第四頁 卒業
春も近づき、大陸の北西に位置するレンゲル王国の中でもさらに北に位置するグリモワール魔法学園の周辺も近頃、だいぶ温かくなってきた。学園を取り巻く針葉樹の森も緑の深さを増し、川にはほどよく冷えた雪解け水が轟々と流れている。学園の内部も暖炉の火が消えて、代わりに温かな陽光が辺りを満たすようになっていた。
春と言えば出会いと別れの季節。ここ、グリモワール魔法学園においても当然ながら出会いと別れがある。具体的に言えば卒業と入学の季節だ。
レイルたちはいよいよ卒業を迎えようとしていた。彼らは今日だけ着用を許される真紅のマントと黒い学士帽を端正に着こなし、学園生活の間に使い込んだ練習用の杖を持って、晴れやかな表情で中庭に並んでいる。学園生活最後にして最大の晴れ舞台。卒業生の誰もが誇らしい気分で心が満たされていた。彼らのいずれもが期待に眼を光らせ、輝かしい明日を見据えている。
「では諸君、卒業おめでとう! 一、二の三!」
中庭に作られた壇上で、いつもはアウトローな雰囲気のある学園長も今日ばかりは職員用のローブをきっちりと着こなしていた。そんな彼の合図で、卒業生たちは一斉に杖を天高く放り投げる。響く歓声、喜びに弾ける卒業生たち。無数の杖は遥か上空に舞い上がり、そのまま先生たちの魔法によってどこか空の彼方へと消えていく。泣きだす者、これからの新生活に思いをはせる者など卒業生たちはそれぞれの気持ちを杖に乗せて爆発させた。中庭を感情の渦が覆い尽くして、嵐のようだ。
「卒業か……」
レイルは一人、遠くに消えていく杖を見送りながら、感慨深げに呟いた。あまり友達などは多い方ではなかったが、それでもこの学園には想い出が溢れるほどある。その一つ一つを脳裏で見返しながら、過去に思いを馳せる。眼から一筋の雫が垂れた。ぼやけた視界に変わって、いつだったかも思い出せないはずの想い出がなんとも色鮮やかに蘇る。
「レイル……」
「アメリア?」
そうして気がつくと、アメリアがいつの間にかすぐそばに立っていた。泣いてしまったのか頬が淡い桜色に染まっていて、心なしか身体を小さくしているように見える。いつも強気な彼女には珍しい、弱弱しい態度だ。
「卒業おめでとうございますわ。これからもよろしく頼みますわね」
「おめでとう。……え、これからも?」
「はい、実は私……王立図書館に行くことに致しましたの」
レイルは耳を疑った。彼は眼をパチパチとさせると、大げさな動きで後ろに仰け反り、彼女の方を改めて覗きこむ。にわかには信じがたい話だった。彼はアメリアの眼を真剣なまなざしで見つめる。しかし、ふざけている様子はなかった。いつも背中をそらして高笑いをしている印象のある彼女が、殊勝な面持ちで静かにたたずんでいる。
「ほんとに図書館に行くの? 騎士じゃなくて?」
「ええ、これからはインテリの時代ですわ。ですから図書館に行こうかと」
「うーん、なるほどね……。でも、どうしてこれからもよろしくなの?」
レイルは胡散臭げに顔をしかめた。するとアメリアは優雅に貴族風の礼をする。
「あら、レイルも王立図書館へ行くのでしょう? だからご挨拶をと思いまして」
「ん、おかしいな……。どこで聞いたか知らないけど、僕は王立図書館にはいかないよ?」
アメリアは眼を裂けそうなほど開き、顔をひきつらせると、震える手でレイルの肩を掴んだ。女にしてはかなり身長の高いアメリアと男にしては小柄なレイル。自然とアメリアがレイルを抑え込むような形となった。レイルは引き攣った顔を近づけてくるアメリアに、思わず冷や汗を流す。
「それはどういうことですの!? 確かにルーナ先生たちからレイルは図書館に行くって聞きましたわよ!?」
「図書館に行くのは間違いないんだけど……王立図書館には行かないんだよ」
「……じゃあ、どこの図書館なんですの?」
「ランブリッジってとこ」
「ランブリッジ? 聞いたことありませんわね」
アメリアの表情はなんとも疑わしげであった。まるでペテン師の話でも聞いているようだ。そんな彼女にレイルはとんでもないとばかりに手を振る。
「大陸の東にある大図書館さ。遠いからレンゲルじゃあまり有名じゃないけど、現存する世界最古にして最大の図書館なんだよ」
「へえ……初めて聞きましたわね」
「僕もあまり詳しく知らないんだけど、最近になって発掘された古代の遺跡の一種みたいだね。その関係であんまり有名じゃないみたい。僕もなんだかんだ言って、就職することになって初めて名前を聞いたぐらいだし」
