19. 偶然の出会い
自分の部屋に戻った久子は、窓を大きく開けた。大分涼しくなった夜風が、酔った肌に気持ちよくなでていく。
「ねぇ、マグロ。二人とも好き放題だよね」
足元のマグロが、面倒くさそうに大きな瞳を久子に向けた。その目は『また、くだらない事を考えてるんだろう』と、さげすんでいるようにも見える。
「そんなこと無いわよ。優しそうだから、いいなって思っただけよ。もう、あんな辛いことはイヤだよ」
そういうと、マグロの頭をなでた。
「もう、信じないって決めたんだもの。男なんて信じない。みんな同じだよね。信じていい男は、マグロだけ」
マグロが『そうだよ』と言いたげに、頷いた。
「そうだよね。だから、鷹波さんとどうこうなんて考えてないよ。彼だって、付き合ってるときは優しくても、一緒に暮らしたら本性が現れるわ。人間なんて、そんなものだわ」
胸が苦しくなる。『今度こそ』そう思って結婚したことが仇となり、口の聞けないマグロが殴られ蹴られた。どんなに暴力を受けても、キャンとも鳴かなかったマグロ。その姿を思い出すたびに、心の傷が無理やり開かれるような痛みを感じる。
二度と、マグロに同じ痛みを与えたくない。あれほどの苦しみ、哀しみを与えてはいけないのだと、久子は自分に誓っていた。
「幸枝も直子も分からないんだ。二回も裏切られたら、誰も信じられなくなるものなのよね。信じることが怖いんだよ。また、裏切られる・・・」
久子の頬に涙が流れた。
秋が深まるにつれ、アパートの住人たちに大きな変化が現れてきていた。
幸枝は新たな恋をより深め、毎週のようにデートを重ねていた。その愛が本物であることを示唆するように、今までの遊び相手全員と別れ、現在の恋人一筋に定めた。その姿は、今まで見たことの無い幸枝の一途さがにじみ出ていた。久子と直子は顔を合わせると、幸枝の変化について話しを弾ませた。
直子もまた、大きな変化が現れてきていた。詐欺に合ってから、新たな恋愛を望んでいるように見せていた直子だったが、本心は仕事に没頭することで、自分らしさを磨きだしていた。本来やりたかったことにまい進するように、毎日を楽しんでいた。直子の子供たちもまた、そんな母の姿を清清しい思いで見ていた。そのせいか、直子の身辺がかつての息苦しいほどに切迫したムードから、穏やかな光に満ち溢れだしていた。
そして久子にも、大きな波が押し寄せてきていた。それは、二人の姿を見ていて、今のままの自分であることに嫌気をさしてきていた久子が、考え付いたことだった。まずは、中途半端に付き合ってきた山内と別れることだった。元々、恋愛感情の無いまま、流されるように付き合ってきただけなのだ。久子は、木枯らしが吹き始める前に、山内との関係に決着をつけた。山内としては、久子との付き合いを終わらせたくは無かったようで、友達として今後も付き合うことで了承した。
次に久子が起こした行動は、今まで静かに暮らすことばかりを考えてきたが、もっと外に出ることで自分を変えようと考えるようになった。そうすることで、塞ぎこんできた自分自身を解放しようと考えたのだ。
そうして、三人三様の秋が冬へと変わろうとしていた。
「マグロ、寒くなってきたね」
枯葉がアパートの敷地中に、敷き詰めるように舞い落ちている。時折、北風が枯葉を躍らせ冬が来たことを教えてくれる。
いつの間にやら、久子たちの洋服も、半そでから長袖へ、長袖から薄手のカーディガンへと移行してきていた。
「マグロの毛も、冬毛に変わってきたね」
相変わらず、昼間はアパートの玄関に寝そべり、警備員さながらに道行く人を目で追っている。それが日課のマグロは、今日も休日だというのに、玄関に敷かれた毛布の上に陣取ると前足にあごを乗せ、変わらぬ景色を眺めていた。
そんなマグロの横で、平日の疲れを取るように、久子がしゃがみこみマグロ同様、時々通る人の姿に目を向けていた。
「寒いね、マグロ。お部屋に入ろうよ」
