4. 「騙り」はどこで生まれるか?
今回は、語るという行為の中で「騙り」がどこで生まれるかについて考えてみる。
その前に、現段階の目的を明示しておこう。それは「騙り」を視覚化することである。「騙り」を作り、使うまでの行程を視覚化できれば、「騙り」を効率的に小説の中で機能させる方法論を構築できるだろう。要するに、これを表現したいならこういう「騙り」を入れればいい、というような一種のマニュアル作りである。こうしたマニュアル作りの延長線上に、執筆の自動化があるのかもしれない。
さて本題に入ろう。「3. 『語る』という行為のプロセス」では、語るという行為のプロセスを『環境の存在 → 観察者による環境の受容 → インプットされた情報の整理 → 情報の解釈 → 行動の決定 → 観察者による環境への働き → 環境の変化 → 環境の受容 → <以下略>』のサイクルであると仮に定義した。この中のどこかで騙りが生まれているはずである。
ひとまず具体例から探ってみよう。拙作「忘失少女は道化師の夢を見るか?」において、「騙り」が生まれたのは主人公サキが目を覚ました直後に、教師が女子生徒を「ルミちゃん」と呼んだという情報からその女子生徒の名前がルミであると解釈した時点である。つまり「情報の解釈」の段階で「騙り」が生まれている。
また以前使ったこちらの例、『対象物がリンゴであると語り部が錯覚しただけで、それは赤く塗られた梨かもしれない』という場合でも、「騙り」は「情報の解釈」の段階で起きている。インプットされた情報は間違っていないし、その後のプロセスにも問題はない。
以上のことを踏まえると、「騙り」が生まれるのは「情報の解釈」の段階であると考えてよいように思われる。
ではその他の段階で騙りは生じないのだろうか。例えば透明マントによってある箱が隠されている状況を考える。それを見た観察者は「そこには何もない」と言うだろう。だが実際には隠されているだけだ。この場合、「情報の解釈」は間違っていない。どちらかと言えば「環境の存在」によって騙りが生まれてしまっているように思われる。
しかし、これもまた「情報の解釈」で生まれた騙りではないだろうか。例えば透明マントを設置した人物からすれば、箱があることは知っているから箱はあると解釈できる。つまり情報の不足が、間違った解釈を生み出すのではないだろうか。
現実社会では、多くの観察者による解釈が常に正しいとは限らないという現象がよく見られる。例えば、ある人物の不正疑惑が明るみになると、たまに世論が擁護する側と非難する側に分かれることがある。しかしその人物と同じ分野にいる人間からすれば、それが不正であることは火を見るより明らかであったりする。これは、その分野特有の物事を見る視点があるからだ。それは不文律のようなもので、分野外の人間にはよく分からない場合が多い。このような情報を得る方法の違いが、社会における「騙り」を生み出す原因の一つとなっているのだろう。
以上のことから、本稿では「騙り」は語るプロセスのうち「情報の解釈」の段階で生まれるということにしておこう。だが他の段階でも生まれる可能性はあるかもしれない。ただし少なくとも「情報の解釈」の段階で「騙り」が生まれることは確かだと、私は考えている。
次回は、偽客観の機能論についてある程度考えがまとまってきたので、それを書いてみようと考えている。それ以降は、「騙り」の生まれる場面の整理を目指したい。今回、情報を得る方法の違いが「騙り」を生み出す一因となることを述べたが、それ以外の原因を体系的に明示することはできるだろうか?