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16.  マグロと鷹波公平

 翌日は晴天だった。未だに夏の暑さが抜け切らない日中。その逆に、朝晩は寒いくらいにすごし易くなってきている。

 昨日の夜の事で、結局一晩中眠れなかった。あんなことぐらいで、眠れなくなるほど初心な訳ではないはずだが、どうしたことか、一晩中何かが引っかかって眠れなかったのだ。

 結局、いつもと同じ時間に布団から這い出した。


「良かったわ、今日が休日で。ねっ、マグロ」


 そう言いながら、鏡を覗き込む。そこには、疲れ果て目の落ち窪んだ中年女が写っていた。


「あぁ、恐ろしい。これが現実よね。山内さんは、私の何を見て好きだと言っているのかしらね」


 マグロが、久子のそばに来て顔を覗き込んだように見えた。そのしぐさが可愛くて、笑顔がこぼれる。


「やっぱり、マグロと一緒にいる方が幸せだね」


 テレビを見ながら軽く朝食をとり、一日がスタートする。いつもなら、休日の朝はもう少しのんびりと起きて、遅めの朝食を楽しむところなのだが、今日はいつもと同じ時間に起きたので、ゆっくりと丹念に掃除ができるというものだ。

 洗濯機を回し、部屋の隅々まで掃除機を掛ける。日ごろ気が回らない部分まで、綺麗に拭き取られた室内は、キラキラと輝いて喜んでいるように見えた。

 時計に目をやると、十時を回っていた。いつもなら、アパートの玄関で立ち話をして、解散している時間だ。部屋の外に出なかったので、今朝は幸枝と直子に会っていない。


「こんな日もあるわよね」


 久子は、マグロを見下ろすと、棚からリードを取り『散歩にいこうか』と声を掛けた。マグロが大きな体をゆっくり持ち上げると、尻尾が嬉しそうに揺れた。




 ドアを開けても、アパートは静かだ。幸枝はショッピングセンターに勤めている。そのため、勤務時間がいろいろで、さすがに把握しきれいない。ただ、幸枝の部屋から音がしてこないということは、仕事か遊びに行っているのだろうということはわかる。直子もあの事件以来、仕事の時間が増えて、ほとんど姿を見ることが無くなった。とにかく生徒を増やさないとならないらしく、駅前でビラ配りをしているかと思うと、ポスティングをしてみたり、自分でできることを、できる限り頑張っているという感じだ。そして、直子の子供たちも、そんな母親の姿を見て、姉弟で手伝っているらしい。雨降って地固まると言うことだろうか。


「気持ちが悪いくらいに静かだね」


 久子がリードを握りなおすと、アパートの外へ出た。外に出ると、暑さとは裏腹にトンボが目についた。


「もう、いい加減涼しくなって欲しいよね。夜だけじゃなくてさ。ね、マグロ」


 マグロに話しかけると、まるで頷いたように見える。犬好きでないと分からないくらいに、小さな頷きなのだが、それでも久子には十分な反応なのだ。

 久子とマグロは、辺りの景色を楽しみながら、のんびりゆっくりと歩いて、いつの間にか、幸枝の勤めるショッピングセンターまで来ていた。


「ショッピングセンターまで来ちゃったね」


 いつもなら、自転車で来る道をのんびりと考え事をしながら歩いてきただけに、アパートからショッピングセンターまでの距離が遠くは感じなかった。

 何を買うつもりで来た訳でもないが、このまま帰るのもつまらない。よく使う場所だが、たまにはベンチに腰掛けて、のんびりと歩いている人を眺めるのも楽しいかも知れない。そう思った久子は、花屋の見えるベンチに腰を下ろした。

 そこは、ショッピングセンターの中で、唯一広くスペースが取られている、買い物客が休める場所なのだ。そして、その場所に面して花屋やドーナツ屋、たい焼きなどが軒を並べている。疲れ休みついでに、甘いものを食べ、花を楽しみませんかという、店側の陰謀なのだと幸枝に言われたことがある。確かに、そこに腰を下ろしていると、たい焼きの甘い香りが食をそそる。


