16・ 使い魔
それから二日後。
ボルチモア州に入ったハーコート一行は予定通りの宿場町に着き、予定通りの宿に入る。
本当に何かあるのか。そう、懸念するほど何も起きない。
「ここで公には姿を消していただきます」
突然、耳元で囁かれた声に振り返る。
「お久しぶりです。ハーコート公様」
目の前にいる、宿のお仕着せを着ている女を確かにハーコートは知っていた。
「ボルチモアのアリスローザどのか」
「はい、ハーコート公様。宿の使用人はすべて我らの仲間になっております。こちらにおいでください」
「うむ」
立ち上がったハーコートは背後の気配に振り返る。そこには頭の薄い中年の魔道師が何やら呪文を唱えていた。
「ウルズ、ライゾ、マンナズ、ラグズ、カノ」
素早く結ばれる印。
直後、手にした羊皮紙に変化が起こる。
一瞬、それは燃え上がり即座に消えた。
後に残る、床に煤状になったそれが大きく揺らいで膨らむ。うねうねと延びていく二つの黒い物の先が五本に分かれて。
その間に現れえる大きな丸い物、それは人の頭か。
腕のようなそれを支えにしてその黒い物は床からおのれの体を引っ張り上げる。
それは軽く首を捻るようにして魔道師の前に立つ。
「これは? 何なのだ」
「これは貴方様の代わりでございますよ、ハーコート公様」
気味が悪そうに尋ねるハーコートに魔導師はにやりとした笑いを見せた。その間にも目の前で変化は続く。
セミの羽化のようなぶよぶよとした人型に色が付いていく。
「これは……」
「コレハ」
まねて続く声も確かに自分のものか。
ハーコートはあまりの精巧さに言葉も無く出て行くことも忘れていた。目の前にいるのはもはや、わけの分からない物体などではない。
「さあ、ハーコート様こちらに」
アリスローザの声にせかされてハーコートは部屋を出た。
「しかし、良く出来ているな。本物に見えるぞ」
足の先でつつくようにしながらウイリアムが言う。
「止めてもらえませんか、術で使い魔を操っているんですから」
「て、ことはこいつの術が解けたらどうなるんだ?」
「さて、ここを出ましょう。間諜の呪もかけておきましたからね」
「おい、さっきの返事がまだだぜ」
重ねて尋ねるウイリアムにダニアンが露骨に嫌そうな顔を見せる。
「言うんですか? 解けてしまったら、まず近場の人間は助からないでしょうね」
「何? じゃあ、代わりに斬られるなんてことになったら術が解けて大変な事になるんじゃないのか」
「斬られたって解けやしません、大丈夫ですよ」
「絶対に?」
「この世の中に絶対なんてものはありえませんがね」
縁起でも無いことをあっさりと言われてウイリアムは鼻白んだが、ここはこの魔道師に任すほかはない。
しかし、事魔術が絡むとこの魔道師はどうしてこんなに性格が悪くなるのか。普段の彼にはあり得ない事を平然と言ったり、行ったりする。
これが魔道師の胡散臭いところだ。
裏口から出入りの商人の格好に着替えたハーコートを連れ出す。人通りは少ないが顔を見られる危険は侵せない。
商人の格好をさせてもどうにも威厳のある立派な印象は隠せないのだ。急いで辻馬車に偽装した中にハーコートを案内してアリスローザは御者の男に合図を出す。
「では、出発!」
御者役のウイリアムが調子よく言ってムチを振り上げた。
首都サイトス、王の寝室にクライブは寝ている。このところ気分がすぐれず、寝込むことが多い。
気鬱のせいなのか、どうか。
頭が重く、体がだるい。
「陛下、お起きになられたのですか? 今日の分のお薬ですわ」
この半月ほど前から看病のためについている女官がすかさず、薬が入っている小さな杯を手渡す。
「サリア、薬は後にしてくれないか。どうもそれを飲むと吐き気がするんだ」
「だめですわ、ちゃんとお飲みくださらないとわたしが怒られます。どうか、少しづつでもお飲みくださいませ」
心配そうに気遣いながらも女官は杯を飲むようにしつこくすすめるのを止めない。
「わかった」
クライブはこれも彼女の仕事なのだと仕方なく杯を傾ける。そして口に広がる耐え難い味に吐き気をやっと堪えた。
「陛下、大丈夫ですか?」
サリアがクライブの口元を綿布で拭いながら背中をさする。その手のあまりの心地よさにクライブは痺れ始めた体をゆっくり倒した。
何も考えたくない。この気持ち良さの海の中にずっと漂っていたい。
目を閉じるのを確認してサリアは薬の入っていた杯を手に立ち上がると寝室を出て行く。
「陛下は薬湯をお飲みになられたか」
廊下に出たところでサリアは男に声をかけられた。
「マルト様、お飲みになりましたがあれでよろしいのですか。酷くご様子が変でしたわ」
「あれでいいのだ。おまえは黙って言う事を聞いていればいい」
冷たく言われて女官は肩を震わせて男に空の杯を渡すと下がっていった。それを見送ると男は王の執務室に入る。
「コーラル様、今日もクライブ様はお飲みになりましたよ」
「あんなに口に苦い物を欠かさずに飲むとは生真面目なものだな。自分の体調がどんどん悪くなっているのに疑いもせずに。素直なのも度が過ぎるとこっけいなほどだ」
辛辣なことを言ってこの国の宰相コーラルは笑う。
主のいない執務室を我が物顔で使っている彼は空の杯を受け取ってにこやかに手前の官服姿の男を見る。
「明日からはもう少し量を増やそうか、マルト」
ここが本当の意味で自分の物になる日も近い。