50・ 最後の教え
父親に招待するようにと命じられていた事とは別にトラシュはモンド州、州公の次男、ユリウスが我がボルチモア州に来るのを楽しみにしていた。
あと、少しでここに来るはずとこの二、三日そわそわと落ち着かなかった。それが、さっき戻って来た間諜に出していた兵の報告の内容に驚いて。持っていた安酒の入った杯を取り落とした。音を立てて転がる杯に見向きもしないで従者の胸倉を掴む。
「ユリウスの乗った馬車が襲われたというのは本当なのか」
「は、はい。しかし、ユリウス様もクロード様もご無事だと報告が」
従者はトラシュのあまりの剣幕に驚いてしどろもどろになる。
「たった今……別の者からユリウス様一行が無事にプリムスのサンディエンスホテルにお着きになったと報告がありました」
は、と安堵の息を吐いてトラシュは従者の服を離す。
「では、明日の朝わたしがお迎えに行く」
「ええ?」
トラシュは急に機嫌を直してテーブルの上の瓶を見やった。昔からの悪い癖だ。こんな不味い酒を飲んでしまうのは。
その晩、仕事を終えて自分の居室に帰って来たトラシュはバルコニーに面している掃き出しの窓が開いているのに気づく。使用人が空気を入れ換えた後、閉め忘れたのだろうかと窓辺に寄ると、カーテン越しに人影が見えた。
「曲者か、姿を見せろ」
壁に飾ってある剣を素早く取り上げて構える。そしてじりじりとゆっくり近づいて、カーテンを思いっきり引いた。
が、そこにいたのは思いもよらない人物だった。
「ユリウス?」
そこにいたのは、亜麻色の長い髪を結わずに背中に流して深緑の服を着た……彼。
――しかし、そんな事が?
止まってしまったトラシュにその人影は近づいて流れるような仕草で彼の手を取った。
「あなたにお会いしたくてこの夜分、馬を飛ばして参りました。ご不快ですか」
「不快など思うはずがない。が、どうやってここに入り込んだんだ? 従者の誰もそんな事は言ってなかった」
おかしいと、こんな事があるはずがないのは知っている。そして、ユリウスがこんな態度を取るはずが無い。それなのにここにいるのはやっぱりユリウスとしか思えない。
「トラシュ様、わたしを好ましいとお思いになっているんでしょう?」
握った手を離して、上にすべらせるとユリウスはトラシュの両頬を挟み込むように持ち自分のほうへ引いた。
「ユリウス?」
これは自分が望んでいた事だ。でも本当にそうなのか。自分の唇を貪っているのは、モンド州公子のユリウスなのか。
トラシュは、頭の芯が痺れて何も考えられなくなりそうな自分を叱咤して何とかユリウスの体を離す。
「何のつもりで、こんな事をするんです」
「何の? あなたが望んでいる事をしてあげたのに。これ以上の事も望んでいるみたいだけど――それは、無理。だってユリウスはわたしの物だからね」
にやりと笑った顔にヒヤリとしてトラシュは、ユリウスを突き飛ばすと床に投げられていた剣を拾う。
「妖しか。成敗してやる」
「成敗? あはは面白いなあ。ねえ、トラシュ、あんたはいつ見ても楽しかったよ。純真で正義感があって」
すでにユリウスの言葉遣いではない。
印を組むその男は姿を変えた。
年寄りのローブ姿。床に着くほど長い髭。
「――導師様?」
驚くトラシュに導師はからからと笑いながら言う。
「これが最後の教えじゃ、トラシュ。これが一番言いたい事だったかもしれぬ。人はどんなに善行を積もうと誰もが幸せになれるわけじゃない。いつ、関わりの無い悪意が襲うか分からん。しかし、それが人の世。つまり」
導師は一飛びでトラシュの真横に並ぶと、首に片手を回して引き寄せる。
「おまえはババを引いたんだよ。楽しかったよ、そしてさようなら」
逃げようとする前にトラシュの胸には波打っている長剣が深々と刺さっていた。
剣を引き抜くと、崩れ落ちる男の体を足で避けて老人は反対側の窓辺を見る。
「インダラ、もういいぞ。この男を捨てて来い」
はい、と姿を現した男が軽々と床の死体を担ぐ。
「だけど、口付けるのはやりすぎですよ、バサラ様」
「だって、記憶をいただかなきゃあ。それに死ぬ前くらい何か良い事あってもいいかなあとさ」
はあ、とわざとつくため息の音がひびく。
「正体ばらした時点で良い事じゃ無くなってるじゃないですか。言い訳は止めてください。演出効果を狙ったんですね」
「分かっているなら、聞くなよ。凄い絶望的な顔をしていたよ。信じていた者に裏切られるって悲しいものだよな」
老人は、おおげさに手を広げて見せる。
「あなたにそんな経験がありましたかね? 逆なら腐るほど見ましたけど」
「インダラ、口が過ぎるよ。だってサンテラなんてわたしを裏切ってカルラに寝返ったじゃないか」
はいはい、と宥めるようにインダラは男の死体を担いで窓辺に行く。
「確かに。でもサンテラが裏切る事なんかお見通しだったでしょう? カルラ様に兄上を殺させて教典を盗ませた後、カルラ様ごと回収するおつもりだったくせに。カルラ様に経典の事を教えたのもバサラ様、あなただってことぐらい分かりますよ」
「そうなんだよ」
そうなんだけどねえ、と術を解いて元の姿に戻った男、バサラが不服そうに眉を寄せた。
「こんなに遠くへ行くとはね。ついでに結界まで張っちゃって。兄上殺害の件で強請っていう事きかすつもりだったのに。上手くいかないもんだよ。わたしはついてない」
「本当に貴方様は困った方ですよ。放っておくとどんな非道な事をしでかすか分かったもんじゃないんですから」
「それ、褒めてるの?」
「厭きれてるんです」
バサラの僕はそのまま窓の下に飛び降りて行った。




