30・ 温い思い出
馬車はモンド州とボルチモア州の州境沿いの深い渓谷に入る。モンド州ゴート山脈に隣接する州境側はわずかな足場を残して絶壁に近い、刀で削いだような巨岩が深い谷へとそのまま落ち込んでいる。その為、この辺は関所も何も置かれてはいない。
下に目を向けると深い谷底から濃い霧が湧き上がってきて命の危険を侵して下を覗こうとしても何も見えはしないのだ。
そこへ馬車は止まった。
御者台から降りたダニアンが手に持った小刀で複雑な魔方陣を岩の上に描いていく。
その小刀には呪がかけられているのだろう。ダニアンが軽く当てるだけで岩の上に線が引かれていく。
「はい、出来ましたよ。こちらへ来てください」
ステファンが馬車から馬を放して自由にし、ウイリアムがアリスローザとハーコートと共に馬車を崖から落とす。深い深い谷が反響するおおきな物音も飲み込んでしまう。
魔方陣の中に入って目を閉じた途端に呪文が始まる。恐ろしい力で外に引っ張られそうになりながら耐える時間は、長いようで終わってみるといくらも経ってはいない。
目を開けた目前に広がる風景はさっきと少しも変わってないかのようだ。しかし、さっきとは逆に深い谷があることに気付いて、アリスローザはほっと胸を撫で下ろした。
「ここで暫く待ちましょう。使い魔を放ちましたからじき、お迎えがまいります」
ダニアンはそう言うとさっさと平らな岩を見つけて座り込んだ。
「ハーコート公様、こちらにお座りください」
アリスローザが自分のマントを脱いで岩の上に置こうとするのをハーコートが遮って自分のマントを敷いた。
「アリスローザ、座りなさい。わたしは年寄りだがまだまだ男として格好を付けさせて欲しい」
「では、ご一緒に座りましょう」
軽く背中をつき合わすように座ったためにアリスローザに大きくて暖かい背中の感触が伝わる。
――ああ、お父様。わたしの父様はこのお方みたいに出来た方じゃ無かったけど。それでもやっぱりアリスローザには大好きな父親だったのだ。
「どうした?」
「少し体を預けてもいいですか、ハーコート公様?」
「構わんよ」
ハーコートの了承の返事の後に彼の背中にかかる重み。女の身で疲れているのだと解釈して彼は体をずらして自分の背中が彼女の背中とぴったりと合わさるようにしてやる。
「少し、休みなさい」
自分の末娘の事を思い出して、ハーコートは随分と彼らに会って無いことに気付く。
三年前の出来事から大きく変わっていったものだ。自分もこの国も。
ダリウスの事が無かったら自分はクライブ陛下に最後まで仕えようと思っていたのだ。
自分の弟、前王と同じように優しく素直なクライブが心配で仕方なかった。今度は、離れまいと思っていた。疎まれてもどうなっても自分からはサイトスから出ないと決めていた。魔道師のコーラルに宰相の座を奪われても、矜持より実を取る。そう思っていたのに。
こんな事になるとは。
クライブは、陛下は大丈夫なのだろうかとそればかり気になっていた。
今越えたばかりの谷の向こう、サイトスに続く道をハーコートはいつまでも見つめていた。
その半刻ほど後、馬の蹄と馬車の車輪の音が聞こえてきた。
「父上、父上」
聞き知った息子の声にハーコートは顔を反対側に移す。その声にぐっすりと寝込んでいたアリスローザが目を覚ました。
「あ、ハーコート公様。わたしったら、申し訳ありません」
「いや、こんなおじさんの背中だったらいつでも貸すよ」
振り返ったハーコートが手を貸してアリスローザを立ち上がらせた。
「父上、ご無事で良かった」
「ダリウス、おまえが自ら迎えにくるとは。まったく自分の立場をまったく理解しておらんようだな」
小言を言いながらも顔に浮かぶのは満面の笑みだ。対するダリウスもこどものように父親に抱きついた。
「わたしは心配で、心配で。本当に良かった」
自分よりわずかに高い息子の頭をそれこそ子どものようによしよしと撫でてその後。
「挨拶は後だ。ここを早く出発しよう」
ハーコートの声を合図に馬車はゴート山脈に入って行く。
モンド州ゴート山脈は三年前までこの国の魔道教の総本山だった。広大な山脈のあちらこちらに残るうち捨てられた廟が見えた。
この最奥にあるレイモンドール国一、険しく高い標高を持つハンゲル山に母廟がある。長大な巨岩を彫りぬいた天に届くかと思われるほど大きな廟。五百年以上前、そこでレイモンドール国の創成の王、ヴァイロンが一人の魔道師と契約をした。
そこから始まった魔道で守られた国の歴史も今は昔だ。
鬱蒼と茂る緑の中を走る馬車から外を眺めてアリスローザは昔を懐かしむ温い思い出の中につかの間浸っていた。