8. チョイ悪親父登場
久子の、恋にもならない恋。直子の恋。幸枝の発展の無い恋。
三つの恋の話で、つぶれ荘が華やぎ、毎晩のようにワイワイキャーキャーと騒いでいるうちに、梅雨も明け灼熱の夏がやってきていた。
木々は緑に輝き、蝉がうるさいくらいに鳴き、夏の暑さが強調される。じっとしているだけで、じっとりと汗が流れる。戸外に出ることを避け、部屋の中で扇風機に当たっていたい、と言うのが心情だろう。
しかし、そんな季節でも情け容赦なく草は伸びる。
「ということで、草むしりを結構します!」
断固として決行する意思を示す幸枝。これは、例年のことなのだ。
このつぶれ荘には、大して広くは無いが、庭があるのだ。庭には一本だけそびえるように大木が植えられている。どうして一本だけなのかと言えば、それ以上は敷地が許さないからだ。その代わりに、紫陽花の花が梅雨時期には、キレイに花を咲かせ、住人の目を楽しませてくれる。
その他の部分はといえば、何が植えられているわけでもなく、ただ地面を覆うように雑草の群れが、これでもかと言わんばかりに生い茂っている。
それらの雑草を抜き取る作業を、住人全員ですることが、例年のことなのだ。
分かっていることなのだが、暑い。
「暑いのにぃ」
久子が文句を言うが、幸枝には届かない。
「どうせ暇でしょ。明日の休日は草むしり!参加者には、もれなくキンキンに冷えたビールのサービスがあります!」
「ビールって言っても、発泡酒でしょ」
久子が笑いながら言うと、幸枝が『我らの味方発泡酒ですが、異論がありますかね?』と有無も言わさぬ、引きつった笑顔を向けてきた。
「いえいえ、異論だなんて。味方味方」
久子も直子も、大きく頷く。
それにしても、毎晩飲んでいるというのに、それでも作業の後のビール(発泡酒)は別物だ。
と言うことで、異論を唱えることが許されず、作業が結構されるのだ。
「早朝の涼しい時間がいいよね」
「そりゃぁ、炎天下で作業はしたくないですよね。日に焼けるし」
直子は日焼けの心配をしている。
「では、明朝九時から結構します。よろしく!」
幸枝の有無を言わさぬ態度に、二人は再度頷いた。
幸枝の二七歳になる息子と、直子の子供たちに召集を掛けたが、結局手伝う者はいず、三人で草と格闘することになったのだが、やはり暑い。
「九時になると、暑さも厳しくなるね」
大きな麦藁帽子をかぶり、長袖に軍手姿の直子が言う。顔はいつも以上に真っ白で、お化けのような化粧だ。
「暑いのは分かるけど、その化粧厚すぎない?」
ジーパンにTシャツ、タオルを首からぶら下げ、鎌で草を刈りながら幸枝が言った。そういう幸枝の化粧は、いつも通りなのだ。
「日に焼けたら、しみになるじゃないですか」
「UV効果の高い化粧品を使わなくちゃ。年齢に負けるわよ」
と言いながら、視線は久子に向けられる。その久子は、Tシャツに学生の体操服でおなじみのジャージ姿だ。二人の視線が向けられるその意味は、着ているものよりも、ノーメイクの顔にあるのだが。
「なんで、私を見るのよ。休みの日にまで化粧なんてしてたら、肌に悪いでしょ」
いろいろと持論があるものだ。
「肌に悪いって言ってもねぇ。新陳代謝が悪くなっているんだから、肌をカバーしないと、老後は悲惨なことになるわよ」
幸枝の鎌が、勢いよく草を切っていく。
「それより、草は抜いたほうが良くない?」
「そうですね。鎌で切れば根が残りますから、抜いたほうがいいですよね」
この会話も例年通りだ。
「抜くのもいいけどね。早く終わらせたいじゃない。ちまちま抜いてたら、終わらないでしょ」
それも一理ある。
「なるほど。だから幸枝の無駄毛処理はカミソリなのね」
久子が思い出したように言うと、
「そうなんですか!」
と、直子が驚く。
「そうなんですかって、直子はどうやってるのよ」
驚く直子に幸枝が向き直ると、
「私は除毛クリーム派です。カミソリだと、肌をいためますから」
「どこまで肌が弱いのよ。貧乏人は強靭な肌を持たないと、お金ばかり掛かるわよ」
「そうはいわれましても、体質ですから」
どんなに貧乏でも、体質を変えることは無理な話だ。
「そういう久子だって、カミソリでしょ」
「私は、自然のまま。暇があれば抜くけどね」
「自然って、生えたままですか?」
これまた直子が驚いている。
「スカート・・・はかないわね」
幸枝が異論を唱えようとしたが、日ごろの久子を思い出して止めた。
そんな三人のくだらない話を、大木の作る木陰で、体毛を風になびかせながら、マグロが聞いている。その顔は、自分は自然派かなぁっと考えているようだ。
「マグロはいいわよね。無駄毛なんて関係ないから」
幸枝が、涼しげなマグロをみて言うと、久子が『全身毛皮だから、暑いのよね』とマグロに話しかける。マグロが、聞き耳を立てたまま、目をつぶって見せた。
「全身無駄毛かもしれませんよね。無ければ涼しいのだし。いっそ、剃ってあげたら喜ぶかもしれませんよ」
これまた、直子が酷いことを言う。
「それ、いいかも!」
幸枝の眼光が光る。
