11. 闇
あっという間に、八月のカレンダーも終盤を迎えている。それでも、暑さは一向に引かない。
昔は、こんなに暑くは無かったとぼやきながらも、なんとかクーラーの無いまま、夏を越せそうだ。
巷では、節電だエコだと騒ぎ、どうやったら暑さを乗り越えられるかと躍起になっているが、つぶれ荘の住人には関係なかったようだ。
元々が、エコ生活なのだから、今更という感じなのだろう。
「暑いよね~」
と、誰かが言えば
「暑いって言ったら、十円罰金ねぇ」
と、小学生のような提案をする。
また、暑ければ水風呂に入り、庭には打ち水。タオルを凍らせて、首に巻いたり、保冷剤を抱きしめたりとあらゆる手を尽くすのだ。
マグロなどは毛だらけなのだから、可哀想なものだ。それでも、保冷剤をタオルで巻いて、簡易冷却シートとなる。冬は寒さ対策で久子とマグロは、くっついているのが常だが、夏はお互いに距離を置く。
暑い夜は、住人が集まり花火大会と称して、線香花火で遊ぶ。もちろん、三人は発泡酒で乾杯するのだが。
ビニールプールに水を張り、スイカを浮かせて、見た目だけでも涼しげにと子供たちと大騒ぎもした。
今年も、結構楽しい夏だった。
「何を物思いにふけっているの?」
楽しかった夏の思い出に浸っていただけに、急に声を掛けられて、飛び上がりそうになるほど、びっくりした幸枝だった。
「そんなに驚いたの?幸枝ちゃんらしくないねぇ。いつも、クールなのに」
ハンドルを握りながら、吾妻俊夫が笑った。俊夫は、目下のところ幸枝の彼氏だ。幸枝からしてみれば、金離れの良い俊夫は、財布代わりだというのだが。
その俊夫と、久しぶりのデートなのだ。ここのところ、他の男性と楽しむことに忙しく、俊夫に会う時間がなかった。それだけに、俊夫としては久しぶりのデートを、どんな風に過ごそうかと、楽しい計画に胸躍らせていたらしい。
しかし、その計画も幸枝のわがままに振り回されて、計画倒れになってしまった。
それでも、俊夫は文句ひとつ言わず、常に笑っていた。なぜなら、幸枝のそういった、わがままな性格が好きだからなのだ。
「考えに集中してたから、びっくりしただけよ」
幸枝がちょっとムッとしながら答えると、俊夫は嬉しそうに答えた。
「そうかぁ、そりゃぁお邪魔しちゃったねぇ。でもね、幸枝ちゃん。楽しんでいるところを悪いけど、現実に戻ってきてくれないかな」
「あら、何でかしら?」
「何で・・・か。そうだねぇ、これからどうするかを考えないとならないだろう」
ならないだろうと言われても、幸枝としては、このまま帰宅しても一向に構わないのだ。
「何か美味しいものでも食べに行くかい?それとも、お酒をメインに楽しめるところにいこうか?」
どちらでも構わないが、美味しいところじゃないと腹が立つ。もちろん、こんなわがままも相手によって代わるのだ。相手の年齢や性格に合わせて、自然とどんな女王様に変身するかが決まってしまう。それが、幸枝の能力なのだろう。
「そうねぇ、お酒を楽しめて、食事も美味しいところがいいわね」
窓に顔を向け、まだ明るい夜をぼんやりと見ていた。
車は街中へと向かっているのか、窓外には見慣れた店が並び始めていた。このまま進めば、駅へと入っていく。駅近辺なら、少しはまともな食事を楽しめる店もあるだろう。
幸枝は、納得しながら駅周辺の人の波に目を向けていた。波と言っても、都心から三十分だ。しかも、誰もが知っているような大きな駅ではなく、駅名を言えば『それは、何県にあるの?』と聞かれるほど知名度が低い。
「駅前のビルに、新しい店ができたんだけど、そこに行って見ようか?」
俊夫が楽しそうに、幸枝に問いかけた。幸枝としては、どこでも構わないのだから、お伺いを立てられるのも面倒なのだ。
「美味しければ、どこでもいいわよ」
とはいっても、食べてみないと分からない。
幸枝は、駅に立つ一組の男女に目を向けた。それは、直子によく似ていた。さすがに、友達に似ていれば、意識も集中してしまうものだ。ご他聞にもれず、幸枝の神経も直子によく似た女性に集中された。しかし、車はお構いなしに通り過ぎようとしている。
「止まって!」
急に幸枝が叫んだ。
「どうしたの?」
車を路肩に止め、幸枝の視線を追いかける。
「あの女の人?」
「うん、うちの住人に似てるから」
「男の人と一緒だね。向こうもデートかな」
確かに、男性がそばにいる。
が、おかしい。何がおかしいのかは分からないのだが、幸枝の直感がおかしいと告げているのだ。だが、直子は満面の笑みで幸せそうなのだ・・・。
「変ねぇ・・・」
「何が変なの?幸せそうに笑っていると思うけどなぁ」
俊夫がタバコに火を点けると、幸枝が窓を開けた。
「なんとなく、違うのよ・・・」
「そんなに気になるのかぁ」
俊夫が、ゆっくりとタバコの煙を吐きながら『こりゃぁ、長期戦かな』と呟いた。
幸枝の目は、じっと直子に注がれていた。
直子は、川俣直行からの電話に嬉しさが隠せなかった。
半月ぶりに会う直行は、着古したアロハシャツに洗いざらしたジーパン、スニーカー姿だった。伸びた髪を後ろに束ね、開けた胸元からは金のネックレスが見え隠れしている。その姿だけを見れば、決して四十歳という年齢には見えない。
