバスチャンの消失』と言ったところだろうか。
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セバスチャンに対する共通理解は人々の中に広く広まっており、その名称および概念を援用することで作者は大幅な描写の省略が可能となる。そのためセバスチャンは様々な作品で援用され、セバスチャンを援用する作品が増えれば増えるほど、セバスチャンに対する共通理解はさらに人々の中に広まっていく。
一方でセバスチャンが持つ危うさは、セバスチャンに対する共通理解を持たない人々に対する不親切さとしていずれ表面化するのではないだろうか。これは社会のグローバル化、あるいはIT化に対する『デジタルデバイド』現象にも似ている。
『セバスチャン=有能執事』という便利な図式の共通理解を持った上で、それを利活用してる作者及び読者達はいつまでもセバスチャンをその創作物に登場させて語り続け、その共通理解を広め続ける努力をしなければならない。そうでなければいずれセバスチャンの有用性は失われ、やがて消失してしまうのであるから。
( 完 )
なお、セバスチャンという共通認識の広がりの経緯については、
久我真樹氏の「「執事といえばセバスチャン」はいつ成立したのか? 執事ブーム以前のセバスチャン考察」が参考になると思います
https://note.mu/kuga_spqr/n/n626a6c138cb4
なお、次話はなろう風に書き下したものになります。