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3. おばさんと呼ばないで

 翌朝は、洗われたような空が広がっていた。

 久子はカーテンを開けると、大きく窓を開けた。早朝の澄んだ空気が室内の淀んだ空気と入れ替わる。昨夜、一人泣きながら布団にもぐり込んだことなど嘘のように、大きく伸びをすると、体中に生気がみなぎってくる。

 離婚も二度目ともなると、引きずるものが少なくなるのかと、おかしな考えが浮かんでくる。部屋の隅に置かれた大き目のクッションに丸くなっていたマグロが、ゆっくりと久子に近づいてきた。


「おはよう、マグロ。今日はいい天気になりそうよ」


 声を掛けられ、嬉しそうに尻尾を振る。


「さぁ、ご飯にしましょうね」


 二階からは、直子の子供たちの元気な声が聞こえてくる。この生活こそが、一番安らげるのかもしれない。夫に気を使い、独楽鼠のように台所で動き回る生活を幸せだと思い込んでいた。それが、今は自分のペースで動くことができる。愛犬に話しかけ、ゆったりと時間を使う。


「これこそが幸せだよね、マグロ」





 朝食を終え、ドアを開けるとマグロが玄関へと向かう。再婚前から決まったように、同じ行動を取る。玄関のいつもの場所で、外へと顔を向け、外を通る人の姿をじっと眺めて一日を費やすのだ。時々アパートの階段を上り、周囲を見回しては玄関に戻る。あるいは、玄関から出てアパートの周囲を見て回っては元の位置で座る。決して吼えることも無く、唸ることもしない。近所の子供が近づいてきても、尻尾を振って嬉しそうにしているだけの優しい番犬なのだ。


「おはよう!マグロ!」


 階段を元気に下りてきた子供たちが、マグロに声を掛ける。


「おはよう。元気ね」


 久子が子供たちに声を掛ける。


「おはよう、おばさん!」


 ランドセルを背負った少年が、言ってはならない言葉を投げてくる。


「おばさんって言うなって言ったでしょ!」

「久ちゃん、怒るとしわが増えるよ」


 これまた聞き捨てなら無い言葉を投げてくる。振り向くと、セーラー服姿の少女が笑顔を向けていた。


「葵ちゃん、独身女性にシワが増えるって事ないでしょ」


 葵は中学二年生だ。そして、今ランドセルを背負っている少年が、健太だ。わが子を失ってしまった久子には、健太と葵が可愛く、このアパートに戻ってきたことの中で、二人の子供たちの笑顔が、最も嬉しいことだった。


「独身って言っても、おばさんじゃん」


 またしても、憎まれ口をたたく健太に、拳を見せると『逃げろー』と言って玄関を出て行った。


「本当に、憎たらしいことを言うんだから・・・」


 そうは言っても、やはり可愛い。

 戻ってきて、数日たらずで打ち解けてくれた子供たちが天使に思えるのだ。まるで、自分の心の傷を分かっていて、明るく接してくれているようにさえ思えてくる。


「ちょうど、憎たらしい盛りよね」


 背後から直子の疲れた声が聞こえてくる。


「おはよう。二日酔い?」

「そうでもないけど・・・頭痛はするわね」

「あれだけ飲めば、頭痛もするわよ」


 幸枝がドアを開けて顔を出した。その姿は、いまだパジャマのままだ。


「幸枝、仕事は?」


 久子が幸枝の姿を不思議に思い、声を掛けると『遅番』と一言返ってきた。


「まだ、あそこに行ってるの?」

「そうよぉ、この歳になって転職は難しいでしょう。かといって、働かなくても食べていけるほど、家賃収入があるわけじゃないしね」


 とはいえ、久子からしてみれば、優雅なご身分なのだ。それもそのはずで、車で十分の位置にあるショッピングセンターでパート勤めなのだ。フルタイムで時間に追われながら、髪を振り乱して仕事をし、くたくたに疲れて帰る自分とは大きく違う。直子にしても、久子から見れば羨ましい限りだ。塾の経営がどのようなものなのかは分からないが、出勤は午後で、いつも小奇麗な格好をしている。帰宅は遅いようだが、子供たちに囲まれて若さを保っていられる。決して、久子のように《おばさん》ではないのだ。


「そういえば、久子。・・・老けたよね」


 唐突に幸枝が言ってきた。ついさっき《おばさん》呼ばわりされたばかりだ。さすがにショックは隠せない。


「幸枝―!ひどいよ!」

「そうねぇ、七年前の独身時代は、綺麗なお姉さんだったのに、結婚するとおばさん化するのかしらね」


 いつの間にか直子まで参戦してきた。これでは勝ち目がない。


「どうせ結婚して、老け込みましたよ。すいませんね!」

「あらー、開き直ってるよ」


 不貞腐れている久子を尻目に、直子と幸枝が盛大に笑っている。

 久子より年上の幸枝の方が、若く見えるのも癪に触るところだ。


「久子、そのままじゃ人生終わりだよ」


 幸枝が笑い終えると、更に追い討ちを掛けてきた。


「もう結婚する気もないし、男なんて要らないんだから、若くなる必要もないでしょ」


 かなりの開き直りだ。


「そう言わず。せっかく独身に戻ったんだから、美しくありたいじゃないの、ねぇ」


 最後の『ねぇ』は、直子に同意を求めているのだ。求められた直子も大きく頷いている。


「そうは言っても・・・」


 そうは言っても苦労してきたのだから、仕方が無い。好きでおばさんになったわけではないのだ。


「・・・今夜、出かけるんだけど。二人共おいでよ」


 幸枝がなにやら考えながら言葉を発した。幸枝が考えながら話しているときは要注意だ。


「私は仕事があるから。生徒の添削をしないと」

「私も止めておくよ。幸枝がそういう時は、何か企んでいるときだから、危ないわ」


 直子が噴き出した。直子も分かっているのだ。


「失礼ねぇ。企んでいるんじゃなくて、久子に時間を取り戻させてあげようと思っているんじゃない」

「余計なお世話だよ」

「見てられないでしょ。おばさん!」

「おばさんって、幸枝より若いわよ!」


 直子がこめかみを抑えながら、可笑しそうに肩を震わせ、幸枝は勝ち誇ったように、鼻の穴を膨らませていた。

 久子一人が、面白くなさそうに腕を組んでたたずんでいる。

 その光景を、下からうるさそうにマグロが見上げていることを誰も気がつかなかった。



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