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75億の蜃気楼

作者: 裏山おもて

みぞれ雪企画の短編。

 僕は彼が嫌いだった。


 きっかけは些細なことだったと思う。挨拶を無視されたとか、好きな子が彼の外見を褒めていたとか、そういうくだらないことだった。

 とにかくこれといった理由はないまま、僕はいつの間にか彼を嫌っていた。



 彼を見かけるのは、いつも月曜一限の授業だった。


 週明けで気が乗らないのはみな同じだ。遅刻ギリギリで登校してくる者が多い中、彼はいつも一番最初に講義室に来て後ろの窓際の席にひとりで座っていた。

 彼がそれほど勉強熱心でないことは、時折、授業中に寝ている姿からも想像に難くない。後ろの席をとるのも寝ている姿を教授に見られたくないからだろうし、ぼんやりと窓の外を眺めていることも少なくなかった。

 それなのにわざわざ朝一番に登校してくるなんて、僕には理解できなかった。



 静かに後ろから講義を眺める彼は、いつも色褪せていた。


 病人のように白い肌はさることながら、浮かべる表情は乏しく、笑う姿を見たことはない。常に儚げな表情で頬杖をついて、まるで世界中の悲劇を自分だけが背負っているとでも言いたげなその視線が腹立たしい。

 一度だけ話しかけてみたことがある。たしかレポートの提出期限を聞き逃して、彼に聞いてみた時だった。彼は目を合さずに「聞いてなかった」と答え、それ以上は僕と関わりたくないかのように視線を落として口を閉ざしてしまった。

 それもまた不愉快で、僕は他の人に聞いた提出期限を彼に教えてあげることはなかった。



 授業を終えると彼は、いつも誰よりも早く講義室を出て行く。


 まるで僕たちがいる空間に毒が撒かれているかのように、あるいは住む水を間違えた魚のように、乏しい表情のなかに不快感をあらわにして足早に立ち去るのだ。言外に同じ空気を吸うことが嫌だと、そう言われている気がしてならなかった。

 さらにいうなら、彼は講義室を出ていくときに扉を閉めない。夏でも冬でも、エアコンが効いた部屋の扉を開け放したままにしている。中に残っている他の人のことなど微塵も考えていないのだ。



 彼は、彼は、彼は。

 いつも彼のことが気にかかる。

 彼が頭の中で何を考え、腹のなかに何を抱え、袖の下に何を仕込んでいるのか。

 雪のように白く触れてしまえば崩れそうな風貌の下に、どんな毒牙を潜めて生きているのか。その正体を暴きたいと思う反面、踏み込むのは躊躇われる。


 僕は、彼が嫌いだった。






 ため息とともに吐き出す空気が、白い靄になって空へと消えて行く。

 道端には雪が固まり、春になるまで溶けないだろう。肌を刺す風に身をすくめつつ、重い瞼をこすりながらいつものように週明けの学校に向かう。


 朝は苦手だったが、今日は珍しく余裕をもって家を出た。眠いのは眠いけれど、授業が始まる十分以上前には講義室に着くだろう。

 少し寄り道をして生協でペンを買っておいた。講義で愛用しているものが、中でインクが固まってきているのか時々書けなくなるのだ。

 ペンと、ついでにレジの横にあったカイロを買って講義室へ向かう。

 講義室にはちらほらと生徒が座っていた。僕も、馴染みの右後ろの隅の席に座る。

 いつもと違っていたのは、窓際に彼の姿がないことだった。他の席にも視線を走らせたが見当たらない。

 記憶にある限り、彼の姿が見えないのは初めてのことだった。

 ……とはいえ、だからといってどうということはない。風邪を引いたのかもしれないし、寝坊しているのかもしれない。そんなことより僕は手でカイロを捏ねることに意識を費やした。


「おはよ~」

「ああ、おはよう」


 しばらくすると僕の横に友人が座った。挨拶を交わして、寒そうに手をこする友達にカイロを渡す。


「ふわ~あったけ。最高」


 友人はカイロをくしゃくしゃに揉んで手や首を暖める。至福のひとときだと言わんばかりの素直な表情に、僕もつい頬がゆるんだ。

 一通りぬくもりを堪能したあと、友人はカイロを僕に返しながら視線を窓際に映す。


「おろ? 珍しいじゃん。あいついないな」


 友人もいつも講義室の隅にいる彼を気にかけていた。

 ただ僕とは違い、彼を嫌いだからというわけでもないようだった。端正な顔立ちと儚げな表情をして孤独に過ごしている、という部分に好奇心がうずくようだ。いつもは、その好奇心を露わにするような節度のない反応はしないのだが。