久子がそう言ったときだった、マグロがクンクンと鼻を鳴らすように鳴いた。
「どうしたの?」
マグロのそのような鳴き方を聞いたのは、久しぶりだ。甘えるような鳴き方。よほど、気に入った相手にしか、見せない声だ。
一体、マグロは誰を気に入って、甘えているのか。久子は興味をそそられ、マグロの待ち望む相手を見てみたい衝動に駆られた。マグロから離れ、陰に隠れるようにして待つと、塀の切れ間から男性が姿を現し、マグロに向かって歩み寄ってきた。
「やぁ、おはようマグロ。今日も、仕事を頑張っているのかい?寒いのに偉いね」
そう話しかける男性の声は、優しく穏やかだった。マグロが甘えた声を出し、まるで話しをするように、ワゥアゥと甘えた声を出している。久子は、更に興味がわき、その男性の顔を見たくなった。暴力を受け、心に傷を持ったマグロが、心を開き甘えた話し声を出すほどの相手だ。それが一体どんな男性なのか、興味がわかないはずがなかった。
久子は影から姿を現すと、男性と始めて顔を合わせた。
「おはようございます」
ゆっくりと顔を上げると、男性は少々驚いた風を見せたが、満面の笑みを浮かべて、優しい声で朝の挨拶を返してくれた。
その男性が鷹波公平であることに気がついたのは、鷹波の笑顔が久子の記憶とフィットした瞬間だった。
鷹波はよほど動物が好きらしく、動物の話しになると笑顔が輝いてみえた。
マグロを挟んだ時間は、あっという間に流れた。幸枝から教えられた情報のほかにも、いろいろと知ることができた。
(こんなに楽しく会話ができたのは、久しぶりだわ)
久子は、鷹波公平との時間が、自分にとってかつて無いほど、穏やかで自分らしく過ごせたことを嬉しく思った。公平もまた、楽しそうに久子の話に耳を傾けた。
辺りから美味しそうな匂いが漂ってくると、公平は腕時計に目を落とした。
「あ、もう昼なんですね。すいません、いつまでもお邪魔しちゃって」
公平が立ち上がり、マグロの頭をなでる。その姿には、何の不安感も不信感も湧くことはなく、マグロはにっこりと笑っているようだった。
「気がつかなかったわ」
久子は笑って言った。
「オレも気がつきませんでした。用事があったんじゃないですか?」
「いいえ、休日はのんびり過ごしますから、用事なんてあってないようなものです」
「同じだ。オレも、休日はのんびりなんです」
「じゃぁ、午後は何をされるんですか?」
「午後は・・・なんだろう、考えてなかったな」
大きく笑う、その姿は清清しい。
久子も釣られて笑った。
「さて、これ以上お邪魔してもいけないので、退散します」
「・・・」
もっと、話していたい。そんな気持ちが湧いてくる。だが、いつも行くスーパーにある花屋の公平と買い物客の久子。その垣根を飛び越えることは、有り得ない。
(もう、誰も信じない。どんなに優しそうでも、きっと関係が深くなれば、その優しさも崩れていくに決まってるわ。だから、もう誰も信じない)
久子が心を隠すように、両手を後ろに回した。
公平が『じゃっ』と言いながら、背を向ける。すると、心にちくりと刺すものがある。
(痛い・・・)
それは、かつて恋に落ちた瞬間と似ていた。
(違う・・・もう、恋などしない)
「そうだ!」
公平が振り向き、爽やかな笑顔を向けてきた。
「オレの家の近くに、結構美味しい飯屋があるんです。今度、マグロと一緒にいきませんか?」
「え・・・飯屋・・・」
「そこ、ちょっと汚いんですけど、これがうまいんですよ。きっと、マグロも気に入りますよ。店の親父とは懇意にし
てもらってるいので、マグロを連れて行ったら、喜びますよ。大の犬好きなんです」
「飯屋・・・犬好き」
久子には、どうも飯屋という言葉にイメージがわかなかった。しかも、食堂と思われる場所に犬を連れて行ってよいのだろうか。
とはいうものの、公平の申し出に断る理由などなく、久子は満面の笑みで首を縦に振っていた。
久子の心に、軽やかな春風が吹いたような気がした。




