42・ 止まらぬ想い
州城の蔵書室で本を開いていたステファンは、目を通している紙面に影が落ちたのを見て顔を上げる。
その目に映るのは華やかな色の衣装に綺麗に結い上げた髪の少女だった。
「エスペラント様。何ですか? そこに立たれると影になって読みにくいんですけど」
「だって」
ステファンの問いに答えにもならない返事を返す少女に仕方なく、本を閉じる。
「だって……何? ぼくで答えられることなら教えますけど」
「だって、もう行ってしまうんでしょう? わたし、また馬に乗りたかったのに」
ふっとステファンは笑う。
「そういう事か。いいよ、今から乗りに行く?」
「それはそうなんだけど、そういう事じゃなくて」
「じゃあ、何?」
エスペラントが何を言いたいかを計りかねてステファンは少女の顔を見上げた。その泣きそうな目を見て胸の奥がどきりと動く。
可愛いと思う気持ちはあることを指している。でも、それを自分は受け入れられない。
自分はそんな気持ちになってはいけない。
自分は、生まれてきただけで周りを不幸にしてきた禁忌の者だ。大事な人をこれ以上作る事も失うのも嫌なのだ。
「わたし、今まで結婚なんてどうでも良かったのに。相手なんて全然気にならなかったのに。今はお嫁に行くのがどうしても嫌なの」
「結婚……するのか」
結婚という言葉と目の前のエスペラントがしっくりと頭に入らない。でも貴族とはそういう物なのだろう。
自分が知っている結婚とは暖かくて親密で、頭に浮かぶのは抱き合って笑っていた両親の姿だ。それを見ている兄貴と自分。
――そうだ、ぼくはやる事がある。
自分がここにいる理由を思い出す。
復讐者だ。母や、父。そして兄の無念を晴らすためにここまで来たのだ。コーラルを殺すために今まで生きてきた。
それなら自分に言える言葉は一つしかない。
「それは――お幸せに、エスペラント様」
「ばかっ、大嫌いっ」
慇懃な態度に戻ったステファンの口調に、エスペラントは大声を出すと蔵書室を飛び出して行った。
「追いかけなくていいのか? 色男」
その声の主が大股で近づいて来る。
「どこから見てた?」
「わりと最初から。で、どうするの?」
「どうもしない。ぼくはあんたと違うよ、ウイリアム」
「あーそう。がきってこと?」
ウイリアムに一睨みを返すが、それがステファンに効いているとはとても思えなかった。
「あんたはアリスローザをどうにかしようと思ってるのか、大人の男としてさ」
皮肉交じりのステファンの視線を余裕で交わしてウイリアムが笑う。
「ははは、妬くなよ。おれは良い男だからな。黙ってても女が放ってくれないさ」
「あんた、黙ってなかったし、放っても無いじゃないか。このうそつきのおっさん」
勢いよく立ち上がりながらステファンは冷たく言うと蔵書室を出て行こうと歩く。
「いいのか? もう」
「何だよ、どいつもこいつも。人の調べ物を邪魔しといて。いいよ、もう。どうせ趣味に走ってたし」
「趣味?」
「外国の政庁の仕組みを調べていたんだ。諸外国の良い所はこれから取り入れる検討があってしかるべきだろ。今までと同じじゃうまくいかない。魔道教が支配していた時代と同じ形態では綻びが出来て当然だ。州公の蔵書に目を通すなんてめったに出来ないからな。
ついでに古文書を調べたかったんだ。古代レーン文字はなかなかやっかいなんだ。あの禿げ魔道師なら読めるんだろうが協力なんてしてくれそうにない」
ステファンの後姿を見ながらウイリアムは人は血なんて関係ないと思っていたが、自分の考えに疑問を感じる。
ステファンの考え、行動は上に立つものの物だ。ただの復讐で政庁の仕組みなぞ知る必要など無い。この策謀が成功した後の事を彼は考えている。
あいつには、レイモンドール国主の血が流れている。
――おれはどうなんだ? アリスローザへの思いに囚われているおれは。今はそんな事を考えている場合ではないというのに。
だけど、この思いを彼女に伝えたい。ただひたすらそう思っているばかなおれが、心に住んでいるのを隠しておくのはもう無理だ。
おれのほうが……よっぽど子どもだった。
「ダリウス、絶対帰って来てね」
「分かった」
簡単な挨拶二人はを返す。しかし今までと歴然とした二人を包む空気の温度の違いにその場に居た者すべてが気付く。
そしてそこに現れたアリスローザの姿に騒然となった。
濃い群青のレースが胸元と袖にたっっぷりとついたドレスを着ていた。髪も纏め上げられて真珠の髪かざりで留められ薄っすら化粧している彼女の姿は中々に衝撃的だった。
「へえ、きみは女だったんだ」
ステファンが感嘆の声を上げるのに隣の魔道師がこっそりと同意のうなずきを見せた。
「何? ウイリアム、わたしに何か言いたいのじゃない?」
「いや、つまり」
いつもの余裕を無くしてウイリアムが言いよどむ。
「あんまりアリスローザ様が綺麗なのでびっくりなさったのね。本当にお綺麗だわ、男の格好の時も凛々しくて好きだけど」
横からエスペラントが口を出す。
「嫌ねえ、そんな事ウイリアムが思っているわけないじゃないですか、エスペラント様。また、何か難癖つけようと捜しているんでしょう?」
苦笑いしながら言うアリスローザの前をウイリアムは無言で横切って行く。
「何? どうしたの」
「何も、どうしたのも、本人に聞いてきたら。アリスローザ」
ステファンが片目を瞑ってみせた。
部屋を出ると長い廊下の先にウイリアムは立っている。二人の間を強い風が吹き抜けていく。そこは外に続く渡り廊下になっていた。
「ウイリアム、何? 急に出て行くなんて」
「何で追いかけてきたりする」
「え?」
返される硬い言葉に、肩に手を触れようとしたアリスローザの手が行き場を失って下に落ちる。
「おれにそんな姿は目に毒なんだよ」
「ウイリア……」
「ああ、もう」
ウイリアムが舌打ちしてこちらに向かって来る。落とした手を反対に強くひかれてアリスローザの体は彼の腕の中に納まった。
あまりの事にアリスローザは何も出来ない。
「くそっ、黙ってようと思ってたのに。おれは、おまえの事が愛しいと三年前から思っていた」
強く抱きしめられて耳元で囁くように言う。
「わ、わたしは」
「言わなくていい。おまえはクロード様の事を忘れていない。それは分かっている。今のはおれの身勝手な気持ちだ。本当は言うつもりもなかった。でも、おれは自分に嘘をつきたくない。おまえが好きだ。ずっと、この三年間おまえの事しか見てなかった。守っていたのは言われたからだけじゃない」
身じろぎさえ出来ないほどの抱擁にアリスローザは困惑だけでない感情もあるのを自覚していた。
――クロード、今すぐ会いに来て。でないとわたし。私は……。
顎に手がかかり、ウイリアムの顔が近づいてきて。
「だめ、わたしまだ……」
「今はこれで終わりにするから。今はおれを見てろ」
強引に上を向かされてウイリアムのやや厚めの唇がアリスローザの唇に被さった。