28・ 小さなしこり
大陸の西にある大国、ハオタイ。ここの高地にある小さな市くらいの自治国。ここがベオーク自治国だ。その国には何の産業も無く、農業が栄えているわけでも無い。
といってここが、貧しい国かというとそれは裏切られるほど潤沢な資産を持っているのだ。
それはなぜか。
その国は魔道師たちだけの国だ。そこにいる使用人以外は魔道師だ。
その国はレイモンドール以外の国にいる全ての魔道師を影響下に置いている。
魔道師たちを各国に送り、助言をし、允許を与え寄進などを受ける。
各国の王はベオーク自治国の教皇の神託なしでは正等と見なされないほど頼っている。
「そのベオーク自治国の影響を受けず、独自の魔道教支配をしている国。それがレイモンドール国なんじゃ」
「なんでそんな事が……」
「出来るのか? というのか」
ふむふむと出来の良い生徒に笑顔を見せて老人は続ける。
「この国に張っている結界じゃよ。恐ろしく強くて禍々しいがな」
――この結界?
生まれた時からいつもある結界などウイリアムにとっては日常だ。海の向こうは見えないのが普通だと思ってきた。
「いくら、魔道師がいようと他の国は国主が決定権を握っている。それがどうじゃ、この国は体裁は王国だが実質は魔道教国。本当の王は魔道師の祖、イーヴァルアイじゃ」
「イーヴァルアイ?」
「そう、齢五百年以上生きている人外の者よ」
五百年以上と聞いてウイリアムは目の前の老人を唖然と見つめた。そんな事があるはずが無いなどとは思わない。
レイモンドールに住む者なら、上位の魔道師が人の寿命を越えて生きることくらい知っているからだ。
しかし、今までその上位の魔道師など自分の州の州宰、ラジムしか見たことが無かった。
そのラジムでさえ、先王の半身だったため確か、七十台に入るかどうかくらいで人としての寿命を遥かに越えているわけではない。しかも見た目は三十代初めくらい。彼はその歳から何年経っても外見は変わらないと言われてもウイリアムには実感はない。
そのイーヴァルアイなる老魔道師にしても見た目は若いのだろうか? つい、そっちの方へ思いが行っていたウイリアムを隣のトラシュがつついた。
「おい、ウィル。何、呆けっとしてる?」
「あ? え? すみません、導師様」
「イーヴァルアイに興味があるのかね、ウイリアム」
老人は目を細めてニヤリと笑った。その笑い方があまりに今までの老人の所作に似合わなかった為に、ウイリアムの背中がぞわりとそそけ立つ。
口の端を片方だけ上げて笑う老人は本当に達観した者なんだろかと思う。
しかし、その笑いも時の間に仕舞いこまれて、ウイリアムの心の隅に小さなしこりを残すだけになる。だが、そこにもっと気をつけていたなら――トラシュの運命は変わっていたのかもしれなかった。
その後、何年かの月日が流れる間に、ますますトラシュは導師の教えに傾倒していく。それをわずかに恐れながらウイリアムはどうする事も出来なかった。何がいけないのか。
何が心配なのかが言葉に出来ない。しかし、火事を知らせるような半鐘の音は、あの日からずっと鳴り響いている。
あの、導師の笑い顔を見た時から。
ある日の午後、意図していたわけでもないのに、自分の父親ボルチモア州候、ドミニクに呼び出されたトラシュは興奮を抑えきれない様子で部屋に帰ってくる。
「なあ、ウィル、父上の事をわたしは見誤っていたようだよ」
大声でそれだけ言うとウイリアムに抱きついてきた。
「おいおい、落ち着けって」
抱きつかれたウイリアムがトラシュをなんとか引き剥がして椅子に座らせる。
「どういう事か言わないとおれにはさっぱりだ」
「ああ、そうそう。そうだよな」
興奮に声が震えている。
「父上は、この国の有様を憂いておられて、わたしに魔道師をまつりごとから排す手伝いをして欲しいと仰ったんだ」
「ドミニク様が?」
あの方がそんな事を言うのだろうか。ご正道うんぬんより、自州の州庫がどれだけ潤うかの方が大事……なのかとウイリアムは正直思っていた。
それが州候として悪いわけでもない。単に私服を肥やしているわけでもない。次々と新しい施策を打ち出して、あっという間にこの北部の何の特徴もない州を豊かで住み易い州にしていったのだから。
自分の益になる事に貪欲なお方なのだ。だから自分を犠牲にしてこの国を作り変えるなどと思うとは天地がひっくり返っても無い。そう思っていた。
ウイリアムが思うようにはトラシュは思わなかったらしい。
ひねくれているように見えてトラシュはとても素直で理想にもえている。父親の言葉に嬉しくて心が通じたと喜んでいる。
それに水を差したくない。
顔を輝かせてトラシュがウイリアムを見た。
「ウィル、わたしはおまえがレジスタンス活動を指揮する中心人物になって欲しい。そう考えているんだ。やってくれるだろう?」
何でその時、おれは断らなかったんだろう。
本当におまえの父親に裏は無いのか?
何でそう、言ってやらなかったんだろう?
何でおまえの側を離れたくないと。嫌な予感がするんだと言わなかったんだろう?
だけど――その時のトラシュはとても。
とても幸せそうだったのだ。