第1話 始まりの時
ピシリッ、足下で小枝の折れた乾いた小さな音が少年を現実に引き戻した。
ここは、どこだ?
ちょうど夏休みにはいった弓道部の部活の帰り、幼なじみの兵藤 薫とともにあまりの暑さに冷たい飲み物を買って、木陰のある近くの神社で一休みしようと、その鳥居をくぐったところだった。
本来であれば、あたりには広い神社の境内が広がっており、その片隅の陰になっているベンチでコンビニで買ってきた冷たいスポーツドリンクを飲んでいる筈なのに?
それが、今少年、御堂 漣の目に映っているのは、うっそうとした樹々に取り囲まれた小さな空き地。あたりには道らしい道もなく、まわりの緑の壁は頭の上にまで広がっており、そのせいであたりは少し薄暗い。
「えっ、薫、薫っ?」
声に出して今まで共にいたはずの幼なじみの名前を呼ぶのに、あたりには何の返事もなく、自分の声も、木々の闇の中に解けて消えていくだけだった。
どこだここは?というより、なんなんだ?慌てて腕に巻いている時計に目を向ける。時刻は16時15分、部活が終わって40分といったところか。しかしその秒針はなぜか動いていない。
「携帯は?」
今時のスマートフォンではなく、今では少数派となった二つ折りのそれを慌ててポケットから取り出すも、昨晩フルに充電した筈の画面は何も映し出していない。慌てて電源ボタンを何度も押し直してみるが、それは何の反応も見せず画面は相変わらず黒いままだ。
「いったいどうなってるんだ?お〜い、薫、薫?どこだ?」
反応しない携帯をポケットに戻し、少し広くなっているその空き地の中を、2、3歩歩き出したとき、下生えの密集した小枝を押しのけて、それがゆっくりと姿を現した。
犬?いや違う、ずっと大きい。くすんだ灰色の毛並み、大きな立った耳、そして何よりうなりながらむき出しにして威圧する歯茎と鋭そうな牙。
狼?連の頭にとっさに浮かんだのはテレビの中でしか見た事のない、凶暴そうな肉食獣そのもの、それがゆっくりと空き地の中を右手に回り込んでくる。
「うそだろ? くっ来るな。」
思わず手に持っていた弓巻きに巻いた和弓を両手で構え、体の前で振り回す。しかし、弦を外した今はただの細長い棒切れでしかないそれは、到底目の前の獣に対する有効的な手段にはならず、狼もどきは一気にその距離を詰める。
「えいっ」
盲目に突き出した弓は一瞬の元に咥えられ、あっという間に連の手を離れた。
「グルルルルッ」
よだれを垂らしながら、今にも飛びかかってきそうな獣の前で少年に出来る事はただ一つ、とにかく逃げる事だった。
身を翻して、後ろの下生えの中に飛び込む。とにかく前へ、走る。小枝が顔を打ち、髪の毛が引っかかろうと、とにかく前へ足を動かす。普段より妙に速く走れているのに、気の動転している今はそれどころではない。
後ろからは、枝が邪魔をしてすぐに追いつかれはしないようだが、すぐそこから枝の折れる音と何かが追いかけてくる音が聞こえる。
「ガウッ」
突然、耳のすぐ後ろでうなり声が聞こえた瞬間、太ももを熱い物が走り、少年は大きく前にはじき飛ばされた。
「えっ?」
右足に伝わる暖かいもの、ぐっしょりと濡れる引き裂かれたズボン、狼もどきの前足にはじき飛ばされたのだと分かったとき、その相手はもう目と鼻の先にいた。そしてもう勝ち誇ったようにゆっくりとこちらへ向かってくる。
「わーっ!!」
恐怖と驚きのあまり削られた太股の痛みも感じないまま、少年は下生えの中へ飛び込んだ。とたんに感じる浮遊感。
「えっ?」
足下に着く筈の地面はそこになく、突然落下していく体の前に、少年に釣られて飛び出してきた獣がそれにつづく。少年の意識は、そこで途絶えた。
「ううっ」
頭が割れるように痛い。右足もずきずきする。体が動かない。いったいここは?どこ?
