61・ 別の人間
「ぜんぜん手ごたえなさそうだけど」
軽くため息をつくとコーラルの胸倉をつかんで自分に顔を向けさせる少年。 コーラルは大人しくしていたが、相手がラドビアスでは無くなったことで隙を捜す。 たかだか二、三年魔術を学んだ者が自分に適うはずは無いのだから。
ラドビアスが目を離したらこの生意気な子どもの心臓を潰してくれる。 そう、考えている事に気づいていないのかクロードは呑気な声を上げる。
「これからベオーク自治国に行かなきゃならないのにこれじゃあ心配でならないな。だから心配事を三つほど潰させてもらう。まずは一つ」
少年は右手に嵌めていた指輪を剣に変える。
「顔を上げろ、コーラル」
「なっ」
自分に手をかけている少年の体を振り払おうとするが遥かに体格が違うにも係わらず、びくともしない。 それならと印を素早く組もうとするがその手元に蹴りが入る。
体二つ分飛ばされたコーラルは手をさすりながら、後ろに下がりつつ印を組んで呪を唱える。
『ティワズ イサ ウルズ』
鋭い氷の長剣が現れてコーラルの手の中に納まる。 にまりと上がる口元。 ちらりと目をラドビアスに向けるが動く気配は無い。 あっと言う間の出来事に反応できていないのか。
ならこれでわたしの勝ちだ。
「ばか者。余に偉そうな口を聞いたことをあの世で嘆くがいい」
笑いながら踏み込んで剣を突き込んだ。
「あの世ってどこさ」
ところが氷の剣は高い金属の衝撃音とともに弾かれる。
「そんななまくらな剣で何を斬るつもりなんだ、コーラル? まあ、すこしは抵抗してくれないと面白くないといえばそうなんだけど」
弾いた剣の残像が残るような素早い間合いで反対にコーラルの喉元に突き入れられる長剣。
足を取られるように必死でかわしてコーラルは片手で印を切って剣を二本にすると、その一本をクロード目掛けて投げつける。 鋭い弧を描いて飛ぶ剣をクロードは左手で受け止める。 逆にその剣先を地面につけて轢きずるように歩いてコーラルに近づく。
地面に引かれていく一本の線。
わざとなのかその歩みは不自然なほどゆるやかで。
少年の顔に浮かぶのは楽しそうな笑み。 牧草地で犬とでも戯れているように明るい笑顔。
「逃げてもいいよ、コーラル。十まで数えてあげる。おれが鬼でおまえが逃げる、でいいよ」
コーラルはさっきまでの余裕を無くして慌ててクロードに背中を向けると兵士たちの中へと走りこんで行く。
そうだ、クロードの持っているのは護法神の剣なのだ。 あなどってはいけない。
「おまえ達、あの罪人を殺せ。矢でも槍でもなんでもいい」
大声で出す命令に兵が槍を構える。
「八、九……ねえ、コーラルもう逃げないの? そんなんじゃおれ、すぐ追いついちゃうよ」
「クロード様」
咎めるようなラドビアスにクロードは片目を瞑ってみせる。
「おれのやりたいようにやらしてくれるんじゃ無かったの、ラドビアス?」
そうでした、とため息交じりに吐き出される言葉。
「さーどこかな? 今だいぶ待ってたけど。あれっ逃げてないじゃん、残念」
左手に持った剣を地面につけたままコーラルに向けて走り出すクロードに向けて何十本もの槍が突き出される。
ほっとして顔を上げるコーラルの目の前にいるのは。
「ひょっとして死んだと思った?」
「ク、クロード?」
少年の背後に倒れているのは槍を手にした兵士たち。 一様に腹がざっくりと切り裂かれて内臓をはみ出させて倒れている。
「今度は何をする? 追いかけっこもかくれんぼもおまえが中途半端だから面白くないんだけど。他に何がしたい?」
息一つ乱していない少年の爽やかな笑顔を慄然と見るコーラル。
二年前に顔を会わしていたクロードはどこへ行ったのか。 ここにいるのはまったく別の人間としか思えなかった。 いや、人間ではない。 人を一瞬に切り裂いて、楽しそうに血の一滴も浴びずに笑うなど。
人間であるはずが無い。
「お、お助けを。あなたの忠実なる僕になります。お助けください」
今や、泣きながら声を上げる男にクロードの笑顔が曇る。
「え? 何か言ったか。よく聞こえないなあ。まさか降参したっていうのか」
うなずくコーラルに露骨に不機嫌そうな顔をみせた少年。
「悪い、今の聞かなかった事にしてくれない?」
「クロード!」
アリスローザはこのまま見ていられなかった。 コーラルは命を差し出すべきだと。 いざとなったら自分が命を奪うと思っていたのに。
この恐ろしさは一体なんなのだ。