25・ 残された二人
「どういうことかもう一回言ってみろ、ステファン」
泣きじゃくる弟をあやしながら聞く話にヘンリーは信じられないと、二度言った。だって信じたくはない話だ。
本当は自分のほうが泣きたかった。だが、目の前の弟を守るのは自分だけだ。
そう思うと涙が目の奥から前には出ていかなかった。
「なあ、お金を貰ったって言ったよな。兄ちゃんに見せてみな」
しゃくりあげながらステファンは、懐から魔道師に貰った巾着袋を取り出して兄に見せた。
「こ、これは。これは大金だ」
中をのぞいたヘンリーが呻くように言う。
金貨が五枚に銀貨が十枚、銅貨が三十枚ほど。
魔道師は当座に使うなら銅貨や銀貨のほうがいいだろうと気をまわして入れてくれたらしい。
年端もいかない子どもが金貨を持っているぐらい、不信なことはないのだから。金貨についてはゆっくりどう使うか、決めなくてはならない。
「今日は、近くの森で野宿だ。いいか、兄ちゃんがこっそり家の様子を見てくるから待ってるんだぞ」
「兄ちゃん、行かないで」
すがる弟を押し留めてヘンリーは立ち上がる。まだ、本当に全面的に信じたわけじゃなかった。自分の目で確かめたいのだ。
まさか、そんな事があるなんてと心の端でヘンリーが頭を抱えてうずくまっている。
弟の前では決して見せられない、本当の自分。
それを振り切るようにただ、走る。走っていれば最悪のことから逃れることができるというかのように。
息が切れて心臓が左右に引き裂かれるような無茶な走り方でヘンリーは走っていたがその足が急に緩やかになる。
見知った風景に――怖くなったのだ。
本当のことだったら、どうしたらいい?
走るのを止めた途端に周りの状況がいつもと違うのに気づく。大きくもない道いっぱいに何人もの人が右往左往している。
ヘンリーは自分の家のある通りの少し手前で走っている男たちの一人を捕まえた。
「何を急いでるんだ、おじさん」
「ああ? この先の鍛冶屋が火事を出したらしい。気付いた時にはもう、誰も入れないくらいに燃えちまったそうだ。類焼を防ぐ為に皆大騒ぎだ」
喚くように話す男は一息にしゃべるとそのまま走って行った。
大勢が走る中にぽつんとヘンリーは立ち尽くした。
「みな燃えてしまった? 嘘だ、父さんが火を自分で出すわけが無い」
弾かれたように急にくるりと来た道を引き返すヘンリーは何度も大声で叫んでいた。とても現場を見れなかった。
それに――火をつけた奴がまだ残っているかもしれない。やっぱり弟の話は本当だった。だって。
父さんはそんな事をしない。
父さんは絶対しない。
「いいか、俺たちは火を日常に使っているが、気を抜いたらだめだぞ。もらい火で火事になることがあっても、うちからは絶対火事を出さないんだぞ」
父さんはいつもそう言っていた。火の始末もくどいくらいしていたんだ。
「父さん、母さん……」
家の方角から離れて行くほど、涙があとからあとから流れていく。
そして大事なことを思い出す。
「……ステファン」
――そうだ、ステファン。あいつは大丈夫だろうか。
一人残してきた弟の事を思い出して、ヘンリーの涙が止まる。
あいつを守らなくては。
魔道師たちが狙っているのはステファンだ。
再び息もつかず、ヘンリーは走りに走って別れた場所を目指す。
「兄ちゃん」
森の大木の陰から飛び出す弟を抱きしめてヘンリーは心に誓った。
――こいつだけは失わない、と。
それから何年も一箇所に留まらない生活を送りながら、二人の兄弟は成長する。
いつの間にか十年近くの月日が流れたある日。
「兄貴、ぼくやりたい事が出来たんだ」
そう切り出されたヘンリーは思いもしなかった言葉を弟から聞く。
「魔道師から権力を取り返す、レジスタンス活動にぼくは加わる事にした」
「ぼくが兄貴の活動に引っ張られたんじゃない。兄貴がぼくに力を貸してくれたんだ」
ステファンは、振り払うように目を一度硬く閉じてから、話を終えた。
「それでおまえ、コーラルを倒すことが出来るのか。自分の親だろ」
困ったように問う、ウイリアムの言葉にステファンの皮肉っぽい笑みが浮かぶ。
「コーラルはたぶん、自分に子どもがいるなんて知っちゃあいないさ。ボルチモアでの出来事は若気のいたりでつい、やってしまった事。今では消してしまいたい過去だろうさ。勿論、ぼくだって奴と再会して語り合おうなんて思ってやしない」
「ステファン」
「あいつのせいでお袋も親父も、もっと言えば兄貴もぼくも酷い目にあったんだからな。ぼくの父は死んだ鍛冶屋のラッシュだ。悪いがぼくの行動の八割は私怨だ」
アリスローザの気遣うような呼びかけをすっぱりと切って、ステファンは苦々しく言うとハーコートを見る。
「だから、あなたもぼくを甥っ子のように見るなんて止めてください」
「それをおまえが望むのなら」
ハーコートが言いながら起き上がるステファンに手を貸す。
「では、出発だな」
御者台に戻ったウイリアムがムチを振り上げた。
森林地帯のボルチモア州とモンド州の州境近くに向かって馬車は向かう。しばらく響くのは馬車の車輪が地面の朽木を轢きしだく音だけだ。
「なあ、コーラルがボルチモアにいた頃おまえは何していたんだ?」
ステファンの代わりに御者台に上がった中年の魔道師にウイリアムが話しかけた。
「そりゃあ、ボルチモアにおりましたよ」
「じゃあ、さっきの話も知っていたのか」
ウイリアムの問いに顔を向ける事もなく魔道師はそっけなく答える。
「あたしはその頃まだ二十代でしたよ」
「ってことは?」
「そんな大事な事を魔道師だからという理由で誰もが知っている訳はないと言っているんです」
ダニアンの回りくどい言い方に眉をひそめながらウイリアムは隣の魔道師に向いた。
「そうだな、おまえにも若いときがあったんだよな」
ウイリアムの言葉にダニアンは大いに憤慨していたが、自分がステファンが生まれた頃からボルチモア州の州宰補佐をしていた事など話すつもりは無かった。
「あなたこそ、ボルチモアの州軍を統括しているトレンス将軍の弟という立場でレジスタンス活動なんてどういうわけです?」
「おれ?」
「そうですよ、あなたのことも謎ですよ」
「おれは不良息子だからなあ」
「そんな事は見れば分かりますよ。トレンス将軍はとても正義感の強いりっぱな方です」
ダニアンの見事な言い切りっぷりにウイリアムはそうだよなあと笑った。
――それが問題なんだよな。