1. 語るということ
語ることとは、騙ることである。すなわち物語は物騙であり、語り部は騙り部である。
ただし語りという手段によって騙るという意味ではない。語るという行為そのものが、騙るという行為と本質的に同義なのである。なぜならば、語られる対象を観測して語り部が得た情報は、対象の原形を留めないからである。語られる情報は、観測を介することによって、すでに元の情報とは別の情報に変性している。
例えば、目の前のリンゴを見て「リンゴがそこにある」と語る場合を考えよう。この時、対象物がリンゴであると語り部が錯覚しただけで、それは赤く塗られた梨かもしれない。あるいはリンゴの光情報が発せられてから発音するための筋肉が動くまでの間にリンゴが消失している可能性は、否定できない。
語るという行為に観測が必要である以上、語りは騙りと切って離すことはできない。ゆえに主観的に語ろうが、客観的に語ろうが、それが騙りであることに違いはない。人間社会で正しいと騙られている事実は、当該時点における個人それぞれの観測で同じ結果が得られているというだけのことである。異なる結果が観測されれば、語りはすぐさま騙りの本性を表す。いや、より正確に言うならば、異なる観測結果は、騙りを語りに仮留めしてきた現実社会の本性を暴き出すのである。