「ダメ!」
当たり前の話だ。
「ダメかぁ、残念だねぇ。面白いのに」
幸枝が残念がって見せると、直子が『幸枝さんって、お茶目ですよね』と笑う。
直子にはお茶目に見えるのだろうが、久子にとっては危ない隣人以外の何ものでもない。
「本当に草が元気に育つよね。いらないって言うのに、次から次へと」
幸枝が、ダラダラと流れる汗をタオルでぬぐいながらぼやく。
「このくらい、お金が貯まればいいんですけどね」
誰もが同感する意見だ。
狭いとはいえ、そこそこある庭の雑草も、雑談の中でキレイにむしり取られようとした頃、アパートの前に一台の車が止まった。
「車が来たわよ」
久子が言うと、二人の視線が門へと向けられる。そこには、真っ白な車が止められていた。
「誰かしらね。部屋を借りたい人かしら」
幸枝の言葉に、久子も直子も、有り得ないと首を左右に振った。こんなおんぼろアパートを借りる人が、きれいに磨かれた車に乗って登場するとは、考えられないのだ。もし、それが現実ならば、よほど悪いことをして、身を隠さねばならない輩であろう。
「あんた達、自分が住んでいるアパートを、よくもそう悪く言えるわね」
確かに、そこまで卑下することも無い・・・と、言い切れないのが辛い。
エンジンが止まり、ドアが開く。
「山内さんだったりするかもよ。車買ったから、ドライブに誘いに来たとか」
幸枝が久子を茶化す。いまだに、久子は山内に心を開いていないのだ。
「断る!直子の彼氏なんじゃないの?」
「ありえません。彼は仕事ですから」
そこまで聞いていない。
直子が幸枝に言う。
「幸枝さんの彼氏なんじゃないですか?一番有り得そうなんですけど」
「あぁー、もてるからねぇ」
幸枝が笑う。確かにもてるだろうが、どこまで本気の恋心なのだと問いただしたくなる。
三人が、ああでもないこうでもないと言い合っているうちに、車の中の人が降りてきた。その姿は、ジーパンに黄色のTシャツ、爽やかなブルーカラーのシャツをジャケット代わりに着こなす、年齢を感じさせないチョイ悪親父だ。
三人とも、訝しそうにその場で立ち上がると、歩み寄る男性に視線を向けていた。男性は、サングラスを取ると幸枝に向かって、真っ直ぐに歩いてきた。
「やっぱり、幸枝だね。新しい彼氏?」
久子がヒソヒソと言うが、当の幸枝からは何も返答が無い。どんな状況でも必ず言い返してくる幸枝であるだけに、返答が無いことを不思議に思い、顔を見る。その顔は、笑顔をつくろうと頑張ってはみたものの、見事失敗に終わっているという、中途半端な表情だ。
「やぁ、幸枝さん。久しぶりだね」
チョイ悪親父が、爽やかな笑顔を幸枝に向けた。その視界の中には、幸枝しか存在していないようだ。
「私たちは見えていないみたいですね」
直子が久子に言うと、久子が頷いて見せた。
幸枝が硬直した体を、やっとの思いで動かすと、ギクシャクとした動きになっていた。
「お・お久しぶりです。お元気そう・・・ね」
最後の『ね』が消え入るほど小さい。
久子と直子は、直感的に何かあると感じ、目を合わせた。その目は、楽しいことが始まるぞと語っている。
男性が口を開こうとしたとき、幸枝が部屋へと促した。男性は小さく頷くと、久子たちに軽く会釈してアパートの中へと消えて行った。
「なかなか、いい男ですね」
今の出来事で暑さを忘れている二人は、炎天下の中幸枝の部屋の窓に目を向けた。
「どういう関係なのかしらね。幸枝があのうろたえ方って、有り得ないわよね」
「覗いてみましょうか」
「この暑さの中、窓を閉めて話はできないものね。窓の下辺りの草むしりをしてたら、覗かなくても聞こえるわよね」
「そうですね、草むしりをしてるんですから。立ち聞きとは違いますよね」
自分たちに、妙ないい訳をして窓へと近づく。
貧乏人ばかりのアパートだけに、クーラーなどという電気代のかかる代物を使っている部屋はないのだ。もちろん、大家だといっても、幸枝も同じ貧乏人である。夏の暑さは、大木が運ぶ涼風と扇風機でしのぐ。その為、窓は全開になっているのだ。
一度草取りを済ませた場所だけに、生えているのは取りきれなかった、小さな草ばかりだ。その草を指先でつまみながら、幸枝の部屋から漏れ聞こえる会話へと、全神経が向けられていく。
「この間は驚いたよ」
「ええ」
「あれから、君がどうしているのか、気にしていたんだ」
「・・・」
「元気でよかった」
「・・・こんな再会になるなんて、思いもしなかったわ」
「オレもだよ。感謝すべきなのか」
「さぁ、どうかしらね」
その会話は、いくら聞いていても真意のつかめぬ、表面的な会話で終わった。
幸枝の言動は固く、笑顔ですら作られたものであろうことが読み取れる。
もれ聞こえる話を聞きながら、二人は普段とは違う幸枝の雰囲気に奇妙なものを感じていた。そして、結論は(後で聞こう!)というものだった。
じりじりと照りつける太陽に焼かれ、吐き気を覚え始めた頃、男性が車に乗り込んだ。
幸枝は、ぼんやりと走り去る車を見つめながら、大きなため息を吐いた。