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9.  カミングアウトと美酒

「お疲れさまー」


 いつも通りに冷えたビールグラスが、チンと良い音を立ててぶつかる。

 そのグラスが各々の口へと運ばれ、一気に喉を潤す。

 テレビでは、熱中症が多発していると報道されている。久子たちとて炎天下で作業をしていたわけだから、危険なのは同じこと。水分補給は大事な任務だ。

 その任務も、いつもなら喉を潤す最高の瞬間を、最高の言葉で表す三人が、今日に限って誰もが無言だ。

 久子も直子も、飲み干したグラスをじっと見つめているだけなのだ。

 開け放った窓に背を向けるように扇風機が置かれ、涼風が部屋の温度を幾分か下げてくれる。それでも、アルコールで冷えた体は、あっという間に元の暑さを思い出したかのように、汗がじんわりと出てくる。その汗が体にまとわりつく。

 いつもなら、誰かの恋の話を酒の肴に、暑さを吹き飛ばせるのだが、さすがに今日ばかりはそうも行かない。誰が最初に口火を切るのか、お互いに相手をけん制し合っている。


「分かったわよ!」


 沈み込むように黙っていた幸枝が口火を切った。すると、久子と直子の方から力が抜けたのが分かった。


「本当にぃ!気を使ってくれているんだか、野次馬なんだか、分かんない人たちだよね」


 そういう幸枝も同じことなのだ、聞きだしたいが口火を切れずにいることなどはしょっちゅうなのだ。


「彼はね・・・」


 いつに無く、静かにしゃべりだした。


「名前を木梨喜一。昔の・・・彼氏よ。ずっとずっと昔のね」


 苦い思い出がよみがえる。




 幸枝と喜一は、高校を出たての初々しい年頃だった。まだ、人を信じることしか知らない、キラキラと輝く時代。そんな時に、二人は出会った。

 その出会いは、まるで神が導いてくれたかのように、運命的だった。

 ほんの小さな出会い。偶然が偶然を呼び、二人は恋に落ちた。そして、二つの魂が重なるのに時間は掛からなかった。深く愛し合い、この愛が永遠だと信じた。

 愛する二人は、時間の全てが自分たちのためだけにあるように思えるくらいに、幸せだったのだ。

 しかし、若い二人の長きに及んだ恋愛の結末は、結婚という夢のゴールではなかった。


「何て言ったの?」


 幸枝が笑いながら、喜一の言葉を聞き返した。あまりに唐突で、あまりに信じられない言葉だった。喜一は、苦しそうに眉を寄せ、幸枝から目を背けた。いつしか雨が降り出し、車の窓に降り注ぐ雨滴が大きくなり、流れ出した。まるで、この先の展開を読んでいるかのように見える。

 幸枝は遠くを見つめた。そこには、暗い海が幸枝を呼ぶように大きく口を開けているように見える。あまりの暗さに恐怖すら覚えた。今までなら、幸枝が『怖い』と言えば、笑いながら肩を抱いてくれた。しかしその時は、たとえ『怖い』と言っても、喜一は黙っていたことだろう。それは、言葉の意味を理解できないままの幸枝でも、察することができた。


