29・ 悪魔
「それでトラシュ様は今はどうしているかご存知ですか? あの混乱の時から忽然と姿をお見かけしませんが」
魔道師の問いかけに深刻な沈黙でウイリアムが応える。
「ウイリアム?」
「州城の裏手にあいつと仲間のひとり、トーマスの変わり果てた姿が見つかったらしい。腐敗が進んでいて、だいぶ前に殺されたんだろう。おれたちがトラシュだと思っていた者は誰かが化けていたようだ」
ウイリアムは拳を固く握り締めた。
――トラシュ、おまえは最後に一体誰の顔を見たんだ。おまえを無残に殺した奴は一体誰なんだ?
心あたりならウイリアムにはある。
「そいつはきっとイーヴァルアイだ」
口の中の呟きは隣の魔道師には聞こえなかった。
そう、思ったのには勿論わけがある。
四年ほど前のモンド州、州公の長男ダリウスの成人のお祝いに州候代理として忙しい父に代わりトラシュが赴むいた。その時自分も一緒に行ったのだ。従者として行動するのはそれが最後だった。
その城内でトラシュは会ってしまったのだ。
悪魔と。
その悪魔は隣の公子の弟に成りすましていた。
――おれは不覚にもその時、美しいと、まるで氷で出来た花のようだと思った。
「ウィル、わたしは理想の人に会ったのかもしれない」
トラシュの言葉にうなずきそうになってウイリアムは、はっと我に返る。
「おい、あいつはモンド州の公子だ。それに男なんだぞ」
「ウィル、わたしが女性が嫌いな事くらい知っているだろう?」
笑いながら何を言ってるんだと言う自分の主に、ウイリアムはそれ以上何も言えなかった。
「話をしてくる、おまえも心配ならついておいで」
「おい、待てよ」
ウイリアムは、ため息をつきながらトラシュの後を追う。
自分の兄の横で愛想笑いをしているのは、亜麻色の髪を黒いリボンで結んで片側に垂らしている折れそうな細い若者だった。リボンと同じ黒い服。地味につくっているのにそれが返って彼の美貌を際立たせているのだ。
「ダリウス殿、そちらの方は弟君とお見受けしますが紹介していただけますか」
「ああ、すまない。これはすぐ下の弟でユリウスという」
「ユリウス、こちらは隣のボルチモア州の候子でこの度、州候代理でお祝いに来ていただいたトラシュ殿だ」
「はじめまして、ユリウス殿。わたしはトラシュ・ゴイル・ヴァン・ドミニクです。よろしく」
ユリウスが、ちらりと自分の兄に目をやると、ダリウスがさあ、と背中を押す。その様子にわずかに嫉妬してトラシュは伸ばされかけた手を掴んで引き寄せた。
「わたしはユリウス・ヴァン・ハーコートで――あっ」
挨拶の言葉はユリウスがトラシュに強引に手を引かれてその腕の中にすっぽり入ってしまったことで途切れてしまう。
「どうした? ユリウス」
心配そうに手を出そうとするダリウスに、ユリウスがさっとトラシュの手を振り払って体を戻す。
「いえ、失礼しました。躓いて倒れそうになったのでトラシュ様が助けてくれたんですよ」
「そんなふうには見えなかったが」
憮然とするダリウスの様子に、後ろに控えていたウイリアムは彼が自分の主と同じ気持ちを弟に抱いているのかと気付く。
そして……見てしまったのだ。その時。
あの笑いを。
にらみ合うダリウスとトラシュを見ながら浮かべていたユリウスの表情を。
あれは、同じだった。
口の端を片側だけ上げてにやりとした、その笑い。
導師と名乗った老人と同じだったのだ。
これはいけないと注意したかった。だが、なんと言えばいいのか分からなかった。
それでもあの時なんとしても引き離すべきだった。彼を疑うように言葉を尽くすべきだった。
だって――あの悪魔が……ユリウスと名乗っていた魔道師が、きっとトラシュを殺したのに決まっているのだ。
おれの主を。おれの大事な親友を。
「おれは魔道師に支配された国なんか許せない、イーヴァルアイもその僕であるコーラルも許せない、絶対」
ウイリアムの低い呟きにダニアンはわずかに目を動かしただけで何も反応はしなかった。
イーヴァルアイにそっくりな兄がいたことなど誰も知らない。それは、ユリウスではなく、バサラだと知っている人物は二人とも今は異国の地にいる。