20. 女神の微笑み
「春だねぇ。そろそろ、冬将軍が来るってのにね。久子の心だけ春だね」
公平が去ると、現実に引き戻すように幸枝の声が背中を叩いた。
今まで、夢の世界にいただけに、飛び上がるほどびっくりした久子だった。
「そんなに驚かないでよ。今まで、二人っきりにしてあげてたんだから」
幸枝が笑いながら、靴を履いている。
「出かけるの?」
「そう、彼とね」
幸枝が嬉しそうに笑う。
「久子も彼とデートでしょ」
鷹波公平のことを指しているのは言うまでも無い。
「そんな、社交辞令でしょ」
「社交辞令というよりは、男女の関係を無視した感じだったわね」
(幸枝もそう思ったんだ・・・)
それは、公平と話していて感じたことだった。とても自然に会話が流れ、久子も変に気負うこともなく楽だったのだが、そこには逆に男女の壁すら感じられなかったのだ。
まるで、公平にとって一番そばにいたいのが、マグロであるかのような、おかしな錯覚に陥った。だからこそ、久子自身楽だったのかも知れない。
「でも、久子が好きならいいんじゃない?彼、ちょっと変わってるけど、いい人よ」
そういうと、幸枝が玄関から出て行った。その背中を見つめながら、久子は深いため息を吐いた。
「好きなわけじゃないわよ。もう、信じないって決めたんだから。ねぇ、マグロ」
マグロが大きなあくびをして見せた。
北風が、マグロの毛を躍らせて通り過ぎていった。
約束の日が近づくにつれ、心が軽く浮き足立つ思いだった。久しくしていなかった、パックをしてみたり、爪の手入れをしてみたり、久子は少女のようにおしゃれをすることを楽しんでいた。
「違うわよ。別に、恋なんてしてないわ」
薄目を開けて上目遣いに久子を見上げるマグロに、見透かされているようで、そんなことを言ったりする。
「だって、もう誰も信じないって決めたんだもの。大丈夫よ、マグロ。安心して。マグロをいじめる人は、私が許さないからね」
マグロが、わけの分からないことを言っているというように、立ち上がると水飲み場へと移動する。もし、言葉が話せたらなんというのだろう。
「きっと、もう恋に落ちているって言うんじゃないの」
小さな玄関先に幸枝と直子が立っていた。
「あのさぁ、ノックくらいしてよ」
「したわよ。自分の世界に入ってるから、聞こえなかったんでしょ」
と言う幸枝の後ろで、直子が笑っている。
「デートは明日でしょ。応援団が来てあげたわよ」
「デートってほどじゃないわよ。散歩を一緒にするついでに、食事をするだけよ。それも安い飯屋さんで」
「その割には、しっかりと爪を磨いてますよねぇ。いいなぁ、恋するとおばさんも乙女に変身するんだから」
直子もかなり口が悪くなってきたものだ。やはり、年齢によるものなのか、それとも幸枝の教育の賜物か。
「とにかく、応援してもらうほどじゃないから、大丈夫よ」
「そんなに恥ずかしがらなくていいじゃない。山内さんには内緒にしてあげるから」
幸枝が面白そうに、山内の名前を出してきた。
「そういえば久子さん、山内さんって人がいるのに、二股ですか!」
直子が楽しそうに食らいついてくる。
「直子!幸枝も。私は山内さんとは友達なだけだからね」
「分かってますよ。本当に、真面目に反論するんだから、面白いなぁ、久子さん」
詐欺の一件から、直子の何が吹っ切れたのか、かなり言いたい放題だ。
「私より・・・幸枝だってデートがあるんじゃないの?」
何とか矛先を変えたいところだが、幸枝は『準備万端よ』っと取り合わない。やはり、一番いじりがいがあるのは久子のようで、直子も幸枝も楽しそうだ。
「彼、ちゃんと休みを合わせてくれてるんだよ。いいヤツだよね」
「でも、マグロちゃんと会いたいからじゃないんですか?」
幸枝が公平と久子の間を取り持とうと、公平のポイントを上げるネタを出せば、直子が叩きつぶしに掛かる。しかも、それが事実に近いから厳しい。
「でもさ、本当にマグロだけなら、ここに来ればいつでも玄関先にマグロが大きく伸びてるんだから、会えるじゃない。それなのに、久子を誘うと言うことはさ」
「そうか、物好きなんですね!」
「まぁ、×が二つも付いている女性に近寄ってくるんだから、物好きだとは思うけどね」
「やっぱり、マグロちゃん狙いでしょう」
「マグロを狙ってどうすると思う?」
「そりゃぁ、マグロですから。刺身にしたら、かなり美味しいはずです」
「なるほど、刺身かぁ」
黙って聞いていたら、マグロが殺されてしまう。