「喜一、もう一度言って」


 聞きたくないとは思うものの、聞かなければならないという思いも突き上げる。


「・・・別れよう」


 喜一の苦しそうな吐息と共に、最悪の言葉がこぼれた。 

 信じられない言葉。今の今まで、未来は輝いていると信じて疑わなかった。一緒に暮らしたら、結婚したら、二人の会話はいつでも同じように未来を語っていたのだ。

 子供は何人欲しいか。カーテンは何色にするのか。目玉焼きは半熟が好きだ。朝はコーヒーがいいな・・・。幸枝の脳裏に、今までの語らいが蘇る。


「なんで?・・・唐突過ぎるよね。結婚しようって・・・言ってたの・・・に」


 目じりが熱くなる。きっと、いつもの冗談。泣きそうになる幸枝の感情を楽しんでいるだけで、きっと『冗談だよ』と笑ってくれる。


「専務が・・・縁談を持ってきた」


 よくある話だ。上司から縁談を持ちかけられ、断れば出世は有り得ない。シンデレラボーイになるために、今の幸せを捨てる。


「だって、そんなことがあったら・・・」


 いつだったか二人で話し合った。喜一にそのような縁談が降ってきたらどうするか。その時、喜一はためらい無く、はっきりと言ったのだ。




『出世のための結婚なんて有り得ないよ。オレには幸枝という恋人がいるってはっきりと言うさ!』




 あの言葉は、偽りだったのか・・・。

 あの言葉は、幻だったのか・・・。

 あの言葉は・・・。


「オレも男だ。出世は捨てられない。せっかく道が開けたんだ。愛してるなら、オレのために喜んでくれよ」


 幸枝から目をそらしたまま、タバコに火を点けた。




『愛しているなら、喜んでくれ』




 身勝手な話だ。だが、その時の幸枝には、喜一の身勝手さを気づけないほど、深く愛しすぎていた。


「そうね・・・愛してる。あなたの為には、私はいないほうがいいのね」


 それが、精一杯の言葉だった。頬を伝う涙。ガラスを伝う雨。


「愛してるよ。オレの愛は変わらない。だから、結婚しても恋人でいたい」






―――別れよう―――



―――結婚しても恋人でいたい―――






それが、どういう意味なのか理解できないまま。喜一の愛が本物だと信じた。出世の為に身を投げ出す。それでも、喜一の愛は変わらず自分にあるのだと、愚かにも思い込んでしまった。いやそうではないだろう。そう思わなかったら、壊れてしまいそうなほど、愛していたのだ。




「そんなバカな!」


 直子が叫んだ。


「それって、体よく遊ばれただけじゃないですか!」

「そうなんだよね。それに気がつくのに、何年も掛かったわ。さすがに、不倫はできなかったから、恋人は解消したけどね」


 幸枝が苦笑いして見せた。





 喜一の結婚式は盛大に行われた。新郎の友人として、幸枝に招待状が届いた。しかし、それはあまりにも哀しく、辛い招待状だった。


「酷いわ、喜一・・・。あなたの横で、幸せそうに笑うのは、私だったはず。それなのに、他の女性と並んでいるあなたを私に見せるつもりなの?」


 誰にも明かすことのできない現実に、幾晩も涙で枕を濡らした。心は張り裂けそうで、ボロボロと崩れ、血を流す。

 時折喜一から電話があり、居留守を使おうかと思うが、どうしてもできず出てしまう愚かな自分。声を聞けば会いたい。恋人時代のように愛しあいたい。そんな思いが募り止まない。


今頃、喜一は他の女性に愛しているとささやいているのか。

今は、手をつなぎながら散歩をしているのか。

今は、一緒にベッドの中で、愛し合っているのか。

今は・・・。

今は・・・。

今は・・・。

・・・。


 このままでは、恋の炎に妬き殺されてしまう。それに気がついた幸枝は、持ち上がった縁談に飛びついた。誰でも良かった。とにかく、今の苦しみから解放されたかった。

 そして、離婚という魔の扉が待つ結婚へと進んで行ったのだった。





「可哀想・・・幸枝さんって、若い頃から強い人で、遊び人だと思っていたのに」


 直子が、口元に両手を当てて、泣きそうになりながら、言葉を発した。しかし、そのコメントは決して今のカミングアウトには、ふさわしくないものだった。


「直子、幸枝さんだって、純真なときがあったのよ。思えないけど」


 久子のフォローが入るが、フォローになっていない。


「あんた達ねー。人の苦しくも切ない過去を、そういうかぁ?」

「そりゃぁ、幸枝さんだから・・・」




 久子の横で、マグロが小さく笑った。



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