プロローグ ――1
ふいに風を感じ、目を開けた。
夜はもう深く、月の光が室内にさしこんでいる。俺は、そっと体を起こすと、寝るときも離さない剣を手にとった。
閉まっているはずの窓に目をやると、ふきこむ風にカーテンがゆらめいていた。それ自体は驚くことではない。俺を眠りから完全に覚醒させたのは、その窓が鍵と戸となっているはずのベランダに立つ、1人の少年だった。
「お前、何者だ」
十三になる俺より、少し下ぐらいだろうか。仮にも公爵家、そんな子供がそう易々と侵入できる屋敷ではない。しかも、この部屋は4階。どうやって上ってきたのだろうか。
否、そんなことは考える必要はない。方法などはどうでもよいのだ。この少年は刺客である――それは間違いないのだから。
「………クロス・ウィラート?」
少年が、虚ろな声で俺の名を呼ぶ。その妙に高い声に、俺はふと違和感を覚えた。
黒で統一されたパンツとシャツが、少年の身体をおおっている。太いベルトも黒。それに比べ、その肌は白く、日に当たったことがないかのようだ。その肌より目をひくのが、金色の髪と目。貴族の象徴ともいえるそれが、月の光を浴びて輝きを放っている。
(なんだ、コイツは……?)
意味不明だ。なぜ貴族のお坊ちゃまが、この屋敷に忍び込んでいる。目と声の虚ろさはなんだ。そして、彼に感じる、どうしようもない違和感――この正体は?
「返答を……求める…です……クロス・ウィラート…ですか……?」
ぞくり。
鳥肌が立った。
反射的に、剣を鞘から抜き放す。銀の輝きが目に入った瞬間、これで間違いはないと確信が浮かんだ。いや、そもそもだ。
目の前には、賊。
剣を構えないほうが、おかしいだろう。
「返答が……ないのは……肯定と、受け取る…です……」
そう呟いた直後、少年が跳ねた。その小柄な身体を、俺でも息を呑むスピードで走らせる。きらりと光が室内に走り、彼の両手にナイフが握られているのだと気づいた。
呼吸をする暇もなく、彼は俺の元にたどりつく。大振りのナイフが、叩きつけられるようにして、俺の剣と交わった。
「――ッ!」
重い。こんなやせ細った体から、どうしてこんな重い一撃が出せるのか。
戸惑っている暇もなく、今度は左手から斬撃が襲ってくる。俺は、右のナイフを相手の力を利用してずらすと、力に任せて、左のナイフごと彼を跳ね飛ばした。
「な――ッ」
思わず声がもれた。あれほど重い攻撃を放った少年が、軽々と吹き飛んだのだ。壁に当たった彼は、瞬時に再び走りだしたが、やはり一瞬、ふらりと揺れた。それでも、何の迷いもなく俺にむかってくる。今度は俺も、力まかせではなく、二振りのナイフの舞に合わせて、剣を動かした。
それは、はたから見れば、ダンスを踊っているようだっただろう。
(なんだ、コイツ……)
彼の攻撃に翻弄されながらも、先ほどと同じ思考が、頭をよぎる。だが、今度は単なる疑問ではなく、恐怖だ。
なんだ、コイツは。
いやしくも天才と呼ばれ、騎士団の連中でも、敵うものはなかなかいないとされる俺と、同等に剣を交える。俺のほうが押しているとはいえ、気を抜けば隙をつかれるだろう。
無表情からは想像もできないほど、繰り出される攻撃は激しい。
コイツの虚ろな目には、一体何が映っているんだ……?
「あっ」
ふいに、舞のリズムが崩れた。
自然に、いや、先ほどまでの動きを知っているならば、ありえないほど不自然に、少年が転んだ。受身もとれず、無様に。かすかにもれた声が、それが少年にとっても、想定外であると告げる。
それでも、彼は手の力だけで跳ね起きてみせた。
だが、そのときに、ちらりとそれた視線が、彼の本当の欲求を表している。
「なあ……お前、腹が減っているんじゃないのか」
彼が目をやったのは、侍女がお夜食にと置いていき、片付け忘れていったクッキーだった。
それを見なくても、なんとなく、感じていた。戦う相手にそんなことを考える必要はないと思っていたが。ふらついている走行、軽々と跳ね飛ばされた体重。いや、そのやせ細った手足をみれば、すぐに予想できるだろう。
図星だったようで、少年が固まる。
本来ならば、その隙に俺は彼を捕らえるべきだ。その考えは、確かにあったし、そうするつもりだった。
いやむしろ、この機会を逃せば、一生俺は彼を捕らえることはできないだろう。それはわかっていた。今まで互角に戦えていたのは、少年が飢えていて、本来の力を出せなかったから。そんなことは、簡単に想像がついた。
本当に、なぜあんなことを言ってしまったのか、俺にはわからない。敵に力を与えること、もしかしたら逆手にとられて、今度こそ殺されたかもしれないのに。
「……食べていいぞ、あれ」
「――!」
パッと、少年が顔をあげた。相変わらずの無表情だが、わずかに驚きと期待が浮かんでいる気がする。
「……でも…お父様が……命令を、完遂する…まで……駄目…だと……」
「お父様?」
もしかして、と嫌な予感がした。彼の容姿に、ひとつだけ心あたりがあったのだ。
金髪にナイフ使い、それに貴族の子供。確かに話が合う。
だが、まさかあの有名な暗殺者が、こんな幼子だと誰が思うだろう。
「俺と数歳しか違わないじゃないか……」
「……?」
俺の呟きに、彼は首をかしげた。すでに攻撃の意思は失っているようで、ナイフはベルトにつけられた鞘におさまっている。
彼は物欲しげにクッキーを見つめているが、決して手を出そうとはしなかった。
父親の命令――おそらく、俺を殺せというもの――を遂行しなければ、彼は何にもありつけない。しかし、すでに俺を殺す意思を失っている。
膠着状態。
きっかけをつくったとはいえ、腹立たしくなった。
「いいだろ」
「……?」
「お前はクロス・ウィラートを殺すため仕方なく、栄養補給のために、たまたま置いてあった菓子を口にした。だが残念ながら、クロス・ウィラートを見つけることはできなかった。これでいいだろ」
我ながら、稚拙な言い訳だと思う。だが、肝心なのはそんなことではない。少年が、食べ物を口にしてもよいと、自分にする言い訳――必要なのは、それだけなのだ。
「……」
「うわっ」
少年が、無言で床を蹴る。思わず半歩さがった俺を余所に、クッキーを両手で乱暴につかむと、
「……っ…う、うぅ……っく…」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、頬張った。
貴族の印を持ちながら、下賤のように汚い食べ方。それを見れば、彼がどのように育てられてきたのか、予想できるというものだ。
けれど、俺は何も言わなかった。静かに、彼の食事を見守った。
やがて、クッキーを全てたいらげると、彼は俺に向き直った。
そして、ようやくそのとき、俺は感じていた違和感の正体に気づいたのだ。
(コイツ、まさか……)
妙に高い声、細い手足、なめらかな肢体、ほんのわずかな膨らみ。
「……ありがとう」
彼――否、彼女は、小さく礼を言うと、窓の外にその姿を消した。
これが、俺とユウ――ユウレシーナ・バルティスとの、最初の邂逅だ。
図らずも、このとき俺は、この生粋の暗殺者の、生涯二回きりの命令違反、その一回目のきっかけをつくってしまったのである。
読んでくださって、ありがとうございます!!
プロローグはシリアスですが、本編はコメディになると思います。
・・・・・・たぶん。