御堂 漣が思いついたのは、部活の帰り?のことだった。薫とコンビニに寄って、飲み物を買って、いつも通り神社で涼もうと、、、狼!!
そうだ、追いかけられて、逃げて、それから、、、思い出した。
どこかから落ちて、そのあとをあいつが追いかけてきて、どうなった?ここは?
顔を冷たい風がなぶり、今までの事が、急に頭によみがえってくる。漣の体が横たわっていたのは崖の途中にある小さな棚のようになっている場所であった。落ちた時、偶然そこにぶつかり頭も強打して意識を失っていたようだ。崖自体はほんの8mほどとさほど高くないが、もちろんまともに下まで落ちていたら、無事である筈はない。運が良いとしか言いようがなかった。
あいつは?高さがさほどなければ、あの獰猛な獣にとってはなんということはないはず。今でも下にいるのでは?あわてて探した漣の目に飛び込んできたのは、折れた太い枝に胴体を刺貫かれてぴくりとも動かない灰色の固まりだった。
とりあえず、傷ついた足をかばいながらゆっくりと崖をおりる。気を失っていたのは結構な時間だったらしく、狼もどきの体は既に冷たくなっており、その周囲にはあふれた血の臭いがむせ返っている。
助かった。自分の運の良さにも気づかないくらい動揺した体はほっとすると同時に力が抜け、その場にへたり込んだ。
とにかく助かった。ここまで無我夢中で体を動かして、やっと考える余裕が出てきた。
何が起こっている?あたりを見渡すと、後ろは今おりてきた崖。上はぽっかりと青い空が見えるが、目の前はまたうっそうとした森が続いている。
俺一人か?薫は?やはりあたりには人のいる気配はなく、本来であればそろそろ西日が射し始める筈なのに、太陽はまだずいぶんと高いところにあるようだ。
とにかくどこかに行かなくっちゃ。もう一度後ろの崖に登ってみて、高いところから見渡してみる?少し落ち着くと同時に、右足の太股の痛みも結構強く感じられる。さほど深い傷ではなかったのか出血の方はもう止まっているようであったが、とても後ろの高い崖を登れるとは思えなかった。
とりあえず、ちょっと休もう。そう思って背を後ろの岩壁にもたれかけた時、目の前の薮がガサガサと分かれ、再び何か大きな塊がゆっくりと姿を現した。
豚?イノシシ?全長はそれほど長くないが先ほどの獣よりもうふた周りほど太いそれは、いかにも好戦的な目つきをしていると思ったとたん、ダット横からこちらへ突進してきた。
「わっー!!」
逃げようと思わず飛び起きて走りだすも、距離が近く体をかわすまもなく横から突っ込まれ、そのまま木の幹に叩き付けられる。
助けて、誰か!!助けて!!
消え行く意識の中、漣は強くその想いを願った。
今日もたいした獲物はなかった。小さな穴ウサギが2匹と、キジバトのメス。最近以前ほどの体のキレがなく、狩りにはもっぱら弓矢を用いる事が多くなったため、こういった小物が多くなったが、キジバトが取れたのは幸運だった。穴ウサギの肉は臭いが、キジバトは美味い。おまけにメスはオスよりもずっといい。
とりあえずウサギは臭みを取るためシチューにして、、、アーロンの耳に、聞き慣れない叫び声が飛び込んできたのは、ぼんやりとそんなことを考えていた時だった。
あっちか?声からすると男性?しかもそんなに年を取っている感じではない。何か獰猛な獣に襲われたのか、それとも、、、それほど遠くはない。間に合うか?
