35・ どきりとする胸
モンド州州都エリアル、その州城の広大な敷地の一角にある小宮。灰色の武骨な外観を見せる小さな城。打ち捨てられていたその城は今は綺麗に掃除され、修理され、すべての部屋が使えるように整えられていた。
大きな玄関のホールを抜けるとすぐに見えている広い部屋。そこにハーコートは落ち着いていた。目の前の長椅子には黒髪の優雅な婦人がゆったりと向かい合うように座っている。
そこへ、やって来たのはダリウスだった。
「父上、母上大変でございます。国王陛下が権を移譲されることに」
「な、何?」
「新王、コーラルの即位式の知らせが正式にサイトスからまいりました」
伝えるダリウスもハーコートもしばらく何も言えない。
「あなた、二階にいる彼らにも伝えたほうがよろしいのでは?」
妻の言葉に気を取り直したハーコートはダリウスにうなずく。
「わたしが行ってまいります」
従者を連れず、ダリウスはそのまま二階へ上がって行く。手前の戸に拳を当てると中から大柄な男が顔を出した。
「あ、ダリウス様。何です? あなたがご自分でいらっしゃるなんて」
「悪いが皆を集めてくれ、ウイリアム」
思い詰めた様子のダリウスにウイリアムも余計なことは言わず、次々と扉を叩いていく。
ウイリアムの部屋に集まった者を見回してダリウスが首をかしげる。
「ステファンはどうした?」
「あの……」
アリスローザが口に手を当てて困ったように窓の外を向いた。
「どうした?」
「ええ、先ほどハーコート公夫人とエスペラント様がいらしたんですけど。エスペラント様が馬に乗りたいと仰って」
「で?」
「ステファンが一緒に出て行ったんです」
「エスペラントめ」
大きくため息をついてダリウスは額に手をやった。
「ここは、どこだ? 馬場じゃないだろ」
ステファンは州城の外れのややうらぶれた場所に出て頭をかりかりと掻いた。
「ここでいいのよ、ステファン。ここなら遠慮無く馬が乗れるわ」
やれやれと辺りを見渡して、ステファンは並足よりわずかに速く馬を走らせる。後ろに座ってぴったり体を寄せているのは十五、六の少女だ。
彼女には前に初めてモンドの城に来たときに会ったことがある。ダリウスの妹、確かモンド州州姫エスペラント。自分の夫に会いに来た公爵夫人についてきて、部屋にいたステファンをじろりと見て話しかけてきた。
「あら、あなたアリスローザ様とご一緒にいた方ね。どうしたの?」
「どうしたっていうのは、君のお兄様に聞いてくれないか。で、ちょろちょろ動き回るのもやめていただきたい」
ステファンの言葉にエスペラントはややむっとした顔を見せる。
「ここはわたしのお城なのよ。何をしようとわたしの勝手よ。わたしは自分の思うところへどこへでも行くわ」
「そりゃまあそうだけどさ」
「ふん、分かればいいのよ。じゃあわたしを馬に乗せて」
「え……?」
少女の高飛車な態度に鼻白んで、なんでこんな事になるのか分からないまま、ステファンは馬上の自分の背後に少女をのせて州城の敷地の東の外れにいた。
「君さあ、もし、ぼくが悪者だったらどうするの? よく知らない男と二人きりになるなんて」
こうやってさと、ステファンが後ろに手を回して少女の腕を掴む。それに対して、大声でも上げるのかと思いきや、腕の中の少女は笑いながら自分を捕まえている男を見上げた。
「だってあなたは物騒な輩じゃないでしょう? そんなに強そうにも見えないし」
「ちぇっ、少しは怖がってよ。まあいいさ」
エスペラントの見せる笑顔にステファンは面白くなさそうに返すと少女の腕を自分の腰に捕まらせてを馬の速度を上げた。
「ねえ、なぜだか……前にこんな事があった気がするの」
「はあ?」
「いいから、少しだけ。ね? 少しでいいのよ。黙ってて。何か思い出しそうなの。大切な何か」
「わかったよ、少しだけだぞ」
ステファンはため息をついて馬を走らせた。柔らかい彼女のからだが背中に触れて、柄にも無く胸がどきりとした。