2. 偽客観の実践についての考察
ここまで適当に書いてきたものを整理してみようと思う。自分の作品を解説するのは無粋ではあるが、いかんせん筆者は馬鹿なので、こうして文章を公にすると決めないと作ったものを散らかしてしまう。手間のかかる人間だが、ご容赦願いたい。
テーマは偽客観、つまり「客観的事実のように見えて、実際は異なる」という展開としてきた。これは前回「語るということ」で書いた、「騙り」を「語り」としてきた現実社会を描く方法の一つとして取り組んできたことである。
このパラグラフ以降の文章には作品の内容が含まれるので注意されたい。ただし私個人の考えとしては、良い作品というものは何度も繰り返し読んでも面白いものだと思う。それはつまり、作品のトリックや展開を既に知っていても楽しめるということだろう。だからこそ、拙作を未読の方にも以下の文章を読むことをおすすめしたい。損をするのは、どうせ筆者一人である。
では以下に各作品ごとの考察を示す。「語り:騙り=○:×」というのは、偽の事実を提示するのが○であり、真実を明らかにしたのが×という意味である。
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「恋は盲目、焦がれる時間」
語り:騙り=時間(主人公):語り手
<あらすじ>
時間が恋をした女性、ナラハは事故死してしまう。時間はナラハといられる時間空間を広げるために、彼女の死を回避しようと動く。だが実際は事故死ではなく、彼女がもとより計画していた自殺であった。
<考察>
時間は最後まで彼女の死の理由に気付いていない、という主観のトリックを用いた。誰であろうとも世界の全てが正しく見えている訳ではない。そこには必ず見落としがある。ゆえに主観のトリックは使いやすい。
真実を伝えるのは語り手とした。太宰治の「羅生門」や宮沢賢治の「オツベルと象」など、語り手の出てくる作品は多いと思う。だが今作は、宮沢賢治の「猫の事務所」を参考に、語り手に主張させてみた。「誰か教えてやってもいいじゃないか」という台詞は、暗に「自分は教えるつもりはない」と語り手に意思表示させることで、時間の孤独感を強調する効果を狙った。
もしかしたら、時間もそれが無駄であることを知ってはいるが、彼女が自殺するということを信じられないでいるのかもしれない。だがそれについて語り手は教えてくれない。
本作では、大事なことに気付かないまま孤独な努力を続けてしまう自己を描いた。それが無駄な努力であることを周囲は知っているのだが、それを教えてくれる友人はいない。それは地動説を唱えたガリレオのようなもので、社会における真実と個人の中の真実が相入れないとき、個人は孤独となる。それは孤独にされるのでも、孤独を選ぶのでもない。地球が太陽の周りを回るように、一般的な法則として孤独になるのである。社会が悪いわけでも、個人が悪いわけでもない。孤独から脱却する方法はただ一つ、社会における真実と個人の中の真実をすり合わせることである。それは大きな摩擦を伴うだろう。孤独と摩擦、どちらを恐れるかは本人とその環境に委ねられている。
「総合的な問題: Integrated Question = Integrated Problem」
語り:騙り=問題文:選択肢
<あらすじ>
世間で騒がれた不幸虫は、大学から流出した遺伝子組み換えホタルであることが判明する。しかし事件はそれで終わらない。そのホタルがなぜ周期的に光るのかは、誰にも分からなかった。オカルトの筋からは宇宙人原因説も出たが、調査団は付近の大学施設を疑っていた。だがそれは過去の話。現在は、それが宇宙人との出会いのきっかけ、ファーストコンタクトの前触れであったとしてテストにも出題されている。
<考察>
初めは一発ネタのような感じで書いていたが、書き進める内にテスト形式の面白さに気付いた。テスト形式には、いくつかの視点がある。問題文の中の人、本作ではA、Bそれぞれの記者の視点、選択肢の作成者の視点、そして解答者の視点である。これは他で活かせる時が来るかもしれない。
