14. 久子のデート
直子の恋が終わって、八月のカレンダーがめくられた。
しばらく落ち込んでいた直子だったが、幸枝と久子が夕飯のおかずを差し入れしてくれたり、お菓子を子供たちにと持ってきてくれたりした。その心遣いに勇気付けられ、なんとか落ち着きを取り戻し始めていた。
「今日も天気がいいわねー」
いつものように、玄関に集合した三人と一匹。その横を、元気にランドセルを背負って、健太が通り過ぎていった。
「おばちゃんたち、行ってきまーす!」
「おばちゃんって言うなー!」
幸枝が間髪をいれずに、怒鳴った。
「こんなところで井戸端会議してれば、そう言われるよ」
笑いながら、ひらひらと葵が通り過ぎていく。
今日から新学期が始まるのだ。
「葵ちゃんの制服姿も、板についてきたわねぇ」
久子が眩しそうに、葵の背中を見て言った。
「二人にさぁ、最近おばちゃんたちがいろいろくれるのって言われましたよ・・・。ありがとう、本当に感謝してます」
直子が頭を下げた。
「大したことしてないわよ。余った物をあげてるだけだから、気にしないでいいよ」
幸枝らしい言い回しだ。それにしても、余った物というのも酷い。
「直子も元気になってよかったわ」
久子が直子を見て言った。
「はい!頑張らないと。自分の失敗を生かして、進まないと。今、生徒の募集に力を入れてますから」
「今まで、力を抜いてたのかぁ」
またしても幸枝がついてくる。
「そう言われると・・・そうかもしれませんね」
三人が大きな笑い声を上げると、マグロが何事かと顔を上げた。
「そういえば、久子は今夜デートだよね」
幸枝が久子を見た。久子もここ数ヶ月で大分垢抜けてきている。
「そうね・・・あまり、乗り気はしないけど。まぁ、いい人みたいだから」
「詐欺られないようにしてくださいね」
直子が自分のことを棚にあげて言った。
「詐欺ねぇ・・・これで、久子が同じことをしたら、袋叩きだわね」
幸枝が久子を見た。
「ちょっとぉ、何で私が袋叩きに合わないとならないのよ」
「そりゃぁ、直子の教訓を生かせなかった罰だわ」
幸枝が胸を張って言う。その格好がおかしくて、また三人で笑うのだった。
「さて、仕事に行きますか。マグロー、今日も警備頑張ってね」
久子がマグロの頭をなでると、嬉しそうに尻尾を振った。
「じゃ、私も教室に行こうかな。今日は、新しく生徒が一人入る予定なんです。まだ、見学の段階だけど、必ずゲットします!」
すごい意気込みだ。
「その気合があれば、やれるわよ!頑張ってね!」
三人が散り散りに、部屋へと入っていった。
隣町までバスに揺られて五十分。それが、久子の通勤時間だ。残暑といっても、真夏の暑さに比べれば、大分楽なのだろうが、それでも汗が滲んでくる。エアコンの冷たい空気も効果を感じないまま、バスは人を吐き出しては、次の人を乗せて進んだ。
(今日も混んでるわね・・・)
いつも通りの時間に、いつもの停留場で降り、五分も歩けば会社に着く。その頃には、気持ちは仕事へと切り替わっている。やる気スイッチというものがあるとしたら、久子のスイッチはバスから降りた、この瞬間に入るのかもしれない。
長年勤めてきた会社で、今日も定時までデスクに張り付いて、書類と格闘するのだ。
それが、久子の平日である。
(平日は暑さを忘れられるからいいのよね)
早くもクーラーの効いた室内は、天国のようだ。
久子は同僚への挨拶もそこそこに、早速書類の山へと向き直った。
仕事に夢中になっていると、時間の経つのが異様に早く感じる。その日も、いつも同様気がつけば終業時間だった。
「お疲れ様、久子さん。今日も忙しかったわねぇ」
隣に座っている同僚が声を掛けてくる。笑顔で、会話をしながらも、久子の心は山内との気乗りのしないデートでいっぱいだった。それというのも、できることなら帰りたいという思いからだ。
(どうせ会っても、食事して話して帰るだけなんだよな・・・面倒だな。会っても楽しくないし)
そんな気持ちが外に出ているのか、同僚が不思議そうな顔で久子を見ている。
久子は、にっこりと笑うと『帰ろうかぁ』と立ち上がった。
朝は、一日の始まりを楽しんでいたのに、仕事の終わった今は、逆に足が重い。いつもなら、元気にバスに乗り込み、マグロが待つアパートへと一目散に帰るのだが。
(行きたくない・・・)
これからの数時間が苦痛で仕方が無い。
バスに揺られる時間が、非常に短く感じられた。
(もっと長くてもいいのに)
バスが駅前に着くと、しぶしぶ降りる。
(何でこんなにイヤだと思いながら、私は会う約束をしているんだろう)
はっきりと、もう会わないと言えない自分がもどかしくて仕方が無い。できることなら、このまま帰りたい。帰りたいが、約束を破ることも、久子の性格では許せないのだ。
(来ていませんように・・・。どうぞ、急な用事とかで、来れないって連絡が入りますように)
と願いながら、携帯を見るが、携帯電話は無音のままだ。
(鳴るわけないか・・・)
「ごめんね。待たせたかな」
山内の声が聞こえてきた。顔を上げると、背の高い山内が、まだ明るい夕刻の暑い空気の中に佇んでいた。
(待っていたのは、あなたの方でしょ)
体中に汗をかきながら、じっとバスが着くのを待っていたのは歴然だ。久子の心が、山内の言葉を否定してしまう。それは、今まで何度も男性を信じ愛し、そして裏切られてきた久子だからこその否定なのだ。
山内がどんなに優しく思いやりのある言葉を掛けてくれても、久子には裏があるように感じられてならない。好きだと言われても、愛していると囁かれても『そんなものを信じられるほど、私は初心ではないわ。愛は、変わるものよ』と毒づいてしまう。
いつだったか、幸枝にその話しをしたことがある。その時幸枝は笑って言った。
「恋愛はね、楽しければいいのよ。どうせ愛なんて変化してくんだから、楽しみなさい。そして、終わったら次へ移ればいいのよ」
それが、×1幸枝の哲学だ。
(そうは言われても・・・好きになれなければ、楽しめないじゃない)
×2の久子は、どうしても楽しむことより先に、相手の気に入らないところを探してしまう。そして、自分には合わないと勝手に結論付けてしまうのだ。
(もう、恋なんてどうでもいいのに)
そんな久子の気持ちを分かっていないのか、山内は懸命に久子の気に入るようにと、デートコースを考え、いろいろな話題を仕入れてくる。
(つまらない話しばかり)
「お待たせしてごめんなさい。暑かったでしょう」
社交辞令が口をつく。しかし、単なる社交辞令が、山内には久子の思いやりに思えるのだ。
「久子さんは、本当に優しい人だね。その優しさが好きなんだよ」
久子が何をしても褒めてくれる。
(いつまで続くのかしらね。どうせ、猫をかぶっているだけなんだから、本性を出したほうが楽なのに)
心の中が、毒で埋まっていく。




