第三頁 封筒
振り下ろされる黒い影。アメリアの背筋が冷えた。急激に動きを緩める世界の中で、怪物の尾はゆっくりと這うような速度で迫ってくる。
足は動かなかった。じれったいほど周囲の動きは緩慢なのに、足を動かして逃げ出すことができない。
もどかしい――アメリアの心は逸る。されど足は動かず、それどころか悲鳴すら満足に上げることができない。顔ばかりが自由に動き、驚愕に醜く歪む。
「危ない!」
遠くで叫びが聞こえた。今にも押しつぶされようとしているアメリアの元へとレイルが一目散に駆けてくる。止まりそうな時間の中でなお、その動きは早かった。彼はアメリアの身体を両手で抱えると、そのまま広場の中を走り始める。
「大丈夫?」
「ええ、なんとか。……あぅ、そこは触らないでくださいまし!」
アメリアは頬を赤くすると、身体をよじるようにして悶えた。まったく無意識だったのだろうが、レイルの手はいつのまにかアメリアの膨らみをとらえていた。それどころか、制服から覗く深い渓谷に指が半分ほど埋もれてしまっている。果物のように豊かで丸いふくらみが大きくひしゃげていた。
「うわっ、ごめん!」
「し、仕方ありませんわ。許して差し上げます。それより……」
アメリアは頬を赤らめつつも、咆哮を上げている怪物に眼をやった。それに合わせるようにレイルもまた怪物の方へと振り返る。黒き巨竜をかたどった怪物は、天高く顎を掲げて、その身を誇示するように背筋が凍る叫びをあげている。その紅眼は獰猛な輝きに満ちあふれていて、物理的な破壊力を伴うような殺気がレイルたちに押し寄せてきていた。
「……サラマンダーだよね?」
「そのはず……ですわ。何故か完全に制御不能になっておりますし、見た目も変ですけれど……」
アメリアは怪物の正体について自信がなかった。今まで一度も、あのような怪物が現れたことなどなかったのだ。そんな彼女を見たレイルは大きく息をつく。
「うーん、どうやら変異種が現れたみたいだ。まったく、無茶するから」
「ど、どうしても負けたくなかったんですのよ! だから仕方なく……」
「理由はともかくとして、あれが現れたのは君の責任だよ」
「……」
アメリアはやや顔をうつむけにした。その顔には様々な感情の入り混じった、複雑で煮え切らないような表情が浮かんでいた。レイルはそんな彼女に何も言わず、広場の端の方に下ろしてやる。
すでに見物人たちはあらかた逃げ出していた。あとこの広場に残されているのはレイルとアメリアの二人だけだ。レイルはアメリアをかばうように立つと、彼女を追い払うように鋭い視線を向ける。
「さ、逃げて」
「そういうわけにはいきませんわ! わ、私がまいた種ですもの!」
「いや、君がいると邪魔なんだ。存分に戦えない」
「でも……」
「いいから、早く!」
レイルの口調はいつになく強かった。いつものんびりしている少年と同一人物とは思えないほどだ。しかし、アメリアも頑としてそこを動こうとしない。眼には強い意志の光が宿っていて、何かしらの強い責任感を感じているようだ。
「……私のことは居ないと思っていいですわ。ですから、存分に戦ってくださいまし」
「わかった。じゃあ、これから使う魔法を誰にも言わないでね?」
「口が裂けても口外しませんわ」
レイルはアメリアに深く頷きを返した。彼は巨竜の方へと眼を向けると、壮絶な殺気を真っ向から受け止める。彼は杖を手にすると、それを大地に深く突き立てた。アメリアにはそんな彼の背中が、何とも頼もしく見えた。
「いくぞ……」
レイルの眼の色が変わった。全身を波動のようなものが駈け廻り、大地はひび割れ、虚空を火花が走る。魔力だった。強大にして何物にも染まっていない無垢な魔力が彼の杖の先端へと収束していく。
天が歪み、地が震える。杖先を中心として、レイルの周囲がレンズを通したように湾曲を始める。
際限なく高まっていく魔力。次第に増していく力は近くにいたアメリアに恐怖さえ抱かせるものだった。この上なく純粋にしてこの上なく強烈な魔力の塊が、今ここに誕生しようとしている。彼女は思わず喉を鳴らして息をのんだ。その間も力は高まり続け、広場全体を裂くような裂け目がいくつも生まれる。
