23・ 悲劇の予感
「魔道師様、お薬を飲んでるの?」
おや、と慌てて瓶を後ろに隠した魔道師は相手がステファンと分かり、ほっと瓶を机に戻した。
「ああ、ステファンか。いやいやこれはお酒だよ。戒律で飲酒自体を禁止されているわけでは無いがまあ、人に見られたくない姿だから。この事は黙ってておくれよ」
魔道師にうん、とうなづくステファンは面白そうに見上げる。
「大人にはいろいろ秘密があるもんね」
「おや、良く知っているんだね」
まあね、と少年は胸を張った。それを楽しそうに見ながら魔道師はなんの気なしに聞く。
それは本当に思いつきだった。
話のとっかかりを見つけるような気持ちで。
「ステファン、きみが知っている大人の秘密って何かな?」
うーんと少し考えていた少年は、にこりと笑う。
「魔道師様、これはとっておきの秘密ですよ。ぼくの母さんの事です」
「そうかね、父さんに黙って新しい服を作る布でもこっそり買ったのかな。それとも鍋をこがしてしまった?」
「違います」
不服そうに少年は答える。
「そんな普通の事じゃないです。ぼくの母さんの名前の事です」
「名前?」
「はい、ぼくの母さんはエリナっていうんだけど、別の名前があるんです。秘密の名前。リディア・ミゼルっていうんですよ。素敵な名前でしょ」
少年の言った名前に、魔道師の持ったペンの動きが止まる。
「今、リディア・ミゼルと言ったのかい? ステファン」
その緊迫した調子の声に大きな椅子に埋もれるように座っていた少年が顔を上げる。
「はい、それが何か」
「きみはいくつになるのかな」
内心の動揺を抑えて聞く魔道師の心中など知らないステファンはにこりと笑ってあっさりと答えた。
「七歳です。ぼくは父さんの本当の子じゃないんですって。でもぼくは父さんのことが大好きなんです」
「そうか、良いお父さんで良かったね。ステファン、今日は悪いが用を思い出してね。明日またおいで」
「あ、はい魔道師様」
大人しく帰る少年の後姿を見送って魔道師はしばらく考え込んでいたが、思いきったように机から羊皮紙を取り出して印を組んだ。
姿を鳩に変えた羊皮紙がボルチモア州城に向けて飛び立って行った。
その一刻ほど後。
州宰補佐の魔道師が詰めている部屋の窓を叩く鳩のくちばしの音に、一人の魔道師が書類に向かっていた面を上げた。
窓を開けると鳩は、その手にふわりとのって一枚の紙に戻る。
「これは……」
読んだ魔道師は明らかに狼狽してきょろきょろと左右を見るとため息をついた。
「何であたしの所に知らせを持ってくるんだ。州宰のラジム様にでも知らせればいいのに」
ダニアンは不平を言いながらこれをどうするかと思案にくれる。
州宰補佐としては、ラジムに渡すのが筋なのだが。廟から来た手紙には穏便に済ませられないかとしたためられていた。
「仕方がない。ご本人に決めていただく」
廟内の金庫に保管されている竜印のペンダントを取り出してダニアンは印を組んだ。
『アルベルト! ルーファス! サイロス! 解せ、サイトスに通せ』
ぽっかりと開いた竜門に滑り込むようにダニアンは消えた。
「おまえは?」
急に現れた魔道師に首を傾げながらガリオールは問い正す。問い正してから覚えがあると頬の赤かった魔道師を思い出した。
「ボルチモアの州宰代理だったな」
妙におどおどしている割には手腕は確かな男だった気がする。
「はい、ダニアンと申します。先ほど田舎の廟からリディア様の消息について連絡がありました」
「何?」
立ち上がったガリオールが直ちに人払いをする。
「詳しく話せ、ダニアン」
「クロード様にお会いしとうございます」
ダニアンの言葉にガリオールの片眉がぴくりと上がる。
「クロード様は王の影になったばかりでサイトスの事情にも慣れておられない。こんなことで煩わすこともあるまい。話す必要は無い」
「しかし、ご自分のお子の事ですよ」
「子ども?」
ガリオールは思わず大声で聞き返してから、ゆっくりと椅子に座り直す。
「魔道師は妻帯しないし、女犯もしないというのに子どもなど出来ようはずも無いではないか。ダニアン、ここでわたしに報告して全て忘れなさい」
きっぱりと言われてダニアンのささやかな抵抗も終わる。
「わかりました。場所ですが……」
ガリオールと会ってがっくりと肩を落としながら竜門をくぐったダニアンは竜道の途中で思いがけず声をかけられた。
「ねえ、ますです君。今日は何の用だったの?」
一緒にくぐったわけでも無いのに人の竜道の中に入ってくる魔道師がいるとは思っていなかったダニアンは腰を抜かしそうになる。
竜道は使う魔道師一人一人の結界で分かれている。同じ場所に竜門を開いても前を歩いている魔道師に会うことは無い。
人の竜道に勝手に入ることが出来るほどの魔道師などほんの一握りだった。