「ちょっと!いい加減にしてよね」
久子が笑いをこらえて、異論を唱えて見せた。
しかし、滑り出してしまった会話は際限なく続くのだった。明日のデートの応援はどこへ行ったのだろうか・・・。
翌朝は良く晴れていた。
マグロのリードを握り締め、久子は逸る心を落ち着かせながら、歩き出した。
幸枝と直子には、今朝も散々言われた。『その格好で行くのか』『どうせなら、スカートの方が良いだろう』『髪を綺麗にまとめたほうがいい』などなど。
「デートじゃないってねぇ。散歩に行くのに、おしゃれしてどうするのよね」
久子はおかしそうに笑いながら、歩き続けた。口では、二人の友の言葉を否定しながらも、やはり嬉しいものだ。どんなに冗談ばかりで、ふざけたことばかり言われても、心から心配してくれているのは分かっている。
だからこそ、どんな言葉が飛び出してきても、怒る気にはならないのだ。
「どうせ鷹波さんだって、単なる男よ。マグロに近づくのは口実で、その先は普通の男でしょ・・・って、分かっているのに・・・」
北風が足元に小さな渦を巻く。
「冬到来・・・いやな季節ね」
久子は足を止め、しゃがみこんだ。そして、マグロの顔をじっと見つめた。
『嫌な季節』とつぶやく久子の目は、マグロを見つめながら、はるか遠くに及んでいる。それは、去年の冬二度目の離婚へと秒読みが始まった時期なのだ。久子へのDVが、マグロへの暴力へと変わりだしていた時期。
それゆえ、風が冷たくなると、久子の心も冷たく硬くなるのだ。
「この季節の冷たい記憶を消すことはできないのかしら・・・」
目頭が熱くなる。胸が痛み、呼吸がし辛くなる。
「考えたらダメなんだよね」
マグロが大丈夫かと心配するように、久子の手を舐めてくる。
「大丈夫だよ。ごめんね、行こうか」
久子は立ち上がると歩き出した。歩きながら、また考えてしまう。
消したい記憶のあるこの季節に、何故自分は鷹波に会いに行こうとしているのか。一体、今から自分の人生に何が起こるのか。
(何も起こるはずないわ。彼はマグロに会いたいだけなのよ。山内さんと同じ、お友達。それが一番楽なのよね。それなら、誰も傷つかないもの)
考えながら歩き続けていたら、いつの間にか約束の場所に来ていた。
それは、運動することをメインに建設された公園だった。市民が集うために作られた公園も、木枯らしが吹き出すと、人の影が少なくなる。
人影まばらなベンチに腰を下ろし、久子の姿をじっと見つめている男性がいた。いや、それは久子を見つめていると言うよりは、近づいてくるマグロに向けられている視線のように思える。
(やっぱり、私じゃなくてマグロね)
久子はおかしくなった。分かりきっていたはずなのに、どうしてあんなにも心弾ませていたのか。それでも、公平と一緒にいる時間は、やはり楽しいのだ。吹き抜ける北風さえ、暖かく感じる。
「やぁ、待ってましたよ。今日は、飯屋の親父にもマグロを連れてくるからって言ってありますから」
「ありがとうございます」
久子はにこやかに頭を下げた。
「堅苦しいのは止めにしましょう。座りませんか?」
公平に促され、隣に座り、マグロを二人の足元に落ち着かせた。それが、マグロに会いたくて誘ってくれた相手へのせめてものお礼のつもりだった。
「マグロがいなかったら、久子さんを誘う手段が無かったんですよ。あの時は、どうやって誘うか、あのまま別れたら次のチャンスはないぞって、焦りました」
冗談なのか、本気なのか。公平は嬉しそうに久子に笑顔を向けた。
一気にまくし立てるように話された言葉は、久子に大きな動揺を与えると同時に、心は菜の花満開の花畑へといざなってくれた。
その後も公平の心地良い言葉が久子の心にシャワーのように降り注いだ。
連れて行かれた飯屋が、どんなに汚くても、またその料理が大衆向けに大皿に盛られて出てきても、店主が犬好きで油のついた手でマグロを触っても、久子は全てが夢のようで、気にならなかった。それ以上に、何も記憶に残らないくらいに、幸せだったのかもしれない。
(幸枝は一週間で恋に落ちたと言ったわ。私はどうなんだろう・・・。好きになってしまいそうな予感がするの。でも、信じたら次にくるのは別れ・・・。だから、信じたくない)
幸せになりたいという思いと、その逆に信じることへの恐怖。
どんなに抗おうと、恋の女神が久子へ微笑みかけている以上、抗い切れるものではないのだが、まだ久子は女神の微笑みには気がついていないらしい。