 今日は本人がいないからか、友人は声を潜めて耳打ちしてきた。


「なあ、知ってるか? あいつって記憶障害らしいぞ」

「記憶障害?」


 寝耳に水な言葉に、僕は目を丸くする。


「なんか一週間程度しか記憶がもたないんだってさ」

「それ、本当?」

「ああ。俺の彼女が来年から同じゼミになるって。それで顔合わせの自己紹介の時に、自分で言ってたって」

「……そうなのか」

「でもアレらしいぜ。エピソード記憶の障害? なんか覚えた言語とか知識は忘れないけど、他人の名前とか関係とかは忘れるらしい。ほら、映画とかでたまにやってる記憶障害のパターンやつ。現実にもあるんだなあそういうの」

「珍しい、だろうけどね」


 少なくとも、その可能性を考えたことがないくらいには滅多にあることじゃないんだろう。

 エピソード記憶の欠如。

 それが具体的にどういう症状を表わすのか、僕には理解できないだろうし、想像もできない。

 ただわかるのは、いまは誰もいない空席がさっきより寒々しく見えることだけだった。






 翌週、彼はいつも通りに講義室に来ていた。

 体調が悪いのかそれとも他の部分が悪いのか、なぜ先週休んだのかは乏しい表情からは窺い知ることはできなかった。

 彼の体調のことなど僕にはどうでもいいことのはずだし、実際、他人の事情を知ったからといって何かが変わるなんてことはない。彼は講義室の隅で授業を眺め、僕は彼を観察する。ただそれだけの関係だ。

 年度が終われば同じ授業に出ることもなくなるだろうし、彼のことなど気に留めなくなるだろう。





 彼を見かけるのは、いつも月曜一限の授業だけだ。



 誰もいない講義室に最初にくるのは、きっと後ろの席を確保したいからなのだろう。常に周囲の人間が知らない状態だというのなら、後ろから見ているほうが安心できる。自分が前に出るなんてできるはずもない。

 授業で覚えた知識は残るのだろうか。詳しくはわからないが、それすら忘れるのならそもそも授業を受ける必要もないはずだ。言語知識などは、きっと覚えているのだろう。



 静かに後ろから講義を眺める彼は、いつも色褪せていた。


 色合いに乏しい表情は、自然とでてくるものなのだろうか。自分が背負った悲劇がどういうものか、記憶すらない場合は誰だってそんな表情をするのかもしれない。どんな人生を歩み、どんな人間関係を築いてきたのか、自分のことすらわからないのは不安に違いない。誰が話しかけても、彼にとっては平等に他人でしかないのだ。距離を置こうとするのは当然なんだろう。



 授業を終えると彼は、いつも誰よりも早く講義室を出て行く。


 すべてが他人である状況で、意味もなくその場所に留まる必要はないだろう。いや、きっとそれだけじゃない。じっと座っていることが苦痛なのかもしれない。怖いかもしれない。毎週、同じ行動をするということは、それだけ深く刻み込まれた処世術なのだろう。そうやって自分を守らなければならない。彼には、記憶という防衛のための学習機能がないのだから。



 彼は。彼は。彼は。

 僕は今まで知らなかった。知らなかったというだけで、彼の行動を忌諱していた。

 彼が嫌いかと問われれば、嫌いなままだ。知ったからといって好きになることはない。

 でも、いまはその行動ひとつひとつに意味を見つけることができる。想像することができる。


 僕は彼を観察する。


 彼の横顔がいままでとは違って見えた。

 僕の中で、凍った雪が溶けながら落ちてゆく。





 ――――――――――






「これでよかったのか?」


 俺は彼に問いかける。


「おまえが記憶障害だって言っただけだぞ」

「うん。充分だよ」


 彼はうなずいた。

 珍しくあからさまに不快感を吐き出しながら。


「……充分すぎるほど、反吐が出るよ」


 彼も気づいていたようだった。

 自分に向けられる視線が変わったことに。


 先入観。意識。視点。

 少し変われば物事は違って見える。相手は同じ行動、同じ様式のままなのに、それを見る側によって意味が違ってしまう。そうとは気付かずに、あるいは気付いたとしても知らないフリをして、自分の見ている角度に自分の感情が振り回されてしまうのだ。

 視野の限界を制御しきれずに、理解しきれずに。


 別にそれが悪いわけでもないだろう。この世界中の誰もが、誰に対しても感じることで、とても自然なことだ。理解はできても逃れられるものじゃない。

 だが、その視線を受ける彼にとっては苦痛でしかなかった。

 そういう話なのだ。


「ねえ、そう思わない?」


 だから彼は悲しむ。

 諦めたように。


「何も変わっちゃいない。ただ自分の思い込みがズレただけだ。それなのに、まるで春が来たみたいに理解したつもりになるんだ。そうじゃない。そうじゃない。世界はなにも変わっちゃいない。きっかけがあれば雨はまた雪に戻る。そんなものは勝手な思い込み、怠惰で傲慢な独りよがり、ただの幻想だよ。……そもそも、はじめから雪なんて降ってないのにさ」


 儚げに、微笑む。




 そんな彼もまた、蜃気楼のなかで凍える幼子(おさなご)のようだと、俺にはそう思えるのだった。




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