1. 再会
離婚した女性たちが繰り広げる恋愛事情。
それぞれが、それぞれの立場で、未来を夢見て生きていきます。
あなたは誰を応援しますか?
「かんぱーい!」
威勢よく頭上にもちあげられたグラス同士がぶつかり合う。蛍光灯の光の下でキラキラと透明な液体が輝く。その液体が、次の瞬間には口元に運ばれ喉に潤いを与える。
「うまーい!」
最初に叫んだのは田代幸枝だった。
「それにしても、帰ってくるとは思っていたけど、本当に帰ってくるとはねぇ」
テーブルにひろげられたポテトチップをつまみながら、幸枝が佐島久子を見た。
「もう幸枝それ何度目よ。いい加減、嬉しくないよ」
久子が横目で幸枝を軽く睨むと、グラスを口に運びかけた平山直子がクスッと笑った。
田代幸枝、佐島久子、平山直子。
三人はそれぞれの人生を必死に生きてきた。そして、それぞれが【結婚→独身】というプロセスを踏んだ仲間なのだ。
ただ違っているのは、幸枝と直子が×1なのに対して、久子は今回が二回目ということぐらいだろう。そして、その二回目の結婚も終わりを告げ、またしても独身へと戻り、離婚三人組が結成されたわけだ。これを祝わずに何を祝うのだろうか。とは言うものの、久子が出戻ってきて、数週間が経過しようとしている。
「分かってはいるんだけどねぇ。あれは酷かった、ヤキモチ妬き過ぎだったよね。犬にまでヤキモチ妬くって、異常じゃない」
幸枝が久子の隣で静かに横たわっている犬に目を向けた。犬は自分のことを言われていると察っしたのか、大きな目を幸枝に向けて、小首を傾げて見せた。その体は、中型犬にしては大きく全身茶色の毛に覆われている。鼻先は長く、あくびをすると口を大きく開く。その口で噛み付かれたら、どんなにたくましい腕でも、食いちぎられるのではないかと思われるほど、鋭い牙が並んでいる。
「本当よね、こんなに可愛いのに。それなのに、殴ったりするなんて・・・可哀想に・・・ねぇ、マグロちゃん」
久子がマグロちゃんと言いながら、犬をなでると嬉しそうに尻尾をふるのだ。
「それにしても、マグロなんて変な名前ですよね」
直子がコップを頬に当てながら、久子に言た。そのしぐさは、アルコールでほてった頬の熱を取るためなのだろうが、どこかしどけなさを感じさせる。三人の中では一番若く、四三歳の若さでありながらも、塾を経営しているため、きりっとした冷たさを感じさせる。仕事に厳しく、間違ったことを許さないというような強さにも見える。
その反対に久子は、見た目はしっかり者に見えるが、本質的には極度のさびしがり屋で依存心が強い。その為、一人になった今も犬と同居しているのだ。
「マグロはねぇ・・・」
マグロの由来を話そうとすると、幸枝が割って入ってきた。
「そりゃぁ、マグロが食べたかった時に拾った犬だからよねぇ」
幸枝は、おかしそうにクックッと笑いながら髪を五本の指で梳いて見せた。一番の年長である幸枝は四八歳、男性的な性格で、物事をはっきりと言い切るところがある。本人は相手の気持ちを考慮して会話をしていると言っているが、二人は決してそれを認めようとは思わない。いつものことだが、幸枝の毒舌に肩をすぼめることもしばしばなのだ。
「本当に、マグロが食べたかったんですか?」
「んー、そうねぇ・・・」
確かにマグロを拾ったときは、ちょうど夕飯のことを考えていた。あの日は、最初の離婚が成立し、数週間と経っていない頃だった。離婚による精神疲労と寂しさから、箱に入れられた小さな犬を見過ごすことができず、両腕に抱えて狭いアパートに連れて帰ってしまったのだ。もちろんアパートはご他聞にもれず、ペット禁止だったのだが、アパートの大家が離婚したばかりで憔悴していた久子を哀れに思い、見て見ぬ振りをしてくれたのだった。その日から、狭いアパートの中で小さな毛玉と久子との幸せな生活が始まったのだった。そして、その日の夕飯がマグロだったことを忘れないように、久子は子犬にマグロと名付けたのだった。
「なんで夕飯を忘れないようにしたんですか?」
酔っているせいか、やたら食い下がってくる直子だ。
「どうしてって・・・始めての二人の晩餐だったからよ」
「でも、拾った日は忘れてるのよね」
幸枝がおかしそうに言う。
確かにそうだ。夕飯のメニューより、拾った日を誕生にしようとか、記念日にしようと思うものだが、久子は何故か夕飯のメニューに固執したのだ。
「久子らしいよね」
幸枝が更に、面白そうに久子を見た。
「どうせおかしいわよ。いいんだもんねぇ」
久子の手がマグロの頭をなでる。拾った日を覚えていなくても、最初の離婚からの年数なら覚えている。そこから数えれば、マグロの年齢が十一歳になっていることは容易に計算できるのだ。そして、十一年もの間マグロは久子の笑顔と涙を見てきたことになる。
「それにしても、ここって動物禁止ですよね。最初の離婚のときは可哀想だから多めに見たとして、戻ってきた今も犬同伴でいいんですか?」
直子が痛いところを突いてきた。
「そこはそれ、大家さんがいないから言えることだけどね。マグロは大人しいし、可愛いから」
「ちょっと待ってよ、大家さんがいないって、あんたねー」
幸枝が声を大にして異論を唱える。
「誰が大家だと思ってるのよ!」
「そうねぇ・・・確か、田代とかっていう名前よね」
久子がとぼけて答える。