「ふーん。それで、そこまで行くにはどれくらいかかりますの?」
「ざっと、魔空船で一日半。列車で行くと五日ってとこかな」
「なッ!」
途方もない辺境であった。今時それだけの時間があれば、彼らの住んでいる広大なユーパ地方のほぼ全土へ出かけることができる。アメリアは思わず唖然としてしまった。
「一体どこにあるんですの、その図書館」
「無限草原の入口あたり」
無限草原というのは、彼らの住む大陸西側のユーパ地方と大陸東のアーシア地方を隔てる恐ろしく広大な草原である。行けども行けども果てがなく、ただひたすらに何もない平地が続くという緑の砂漠。旅人たちは恐れを込めて、そこを無限草原と名付けた。今でこそこの草原を超えて東方交易に出かける商人などもいるが、昔はここから先は死の世界だといわれていたほどである。
もはや異世界のような場所。アメリアは立ちくらみでもしたように頭を手で押さえ、フラフラと倒れそうになった。とっさにレイルがその身体を支えてやる。
「大丈夫?」
「もちろんですわ、ちょっと気が遠くなってしまっただけで……。でも安心してくださいまし、この私は距離ごときに負けませんわ!」
「は、はあ……。とにかく頑張ってね?」
「はい!」
両手を大きく広げ、勢いよく抱きついてくるアメリア。レイルは何か妙な予感を感じたものの、アメリアをしっかりと受け止めて、柔らかな彼女の重さを目いっぱい堪能する。アメリアの豊かな膨らみがちょうど彼の顔をすっぽりと挟むような格好となり、レイルは思わず幸せに眼を細めた。彼といえど、そういうことに興味がないわけではないのだ。年相応には興味があるのである。まして、顔をすっぽり挟めるような大きさともなれば……。
そうしてレイルが少しだけだらしない顔をしつつ幸せを満喫していた頃。学園長室では学園長とルーナが向かい合っていた。二人ともすでにローブを着崩し、普段のラフなスタイルへと戻っている。が、その顔つきは険しい。
「学園長、本当にレイルをランブリッジに行かせて大丈夫なのですか? あそこは何やら悪い評判がありますが」
「こうするしかねえんだ。館長自ら出張ってきたのに、むげに追い返すわけにもいかなかったからな」
望遠鏡でレイルたちの様子を覗きながら、学園長は気の抜けたような返事をした。ルーナは露骨に顔を曇らせると、思わず声を上げる。
「しかし……!」
「大丈夫だよ、あいつならきっと上手くやる。俺たちはそれを見守ることしかできねえんだ。心配なのはよーくわかるが、そろそろ生徒離れするんだな」
「言いたいことはわかります、ですが私たちには生徒を守る義務があります!」
学園長は席を立った。そして、厳しい顔をしているルーナの肩に手を掛ける。
「いいか、ここから先の未来はあいつ自身のものなんだ。俺たちが導くものじゃない。あいつが自分で動き、掴むモノなんだ。わかったか?」
いつになく真剣で、心に染みるような低い声だった。声は静かな部屋の中で共鳴し、彼女の脳に深く入ってくる。温かで深みがあり、彼女はなんともいえぬ気分になる。
この男は伊達に学園長ではないのだ――ルーナは何となく理解する。彼女は完璧に学園長の言い分を認めたわけではないが、彼に「わかりました」と頭を下げた。それ以上、彼女には言う言葉がなかった。
「うむ、わかってくれてありがとさん。それじゃまたな」
「はい」
「あ、ちょっとまて!」
立ち去ろうとしたルーナを学園長は慌てて止めた。彼は振り向いたルーナに対して、照れくさそうに頭をかく。そして、鼻の下を幾分か伸ばしていた。
「実はな、さっきレイルたちを見てたらアメリアがその……胸でレイルの顔を挟んでてな。おまえさんも――」
「バカヤローー!!」
学園長の頬に、大きな紅葉ができた。涙目になりながら頬を押さえる彼をしり目に、ルーナはドシドシと足を踏み鳴らしながら部屋を出ていく。ドンと扉が閉じた。一人、部屋に取り残された学園長は、懐から小さなロケットを取り出すと、小さな声で愚痴る。
「くぅッ、世知辛れえなあ……。減るもんじゃねーんだから、ちったあサービスしてくれてもいいのによ。はあ、女にもてまくってたお前が羨ましいぜ」
学園長が見つめていたロケットには、ローブをまとった線の細い男の姿が映っていた。少し気弱にも見える柔和な顔立ちと、小柄な体格、そして何より意志の強さを感じさせる大きな瞳がレイルにそっくりな男であった――。