直子が今まで付き合ってきた男性は、見た目も内面もしっかりと整った、真面目を絵に描いたようなタイプだった。
直子自身、服装が乱れていたら、内面も乱れているという持論がある。
それなのに、なぜ直行のような服装の乱れた男性と出会い、付き合うことになったのか。それは、直子自身不思議だった。
出会いなんて、偶然が重なって起こるもの。直子と直行の出会いも、偶然が重なって起きたのだ。それは、本当に小さな偶然だった。
最初は、だらしない風体を訝しく思った直子だったが、話していくうちに、直行の優しさと明るく楽しい性格、見た目とは不釣合いな知識の豊富さに魅了されていった。
いつだったか、友人が言っていた。
『人は見かけじゃないのよ』
ようやっと今、その意味が分かってきたのだ。
直子は、あっという間に恋に落ちた。
塾の経営上、辛いことや苦しいことがあると、直行に相談した。子供のことで困ったことがあると、直行の優しさが欲しくて電話した。そうやって、どんどん彼の優しさと思いやりに惹かれ、盲目的な恋へと導かれていったのだった。
だから、どんな無理も直行のためなら聞いてあげたいと思うのだ。
直子と直行は、できるだけ人の目に触れないように、建物の影へと入っていった。直行に肩を抱かれながら、建物の影へ連れて行かれると、鼓動が早くなる。これから、起こる熱いキスを思い描いてしまうのだ。教職についていながら、なんと不謹慎なことだろうと、自制心が頭をもたげるが、直子も女だ。愛する直行に身を任せたいと思っても、不思議は無いだろう。
(このまま、彼とずっと一緒にいたいなぁ・・・)
直行の肩に頭をもたせ掛け、直子は幸せを感じていた。
建物の影に入り、人から見えない位置に来ると、直行は直子から体を離した。
「それで、頼んだやつは持ってきてくれたかい?」
「それが・・・」
直子が慌てて、バックから封筒を取り出した。
「ずいぶん薄いね」
直行は、封筒を手にすると、中を確かめてみた。
「頼んだのと違くないか?」
「そうなんだけど・・・」
「必ず返すって言っているだろう。何を心配しているんだよ」
「・・・それで、全部なのよ。子供のための貯金も、塾の運転資金も全部渡したのよ。銀行からも借りたわ。もう、これ以上・・・直行の言うとおりの金額は無理なの」
「・・・」
直行が胸ポケットからタバコを出すと、火を点けた。段々と暗くなりだしている中で、ぼんやりとタバコの赤い火が、苛立ちをあらわにしている。
直子は、直行の苛立ちを感じ、自分が怯えていることに気がついた。
なぜ怯えているのか。それは、かつて別れた夫から受けた暴力が原因だ。
夫は自分が思い通りにならないと苛立ち、直子に当たった。どんなに謝っても、許されることは無かった。
会社でうまくいかないと言っては、直子に八つ当たりし、子供がうるさいといっては、直子を殴った。直子が謝れば謝るほど、夫は歯止めを失った悪魔のように、直子に拳を振るったのだ。
そして今、あのときのことが蘇ってきた。
「あの・・・直行・・・」
「あの金がないとさぁ、オレの事業が回らないわけよね。分かるか?」
直行が、直子の目を見つめて、静かに語りだした。しかし、その語り口調は、有無を言わせない身勝手さが潜んでいる。
「お前は、塾の先生だから頭がいいと思っていたのに、こんなことも分からないなんて。本当は、バカなんじゃないのか?」
そう言いながら、直子の頭を人差し指でコンコンと突いた。
全身に震えが走った。
「オレの仕事がうまくいけば、お前と結婚できるって言っただろう。そうしたら、お前が貸してくれた金は何倍にもなって、戻ってくるんだよ。あんな小さな塾なんかじゃなくて、大きな塾に建て直してやるよ。オレに任せろよ」
直行が直子の体を強く抱きしめた。
「いいか、直ぐに元は取れるんだ。オレを信じて、全部オレに任せればいいんだよ。必ず、幸せにするから」
さっきまでの、恐怖を打ち消すように、優しく穏やかに、包み込むように話しかけてくる。その声は甘く、直子の耳を刺激する。
(そうだ、この人を信じていれば間違いはないの・・・今までの辛いことも、もう一人で悩んだり苦しんだりしなくて済むのよ・・・)
直子の心にするりと入りこむ直行。
「じゃぁ、明日。この時間に、ここで待ってるから、三百万持って来てくれよ。愛してるからな」
(三百万・・・借りられるところは全て借りたのに、もうこれ以上借りるところなんて・・・)
「そうしたら、オレの仕事は必ず回る。その金があれば、必ず回るんだ。そうしたら、結婚しよう」
(結婚・・・。でも、もう借りるところはないわ・・・)
目を上げると、直行がじっと直子を見つめていた。その目は、決して直子を裏切るはずのない真剣な眼差しに見えた。そして『明日までには、ちゃんと用意してきてくれよ』と言っているようだった。
直子は小さなため息を吐いた。
夏の夜が、全てを消してしまうように、闇が直子と直行の姿を暗闇に消していった。