そうなのだ、築四十年の今にも潰れそうな安アパートの大家は、誰あろう田代幸枝自身なのだ。親が他界して残された唯一の財産を引き継ぎ、四部屋しかないアパートの経営をしているのだが、その四部屋も一部屋が自分の住まいで残り三部屋のうち二部屋が久子と直子の賃貸物件となっているのだ。さて、残された一部屋なのだが、いまだに借り手がつかない。なぜ借り手がつかないのかといえば、それは毎夜のごとくに繰り広げられる、この宴会にあるということを幸枝は気がついていなかった。
幸枝自身、離婚して息子と二人暮らしで散々苦労を重ねてきた。その息子も二七歳となり、工場で働いているが今ではほとんど会話がないのだ。その寂しさを埋めるのが、離婚経験者同士の久子であり、直子なのだ。
かつて、もの静かな老女に部屋を貸したが、この宴会を嫌って早々に解約されてしまった。それ以来、なかなか次の借り手がつかず、目下のところ息子の個室になってしまっている。幸枝がたまに『家賃、取ろうかしらね』とぼやいているのを久子と直子は、笑って聞いているのだった。
「その田代って、私のことじゃありませんかね!」
幸枝が胸を張って言うと、久子が大仰に驚いて見せた。
「そうでしたかぁ、知らぬこととは言いながら、ご無礼いたした」
「ご無礼ついでに、ペットの賃貸料を取るわよ」
「何をいうかねー。マグロがいるからこそ、外部の悪いヤツが入れないんだから、用心棒代をもらってもいいくらいですよ」
そうなのだ。外部からアパート内に入って来ようにも、新聞の勧誘員でさえ、一階の玄関に寝そべっているマグロを見ると近寄ってこないのだ。大きな体のせいもあるだろうが、鋭い眼光も脅威のようだ。
「大体、築四十年のつぶれ荘ですよ。いまさら、文句ありますか?大家さん」
直子が冷ややかに事の成り行きを観察していると、幸枝が大きなため息をついて、わざとらしくグラスをあおった。
「仕方ない!そのかわり、マグロはこのアパートの警備員だからね!ちゃんと、仕事しなさいよ!」
この会話は久子が出戻るたびに、当たり前のように交わされている会話なのだ。しかし、久子がアパートを引越したのと入れ替わりに入ってきた直子には、少々びっくりな会話だ。
「それにしても、つぶれ荘とは言ってくれたわねぇ。このアパートにもちゃんと名前があることをご存知?メゾン・ランポワールって言うんだからね」
確かに古びた看板に、筆文字でうっすら読める【メゾン・ランポワール】なる文字が、アパートの塀に掲げられている。が、今となっては誰もその看板に目を向けるものはいないだろう。アパートの外観は、久子が言う通り正に【つぶれ荘】なのだ。レトロと言えば聞こえはいいが、現代では大変珍しい板塀の建物。しかも、ところどころ板が外れかけている。玄関を入れば、右手に大きな靴箱があり、住人の靴が整然と並んでいる。階段を上れば、ギシギシと音がし、その音は床が腐っていることを物語っている。こんなアパートを誰が【メゾン・ランポワール】と呼ぶだろうか。
「以前から聞きたかったんですが、ランポワールってどんな意味なんですか?」
直子が真面目な顔で幸枝を見た。
「それは・・・どうしてかしらねぇ、母が蘭の花が好きだったことは知ってるけど、それと関係あるのかなぁ」
「知らないんですか?自分のアパートなのに」
直子が飽きれたように目を見張ると、幸枝が『仕方がないじゃない』と言いたげに、口を曲げて見せた。
「ランポワールねぇ。今じゃ、つぶれ荘のほうが馴染むけどねぇ」
久子が絶妙なタイミングで割って入った。
「久子!あんた離婚して口が悪くなったわねぇ」
久子との掛け合いになると、つい声が張る。決して、直子を嫌っているわけではないのだが、直子の背筋を伸ばした語り口調を聞いていると、つい声のトーンが落ちるのだ。その為、久子が割って入ってくれたのには、感謝したいくらいなのだ。
「それは、幸枝に鍛えられたからよ」
久子が楽しそうに笑って答えた。久子の横でマグロが小さく頷いて見せた。
「私のせいだって言いたいの?酷いわねぇ」
そう言いながら、マグロの目の前にスルメをちらつかせている。ちらつかせても、決して幸枝が食べ物をくれないことを知っているマグロは、見て見ぬ振りだ。
「さすが警備員!食べ物では、動じませんねぇ」
幸枝がスルメを口に持っていく。
「そうじゃないわよねぇ。幸枝がケチだって、分かってるのよね」
「酷いわねぇ、動物に人間の食べ物を与えたら、病気になるからあげないのよ」
「何だか暑くなってきましたねぇ」
直子が左手をひらひらと顔の横で振って見せた。
「そうねぇ、窓を開けようか」
久子が立って、窓を開けると暗闇からカエルの合唱が聞こえてきた。
「いい声ねぇ」
「都心まで電車で三十分、やっぱり田舎なんねすねぇ」
大きく開けた窓から、六月の風がカエルの声とともに部屋に分け入ってくる。
久子がテーブルに戻ると、直子がコップにウィスキーを注いでいるところだった。
「駅から都心まれ三十分れも、駅からバスれ三十分、んふふ〜・・・田舎ぁ」
いつの間に酔うほど飲んだのか、直子の舌が回らなくなってきている。直子がそのような飲み方をすることはまずないだけに、何かよほどのことがあったことは予測がつく。しかし、自分から相談を持ちかけてこない限り、聞いたところで簡単に自分の弱みを見せるタイプではないのだ。幸枝は久子に目配せすると、小さく頷きあった。
カエルの声が更に大きく聞こえてきた。
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