次の瞬間。杖先から眩い光が発せられた。周囲を焼き尽くす閃光にアメリアはおろか、遥か塔の上より広場を見下ろしていた学園長たちですら眼をそむける。光の洪水が広場を凪いでいき、巨竜までもが怯えたような叫びを上げた。
「あ……あれが……レイル?」
しばらくして視界が回復したアメリア。彼女が目にしたのは、煌く光の大剣を手に巨竜を一刀両断したレイルの姿だった――。
「ねえ、アメリア……。ちょっと近くない?」
「別にそんなことはないと思いますわよ?」
決闘から数日後。レイルは自分の隣に座っているアメリアに顔を若干ながらひきつらせていた。時刻は昼、食堂での出来事である。彼らの前の長テーブルには、ホコホコと湯気を立てる皿がずらりと並べられていた。
食堂での席は基本的に自由である。その学年に割り当てられているテーブルの席であれば、男女関係なくどこに座っても良い。なのでアメリアがレイルの隣に座っていても何ら問題はないのだが……少々不自然であった。いつもは取り巻きの女子生徒たちとともに雑談に興じながら食事を済ますのが、アメリアのスタイルなのだ。馬鹿にするためにわざわざレイルの真正面に座ることもあるが、隣に座ったことは一度もない。
新手のいやがらせか。レイルは彼女の過去の行動からそう判断した。おそらく、わざと身体の一部を当てて「レイルさんが痴漢を致しましたわ!」などと騒ぐつもりなのだろう。そう考えた彼は、ジリジリと近づいてくるアメリアに対して少しずつ距離をとる。幸い、レイルの隣は空席だ。そのまま二人はアメリアが一歩近づけばレイルが一歩遠ざかり、といった具合に移動していく。
「あの……どうして動くんですの?」
「そりゃ、アメリアがだんだん近づいてくるから動くしかないじゃないか」
「……!」
アメリアの顔がレイルに迫った。彼女の額には皺が寄っていて、眼が少し吊り上がっている。レイルの背中から滝のような汗が流れた。
「何か……悪いことでも言ったかな……?」
「わかりませんの?」
「さあ? なんのことだかさっぱり……」
その瞬間、アメリアが燃えた。彼女の身体から、何やら炎のような物が激しく噴き出す。彼女は拳を握りしめ、ピシリと骨が鳴った。
まずい――! レイルの優秀な危機察知能力は正確に彼に迫る危機をとらえた。彼はむせるのもほどほどに食事を喉に流し込むと「用事があるんだ!」といって、全速力でその場を去っていく。
「ま、待ちなさい! 話は終わってませんわ!」
「待てと言われて待つ人はいないよ!」
「きィー! 逃しませんわよ!」
数分後、アメリアからからくも逃れたレイルは西塔をほうほうの体で歩いていた。先ほど彼が「用事がある」と言ったのは嘘ではない。実際にこれから、彼は西塔の職員室で面談を行う予定だったのだ。もっとも、時間にまだたっぷりと余裕があるのは事実だったが。
「失礼します」
「あら、ずいぶん早かったじゃない。それにそんなに息切らして」
「ちょっといろいろありまして」
職員室に入ると、ルーナは時間より早く来たレイルに意外そうな顔をした。しかし、彼女はすぐさま散らかっていた机の上を片付けると、面談用の各種資料を引っ張り出し、準備を整える。レイルは彼女が準備を終えるのを待ってから、あらかじめ用意されていたイスに腰掛けた。
「えっとね、まず最初にあなたにお知らせがあるわ」
「なんですか?」
「とある図書館からあなたをぜひ採用したいって通知が来たの。何故か学園長の署名とかまで添えられてたから、ここに就職する分には反対しないわ。というか、立場上できないしね」
「ほんとですか!?」
「ええ、もちろん。嘘じゃそんなこと言わないわ」
「やったあアァ!!」
レイルの顔が喜びに弾けた。彼は飛び上がるような勢いで両手を上げ、イスから腰を浮かせると、興奮しきった様子で差し出された封筒をひったくる。そのずっしりと重い茶封筒には古風な蜜蝋で封がされていた。その表紙には大きく『ランブリッジ図書館 禁書管理部』と仰々しい字体で書かれていた――。