「マグロ、お腹すいたねぇ」


 マグロは、喉が渇いたのか、真っ赤な舌をダラリと垂らしている。


「あ!お水を持ってこなかったわ。ごめんね、マグロ・・・何とかしないと、暑くてマグロが参ってしまうわ・・・」


 マグロが辛い思いをしていると思うと、涙が出そうになる。いい年をして、こんなところで涙していたのでは、恥ずかしくて買い物に来れなくなってしまう。

 久子は、どうしたものか考えあぐねていた。ちょっと近くまでのつもりだったので、財布を持ってきていないのだ。これでは、マグロに何もしてあげることができない。トイレに行けば水はあるが、容器が無いのだ。


「どうしよう・・・」


 マグロが暑そうに、ハァハァと息を吐いている。その横で、オロオロと周囲に目をやるがどうしたらよいのかわからない。


「ごめんね、マグロ。家に帰れば涼しくしてあげられるのに。でも、このままじゃ、帰るのも辛いよね。どうしよう・・・こんなときに、幸枝に会えればなぁ・・・」


 マグロをなでては、声を掛け、立ち上がっては知り合いに会えないだろうかと、周囲へ視線を向ける。その姿は、誰が見てもおかしな行動だろう。


「どうしましたか?」


 久子は声のする方に振り向いた。そこには、エプロン姿の爽やかな男性が立っていた。


「私は、そこの花屋の者ですが、先ほどからお困りのご様子なので、声を掛けてみたのですが。お困りなら、お手伝いしましょうか?」


 丁寧で優しい口調だ。それはそうだろう、客と店舗の店員なのだから、ここで余計なことを言ったり、態度が悪くてクレームなど出されたのでは意味が無い。


「あ・・・えっと・・・」


 こんなとき幸枝ならどうするだろう。久子は、なんと言ってよいのか困ってしまった。


「ワンちゃん、可愛いですね・・・どうしたのかな、水が飲みたいのかな?」


 男性は、マグロの鼻先に手のひらを出して、自分の匂いをかがせると、ゆっくりと頭をなでた。


「何も持たずにお散歩に来てしまって、気がついたら喉が渇いているようで・・・」

「そうですか」

「お財布も持ってこなかったので、水は何とかなっても、入れる容器がないので・・・どうしたらいいのか・・・」


 語尾が消え入り、泣きそうになっているのが分かる。マグロのこととなると、全く自分でも情けないくらい弱虫になる。それもこれも、二度目の結婚でマグロが虐待されたことに起因しているのだが。


「大丈夫ですよ。おいで、水を飲みに行こうね」


 そうマグロに話しかける。その声のトーンが優しく響いてくる。どうしたことか、久子の心を和ませ、落ち着かせてくれる。

 付いていくと、きれいに洗われた植木鉢の受け皿にたっぷりの水を入れ、マグロの前においてくれた。

 最初は用心していたマグロも、満たされた水に口をつけると、すごい勢いで飲み始めた。やはり、アスファルトの熱を真近に受けているだけに、喉も渇くのだろう。


「ありがとうございます」


 久子は丁寧に頭を下げた。


(本当なら、お花を買ってあげないといけないでしょうけど・・・困ったわね)


 久子の困った顔が分かるのか、男性はにっこりと笑った。


「名前はなんていうんですか?」

「え?あ、佐島です。佐島久子」

「あ・・・私は、鷹波公平です。それで、ワンちゃんの名前はなんと言うのでしょうか」


 そこまで言われて、初めてマグロの名前を聞かれていたことに気がつき、赤面する久子だった。





 しばらく店先で話していたが、お客が来たことで、久子はその場を離れるタイミングをつかんだ。丁寧に礼を言い、頭を下げるとマグロを連れて、アパートへと歩き出した。その歩みはいつもとは違い、どこか軽やかだ。鼻歌を歌いながら歩く久子を、怪訝そうに見上げるマグロだった。

 アパートに着くと、相変わらず静かだ。まだ、誰も戻ってきていないのだろう。

 自室に入り、マグロが定位置に落ち着くと、久子は水入れに氷を浮かべてあげた。冷たくなっていく水と、氷の冷気。それらを楽しむように、マグロが笑う。嬉しいのか、尻尾を振っている。


「マグロ、今日はごめんね。でも、鷹波さんと出会えたのは、マグロのおかげよ」


 久子の胸に鷹波の優しさがしみこんでくる。これが、どういうことなのか、離婚したばかりの久子には理解できてはいなかった。



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