獲物を放り出し、声の方へ走り出す。少し開けた場所に飛び出したアーロンの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
崖から少し離れた木の根元には黒髪の少年が一人。どうやら気を失っているようだ。黒髪?いやそれよりも、今目にする光景はまさかと目を疑う物だった。
大きな、大人の腰ほどもある体高をした森イノシシ、凶暴な雑食性のその生き物は、人でも襲う事をためらわない。前足をかきながら、今にも突進しそうな猛獣の正面にいたのは、それこそこの森の主の一つ灰色オオカミ。明らかに大きなその体は雄のそれであり、アーロンも出来れば森の中で相対するのは遠慮したい生き物。
しかも驚いたのはその胴体を、太い木の枝が突らぬいたままであるという事であった。
普通なら、どう考えても致命傷となる傷を負っているにも関わらず、その灰色オオカミは健全な個体と遜色のない動きで森イノシシの巨体を追いつめて行く。回り込んで牙をかわし、イノシシの太い首に噛み付き引き倒す。しかしイノシシもその巨体を生かしてオオカミを振りほどき、逆に振り飛ばされたオオカミが体制を立て直す前に突進して行き、その胸元に巨大な牙を突き立てた。
これはどう見ても勝負あった。アーロンがその光景を見た時は思わずそう思った。しかし森イノシシは次の獲物を求めて、その巨体を木の根元に横たわる少年の方へ向けた。
いかん、あの分厚い皮には自分の持つ弓矢など、気を引く程度しか役に立たない。今日は大物を狩るつもりはなかったため、槍は持たず腰に幅広の剣しかない。これで果たして通るか?足を狙えばなんとか少年を連れて逃げるくらいは、、、、
一瞬の合間に判断したアーロンは、少年とイノシシの間に入ろうと駆け出す所であった。
そのとき、さらに早く、その間に駆け込む物があった。さっきその牙につらぬかれ、明らかに致命傷を負ったはずの灰色オオカミが、まるで少年を守るように森イノシシの正面に立ち、傷など何一つ負っていないかのような動きで襲いかかった。
ばかな、さっきの一撃は明らかに致命傷。いやそれより先に、今でも胴体を貫いているあの枝は?ありえない。
そんなアーロンの思いを顧みる事なく、灰色オオカミの牙は再び相手の太い首に届き、今度は肉まで貫いたのか赤い血がほとばしる。イノシシはオオカミを振り払おうと必死で首を振るが、次第にその動きは遅くなり、やがてドウと力尽きた。
とにかく少年を助けないと。アーロンはオオカミの方に目をやりながら、そうっと少年のもとにたどり着く。大丈夫、息はしており脈もある。気を失っているだけのようだ。
オオカミの方はイノシシを倒した後、その肉を食らう訳でもなく、じっとこちらを見て襲ってはこない。
頼むから、その獲物だけで満足してくれよ。祈るような思いで、肩にかけた弓を置き、少年を背負おうとした時であった。
突然オオカミがその場で膝を折り、崩れ落ちた。
死んだのか?少年を再びそっとおろし、オオカミとイノシシの横たわる所まで行く。イノシシの方は大量の血を流し、もちろんまだその体は暖かい。
しかしびっくりしたのは、もう一つの体の方であった。
木の枝の刺さった所には毛皮に血がこびりついており、ただしそれはずいぶん前に固まった物で、先ほどイノシシに貫かれた方の傷からは少しも血が流れ出ていない。
さらに驚いた事に、たった今息絶えたはずのその死体に手を当てても、命の証である暖かみは感じられなかった。まるでずっと前に死んでいたかのように。
そして先ほどの大きな傷を一切無視したような動き。まるで、痛みすら感じないかのように。
アーロンにはしかし、その原因に思い当たることがあった。
アンデッド?
まだ気を失っている黒髪の少年の方をゆっくりと振り向いたその顔は、何か信じられない物を見たかの様であった。
初めまして、暁カンナと申します。
ネク恋、お読みいただきありがとうございます。
実はあるシーンが書きたくて始めた話なのですが、それが出て来るのはおそらく終盤、最後の最後?
ネクロマンシーという力は、悪の組織に身を置くならともかく、一般人が日頃容易く使えるたぐいの力ではありません。そのためその力を使う場面は最初のうちはあまり登場しないと思われますが、ご了承ください。
それと時々予告なしに修正がはいることもあると思いますが、どうか最後まで、よろしくお願いいたします。