テスト形式にすることで、読み手もまた作中の登場人物のように扱うことができた。個人的には、問題形式であることが本作の肝であり、それが達成されればそれ以外の結末や展開がどうであろうともいいと思っている。なぜなら、テストというのはそれぞれが正しいと思った答えを選ぶものだからである。それぞれが問題文から読み取った、誤りを含んだ可能性のある物語があり、また正しいと思った選択肢を解答する。実際のテストには正答が用意されているが、現実世界に正答は無い。それぞれが正しいと思った選択肢を選ぶしかないのである。本作も正答はあえて設けていない。筆者の思う正答はあるが、読者が正しいと思った答えもまた正答であるからだ。
内容は、あるようであまりない。タイトルにもあるように、複数の分野に跨るテストには色々な階層の問題が含まれているということを書いてはいるが、それは至極当たり前のことである。単純な社会問題は、功名心に満ちた先駆者によってとっくに解決されているはずだからだ。
いつも残るのは複雑な問題(クエスチョン、プロブレム)であり、またそれが問題でもある。
「ホームランの原動力」
語り:騙り=記者(主人公):記者(主人公)
<あらすじ>
若き天才打者、春川がスランプになる。だがベテランの寺本がミーティングで語った言葉で立ち直る。その後、引退を発表した寺本にインタビューをした記者は、寺本がかつて野球の悪魔との契約により春川にホームランを打たせていたことを知る。一方、春川も野球の悪魔と契約して、寺本の選手寿命を延ばしていたことを記者は知った。寺本がミーティングで見せた勇気に倣って、記者は春川とも懇意になろうとするが、すでに春川の選手寿命は尽きていた。
<考察>
あまり考えずに書き始めたのが正直なところである。第1話で重要な展開は全て見せた上で、後々それを彫り込んでいくということだけは決めていた。
実は、記者の成長は後付けである。初めに記者が春川へ直接インタビューをしていないことに気付いた時は、記者のことなどてんで知らない自分のボロがでたと後悔した。だが開き直ってそれを利用したことで、逆に話がまとまったように思う。
本作では、視点を主人公に固定することで、異なる事実を目の前にした人間がどう変化するかを試した。それも結末を固定していなかった要因ではある。主人公の視点は「恋は盲目、焦がれる時間」でも使ったが、そちらとは対照的な結果になった。他人に見せない一面を持つ個人達が、直接的というよりは間接的に影響し合うことで、それぞれが悲しみと喜びをないまぜにした未来へと向かっていく姿を書くことができた。記者は寺本の姿に勇気を得て、仲の良いベテランだけでなく若手にも目を向けようとしたが、初めに挑戦した春川には断られ、彼の引退を察する。寺本は、ホームランを打たせる能力で春川の成長を妨げたのではないかと後悔しながらも、自分が勇気をもって行ったスピーチの後で、春川がホームランを打ったことを喜んでいる。春川は、悪魔との契約で寺本の選手寿命を延ばしたために引退が近いことを悟りながらも、寺本の言葉のお陰でホームランを自らの力で打てるようになった。この三者は、個人的に気に入っている。
演出としては、第2話では記者を残される側に、第3話は記者を去る側にした。第2話の内省と第3話の挑戦はあまり上手く書き分けられていないと思っているので、そこが次以降の課題だろう。
ラストの一文には少し悩んだ。初めは引退会見の内容まで書いていたが、最終的には削って一文にしてしまった。自分の中ではまだ答えは出ていない。
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こうして整理してみると、まだ取り組んでいない視点は、
① 語り:騙り=二人称:一人称
② 語り:騙り=一人称:二人称
③ 語り:騙り=三人称:一人称
であろうか。③はジョン・ル・カレの「寒い国から帰ってきたスパイ」が参考になりそうだが、他は今のところ思い当たる作品がない。②は米澤穂信の「さよなら妖精」が当てはまるだろうか。①もできなくはないが、窮屈になりそうである。
ここまでシリアス系が続いているので、次は上記のどれかの形式でコメディを書いてみようと思う。
2015/06/25 追記
取り組んでいない視点に漏れがあったので、追加する。
④ 語り:騙り=二人称:二人称
⑤ 語り:騙り=二人称:三人称
⑥ 語り:騙り=三人称:二人称
④⑤については思い当たらない。⑥はブラッドベリの「10月のゲーム」が当てはまる。
①の形式は、探偵小説に多いのではなかろうか。つまり容疑者・関係者の証言が語りであり、探偵によって騙りが暴かれる。