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2. 傷跡

 時計が十時を回ると、直子の子供たちが迎えに来て、宴会はお開きとなった。幸枝が、久子の部屋を出て行く時に、笑いながら『久子って、六月に別れるよね』と言っていたのが妙に頭にこだました。


(そういえば、最初の離婚も梅雨になるかどうかって頃だったな。今回も同じか・・・)


 テーブルを片付けながら、人生の不思議さに思い至る。まるで、空が久子とともに悲しんでくれているように、重厚な雲から大粒の雨しずくが落ちてくるのだ。窓に流れる雨の筋は、久子の心の傷跡のように思える。

 もう二度と、こんな哀しみは受けたくないと再婚したものの、何度結婚しても同じことの繰り返しだ。

 一度目の結婚は、永遠に幸せが続くものだと信じていた。夫も優しく、一粒種の息子も愛おしかった。たまの休みには家族三人で公園へ出かけた。夫の笑顔と息子の笑顔が、久子の幸せの全てだった。

 それが、一瞬にして崩れ去るほどもろいものだとは、想像すらしていなかったのだ。

 久子は、グラスにウィスキーを入れると、ゆっくりとグラスを回すように揺らした。琥珀色の液体がグラスの中で静かに踊る。久子はなめるように、グラスに口をつけた。強い香りが口中に広がると、焼けるような熱さが喉の奥へと沁みこんでいく。グラスを置き、目を閉じる。すると、あの日の光景がよみがえってきた。





 休日の昼にも近い時間、珍しく起きてこない夫に、買い物へ行くことを告げた。


「あなたは疲れているでしょ。寝ていていいわよ」


 布団の中でまどろんでいる夫に優しく声をかけた。そう声を掛ければ、いつもなら起きてくる夫なのだ。それゆえ、その時も起きてくる事を計算しての声賭けだった。しかし、その日は起きてくることもなく、布団の中から『気をつけて行けよ』と、くぐもった声が聞こえてきただけだった。多少、肩透かしを食らった感じだったが、本当に疲れているのだからと、息子の手を引き玄関を静かに閉めた。団地の階段を下り、荷物を持ち替えた瞬間、久子の手から息子の手が離れた。小さな息子は久子の制止も聞かず、団地内の公園目指して走り出した。息子の名を呼ぶ声が、叫びへと変わるのに時間はかからなかった。

 夫が一緒に行動してくれていたら、あの日のあの事故は免れたはずだった。

忍び寄る魔の手を払うには、荷物を持ち幼子の手を引く久子一人では、できるはずもなかったのだ。

 どのくらいの時間が経ったのか、気がつけば葬儀も終わり、ぼんやりと仏壇の前に座る自分と、台所で泣きながら酒を煽る夫の姿があった。

 その日から、幸せが何なのか分からなくなった。確か、桜が咲いていたような気もする。あるいは、梅だったのか・・・。

 離婚までに時間は掛からなかった。なぜなら、夫は自分を責め続け、久子を攻め続けたからだ。責められ、耐えることができなくなった久子に残された道は、離婚しかなかった。

 空がどんよりとしていたかと思うと、突然に降り出す。雷が鳴り響き、離婚届が二人の前に置かれた。




「幸せなんて・・・儚いものよね」




 涙が頬を伝う。

 二度目の結婚など、予想もしていなかった。誰もが久子の再婚などありえないと囁きあうほどに、久子は変わってしまっていた。自分自身に鎧をまとい、誰も寄せ付けまいと、冷たいオーラを発しているようだった。

 ところが、どんなに抗っても運命を変えることはできなかった。久子の忘れようと封じ込めてきた恋心は、あっという間に燃え広がった。忘れていた恋心、忘れようとしてきた恋の炎。

 しかし七年後のその日、またしても破局を迎えようとは、誰が思ったことだろう。

 



 酔いが回ってきたのか、部屋の中が揺れだしている。小さな仏壇に飾られた息子の写真が、揺れて歪んで久子を悲しげに見つめているように見える。


「あははー、面白い。こんなに楽しいのに、アイツはお酒を飲むと文句を言ったのよねー。アイツとの間に子供ができなかったのが救いだねー、マグロー」


 マグロに話しかけると、哀れみのこもった眼差しで久子を見上げた。こうやって、久子のグチを聞き続けてきたのだ。言葉が話せたら、マグロが人間だったら、どんな風に慰めてくれたことだろう。いや、マグロでも人間になれば男だ。同じように、久子を苦しめるに決まっている。


 「お前が犬でよかったわ」


 マグロの大きな体をなでようと身をかがめると、体が大きく揺れ体制を崩した。そのまま床の上に転がる。それが面白くて、腹の底から笑いが起こった。こんなに笑えたのは久しぶりのことだ。

 二度目の離婚原因は、夫の極度の嫉妬心だった。最初は、道行く男性に目を向けたことから始まり、会社での行動を逐一報告させられた。夫が休みで久子が仕事へ行くときなどは、夫の送迎が当たり前だった。しかし、どんなに嫉妬深くても、それが愛ゆえのことならば耐えることは問題なかったのだ。久子は、今度こそは離婚などあってはならないと硬く心に誓っていたのだから。

 そんな久子の思いなど吹き飛ばすように、夫の嫉妬は暴力へと変化していった。そして、その矛先は久子のもっとも愛するマグロへと及んだのだった。殴られても蹴られても、キャンとすら声を上げることのなかったマグロ。その愛犬の姿を見て、久子がかばったときだった。マグロの脳天を打つはずだった夫の拳が、久子の眉間を捉え鮮血が噴出した。暖かいものが眉間から流れ落ち、視界が赤く染まっていく。徐々に力が抜け、意識が遠のく中で始めて聞く低い唸り声が耳に入った。声の方向へ身を向けると、今にも飛び掛らんとするマグロの姿があった。

 マグロは、久子が自分の代わりに打たれたことに始めて怒りを感じ、久子の夫へと牙を向けたのだ。しかし、そのまま放っておけば大変なことになってしまう。久子の脳裏に、血みどろの夫の姿と、人間に噛み付いた犬の末路が一瞬にして浮かんできた。久子は必死でマグロを抑えると、悲鳴に近い声で夫に怒鳴った。


「殺されたくなかったら、今すぐ出て行って!!」


 それが久子の最初で最後の抵抗だった。





「ごめんね、マグロ・・・もっと早くに別れていたら・・・弱虫なママで、ごめんね」





 久子の言葉が深い悲しみに包まれてマグロの耳に届いた。マグロは、床に転がり嗚咽する久子の頬を優しく舐めた。

 窓から見える漆黒の闇は、いつの間にかシトシトと雨の音を響かせていた。




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